※アポリア青年期(プラシド)と彼女


 散乱しているガラスをパキパキと鳴らして歩を進める。朽ちた外壁は大半が崩れ落ちて鉄骨を露にし、床は泥にまみれて、粘着質な音を立てた。
 彼は慎重に歩みながら奥を目指し、時折壁に背を当てて、構えた銃の口を周囲に向けては、またゆっくりゆっくりと、長い廊下を歩んでいくのだった。
 天井が崩れていて、濁った灰色の空を拝むことができた。重厚な雲と、周囲を霞めさせるモヤのせいで、太陽の光はここへは届かない。故に草木は枯れ、足元は不快な感覚に覆われていた。
 壁だけが生えるように残った醜い廊下を、彼はただひたすらに歩んで行く。すると、ある一点を境に天井が生まれ、やっと、ここは建物なのだと認識することが出来た。
 不意に、後ろを振り返る。先ほどまで自分が立っていたあの地点。剥がれた壁と、無惨な床が、完全に形を消すのを待っているかのように思えた。そして彼の胸の内は、氷水でも浴びたように、ぎゅっと締め付けられるのだった。


 天井がある部分は、それでもまだ建物の形を作っていた。見ると、正面には半分が崩れ落ちた螺旋の階段があり、ボロボロと粉塵を落としている。彼は少し躊躇した後、腰の辺りから、先に金具のついたロープを取りだし、慎重にその紐を上の階へと引っ掻けた。
 掻けた部位が、ぎっ、と年期の入った音を立てたため不安に駆られたが、どうやら人一人掴まる分には問題ないらしい。時間をかけてそこを上りきると、途端、壁の一部にぽっかりと穴が空いていた。否、脇に半壊した扉があることから、そこは部屋への入り口なのだろう。彼は扉を蹴り飛ばすと、勢いよくその部屋へと侵入し、銃を向けた。
 そして彼は息を飲んだ。
 見たことのない光景だった。そこは広い空間になっていて、天井は高く、壁は緩やかな曲線を描いている。天井には所々穴が開いて、僅ながらの外からの光が、スポットライトのように当たっていた。
 中心には、舞台らしき場所があった。舞台にはくすんだ赤い幕が落ちるように垂れ、舞台全体がもの悲しく見える。床全体は下り階段のように段差になっていて、それら全てが舞台の方に向けられていた。
 天井にあったらしい豪華なシャンデリアが床に落下して破片をばらまいていた。そのせいで、部屋の中心辺りは完全に崩壊している。シャンデリアだけではなく、全体も豪華絢爛であったことは窺い知れるのだが、時と共に風化したせいで、今はモノクロ映画のように単調に見えた。
 彼はその情景に、構えていた銃を無意識のうちに下ろしていた。ぼんやりとした頭のまま、一段一段階段を下って行く。普段の精悍な顔つきはどこかに忘れてしまったようで、年相応に、ルビー色の瞳は輝いているのだった。
 ここは、この時代の建物ではなかった。既に居住地からは見放された旧市街地にあった廃墟で、廃れる前の姿を彼は知らない。そこに広がる光景に、彼はただただ目を奪われた。
 数段下っていくと、脇の方で、埃と泥にまみれて何かが輝いているのが見えた。彼はしゃがんでそれを拾い上げ、手が汚れるのも構わずに丁寧にそれらを払い落とす。
 見えてきたのは錆びた色で、しかし、まだところどころ壮観な金色が輝いている。横幅20センチほどの箱であるようだった。詰まっていた泥を適当な破片で掻き出して、彼はその箱の蓋を開けた。
 廃墟に相応しくない、清く澄んだ音が空気を揺らした。思わず彼は息を飲んで、それから両手に持った箱の、オルゴールの音色に聞き入る。自分には似合わないのだと自覚しつつも、それがあまりにも美しく、また穏やかなものであったから、彼は暫くその蓋を閉じられないでいるのだった。

「××××!」

凛とした少女の声だった。
 自身の名前を呼んだそれに、彼はびくりと肩を跳ね上げて、ばたんとオルゴールの蓋を閉ざす。途端に高く響いていた旋律は消え失せて、何か用かと、動揺を隠すかのようにぶっきらぼうに返答した。

「なに言ってんのさ、報告は義務だろう? あ、あたしが来たら不味いことでもあったの?」

勝ち気に少女は微笑んで、長い髪が背中でぴょんと揺れる。つり目がちの大きな瞳が、悪戯っ子のように細くなった。

「そんなわけないだろう」

「じゃあなんでそんな慌てるわけ? 何かあたしに隠してるだろう? なぁ、言ってごらんて。仲間には言わないからさぁ」

しつこく詰め寄る少女に、彼は面倒くさそうに目を細めて、どう言い訳したものかと唇を噛む。しかし、自分よりも遥かに知恵の勝る彼女のことを思うと、到底言い負かすことが出来ると思えずに、誤魔化すように彼女の携える大きな銃を奪い取った。
 何すんの! と彼女がキンと響く声で喚くのも構わずに、彼は奪った武器を床に置き、手持ちぶさたとなった彼女の手の中に、先ほどのオルゴールを押しつけた。
 きょとんとして、少女は手の中のオルゴールをしげしげと見つめる。彼女が説明を求めているのはわかるのだが、どう言っていいのかもわからずに、彼は視線を反らすのだった。
 少女はオルゴールの蓋を開けた。再びその空間を、澄んだ高い旋律が満たす。大きく瞳を見開いて、彼女はその音色に感嘆の吐息を漏らした。高い天井に音が反響し、さざ波が寄せるように幾重にもなって音が返ってくる様は幻想的であった。

「……これ、あたしにくれるの?」

オルゴールの音色に聞き入りながら、少女は少年に問いかける。そっぽを向いていた彼はちらとだけ彼女を見て、あぁ、とまたぶっきらぼうに返事を返した。
 そして少女は、まだあどけない表情で、心底幸せそうに笑むのだった。

「ありがとう。本当に、ありがとう!」

そして彼は思うのである。あぁ、やはり自分は彼女が好きなのだと。
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