人間が自分で自覚できる感情の範囲は実に狭い。彼らが全てだと思うそれは、実は氷山の一角にすぎないのだと、かつてどこかの本で読んだことがあった。しかし、そのことを覚えていたのは、当時、自分にそういった心当たりがあったからではなく、本当にたまたま、それこそ、幼いころの記憶の一部として、不意に思い出しただけにすぎないことだった。
 だが、今になって、改めて感情というものは不思議なものだと思う。身近なとこでいうならば、好意と呼ぶ感情だ。あの感情はまこと不可思議で、理解の届かぬまま、自分でも持て余しているほどだ。
 自分はそれをたまらなく好きで好きで、できることなら自分の掌中に入れてそっと閉じ込めておきたい、壊れぬようにガラスに入れて、いつも見えるような位置に、ありのままの姿で飾っておきたいと思っているほどだが、しかし、それほど好感を持っていながら、俺にはそれが何故好きなのか、どうして好きになったのか、まるで思い当たる節がないのだ。
 一般的にはそれがよくある好意の感情だとクロウは言った。だが、俺はそれに同意しかねる。俺の抱くこれは一般論で片付けられる類ではないのだから。
 俺が、思いのたけを全て語ったとして、そうしたら、悲劇にも聞き手にまわってしまった誰かは、俺に何故だと問うだろう。俺はその問いに、答えられない自信があった。


 思いに気づいたのは、果たしていつのことだったか。少なくとも、俺がその好意の対象に出会ったのは、まだサテライトで好きなように遊びまわっていた時期だったから、かれこれ四年ほど前になると思う。そのときに俺は、太陽のような瞳を持った男に出会った。くすんで赤茶けた視界のなかで、その男だけが輝いて見えた。その光に、俺やクロウ、ジャックは惹かれ、羽虫のように吸い寄せられた。
 男は名を鬼柳京介と名乗った。最初は、クロウやジャック同様に下の名前で、京介と呼ぼうと思っていたのだが、彼は親しい友人というものに慣れておらず、照れるからやめてほしいとのことで、結局、呼び名は鬼柳という苗字におさまった。名前で呼んだだけであるのに、はにかむように笑う鬼柳はなんだかいじらしくて、純真な男だと思った。年上の男にそんな思いを抱くのは、変であっただろうか。
 俺たちはチームを組んで、サテライト制覇に乗り出した。無謀だったと今でも思うが、言い出した鬼柳の熱弁は、俺の未来に希望を映し出すものだった。だから、たとえそれがどんなに未熟な俺たちの無分別な行いだったとしても、そこには生きるための意味があった。もし今の俺が鬼柳に出会ったとしても、同じ結論をうち出すだろう。それがなければ、鬼柳がいなければ、今の俺はないに等しい。
 鬼柳というのは途方もない魅力を持ち合わせた人間だった。それは生まれながらの才能であったにちがいない。俺はその才能に魅了され、じわりじわりと、彼の世界にのめり込んでいった。
 鬼柳は俺の世界を変えてくれたはじめての男だ。その衝撃は、生半可なものではなかった。無色な世界に色を与え、見えなかった世界を指差して、そこにはあんな面白いものがあるのだと提示してくれる鬼柳は、いつの間にか、俺の世界の中心になっていた。俺の全ての中心は、いつの間にか鬼柳だった。


 明確な好意として俺が自覚をもったのは、もうすぐサテライト制覇を達成しようかという時期だった。
 鬼柳が怪我をしたときがあった。とは言っても、ギャングの反逆にあっただとかそんな大げさなものではなくて、ただ、飛び出した鉄釘に指を引っ掛けて、指先に血が滲んだ程度のものだった。恨めしそうに鬼柳が舌を打ったのを聞いて顔をあげると、丁度鬼柳が、ぺろりと、その滲んだ血を舐めとっているところだった。
 鬼柳は肌が白い。その白く細く、しかし男らしく骨ばった指先に、唾液で濡れた舌を這わせる様は、なんとも妖艶に映ったのだ。あぁ、そのときほど、この世界に造形美を感じたことはない。俺は無機質な機械も好きだが、血の通った暖かさと、図ることのできない緩やかなしなりは、無機物には到底再現できないもので、それは有機物の、限りない魅力に思えた。
 なめらかに天を指すひとさし指と、顎にそっと触れている親指。しかし最も色欲をかりたてるのは、関節を浮かび上がらせるその他の指だ。手の甲に浮かび上がるそのなだらかで、かつはっきりとしたおうとつは、なんと美しいものだろう!
 普段、カードを捲るその動作すらあでやかであるのに、人間にしか出来ない、その複雑な形で指をおって静止する様は、妖美であるというより他なかった。張りのある艶やかな白い肌。血色豊かな爪の先は、その手が彫刻ではなく自然の産物だと訴えているようだ。第二関節で曲がった指先により生み出された骨の緩急は、激しく俺を欲情させた。今まで、そんな感情とは無縁であったというのに。そのとき俺は、その感情をどうしたら良いのかわからずに、ただ混乱の最中にいた。
 そんな俺に気づいた様子もなく、鬼柳は愚痴をこぼしながら、絆創膏はどこに置いたかと俺に聞いた。俺は、確かジャックがこの間使ってそのままな気がすると、努めて平生に言ったが、本当はそれどころではなかった。かつてここまで体が酸素を求めたことがあったかというほどに、荒々しく心臓が鼓動していた。それに伴い、呼吸が痛いまでに苦しくなって、俺はそれを抑えるのに精一杯だった。
 無意識の衝動を抑えるのは、想像以上に苦痛だった。崩れ落ちそうな理性を支えながら、俺は鬼柳の愚痴に付き合った。あぁそうだな、使ったら元に戻すように、俺からも言っておこう。そう返答するのに、どれだけの苦痛を味わったことか。背中に垂れた嫌な汗の感覚を、俺は今でも覚えている。
 鬼柳のなまめかしい指が、世界にひとつだけの、絶対唯一の魅力を兼ね備えた指がそこにあるのだ。それも、血液という、これ以上ない生の証を伴って! それが自分のものにならないことは俺でも理解していたし、それは鬼柳のものだから美しいのだということも理解していた。だから俺はせめて、その指に、手に触れてみたいと思った。いや、触れるだけでは満足できなかった。俺は、人間が進化のなかで獲得した曲線美を味わうように、そこに血を絡めながら、そっと舐めあげてしまいたいと思ったのだ。
 そう自覚してしまうと、理性はあっという間に悲鳴をあげてた。鬼柳の指にだけ目が奪われる。舌先でゆっくり指の輪郭をなぞり、それから指の腹にやわらかく吸い付いて、血液の味に酔いしれながら、爪の先までその造形美を味わいたい! 鬼柳の指の感触を想像して、ぞくぞくと肌が泡立つのを感じた。
 どうしてそんな衝動に襲われたのかはわからない。ただ俺は、自制の利かないほど、鬼柳の指を渇望した。彼の指を口に含んで、舌を這わせて、浮き出る骨を撫でながら、その美しさを堪能したかった。
 だが、そんなことが鬼柳に言えるはずもなかった。鬼柳にそんなことを言えば、友人というこの居場所も失ってしまうだろう。それは俺には、耐えられないことだった。しかし、湧きあがる衝動は容赦なく俺を蝕んだ。心臓が痛い。無理矢理押さえつけた心が痛い。震える体を、鬼柳の見えないところで抱いた。
 鬼柳が、ようやく見つけた絆創膏を持って、俺の前に座った。鬼柳は少し思案したあと、あろうことか俺の目の前にその指を突き出した。舐めたくて撫でたくて欲しくて仕方のないその手を、彼自ら差し出したのだ。そして鬼柳はいつもの笑顔で、無邪気に、やって、と俺に言った。軽く眩暈がしたのは、気のせいではなかったはずだ。
 ここで不自然に対応してはいけないと、震えを抑えながら絆創膏を受取った。鬼柳はそんな俺に気付いた風もなく、左手で絆創膏を巻くだなんてそんな器用なマネは出来ないと言った。頼むから、それくらいは自分でやってほしかった。必然的に、俺の視線は鬼柳の指をなぞる。滲んだ傷口と、それに相反する肌の色。間近で見ると、その指が確かに生きたものであると実感して、よけいに性的に感じた。俺の理性はもう限界だった。
 絆創膏を鬼柳に返す間もなく、俺は自分を抱きながら、机の上に突っ伏した。ガクガクと足が震えて、こぼす吐息は熱があるかのように熱く感じた。鬼柳の指先を唇で啄んで、甘く噛んだあとに、舌先で愛撫することができたのなら! このまま鬼柳の手に触れれば、俺はその願望を実行してしまいそうな気がした。
 鬼柳が不審そうに、また心配そうに俺を見ていた。おい、どうした? と問う声は優しい。俺は少し考えたあと、傷口を見るのは苦手なのだと説明した。実際そんなことはなかったのだが、それ以外の言い訳は思いつかなかった。まさか本当のことを言うわけにもいかないだろう。
 そしてそれを聞いた鬼柳は、はじめて知ったというように目を丸めて、知らなかった、悪い事をした、すまなかったと謝った。それから傷ついた自分の手を、見えない位置に隠してくれた。鬼柳に謝らせてしまったことは心苦しいが、そうしてくれることは、大層ありがたかった。
 その後、鬼柳は自分で手当てを施して、またそれ以降、チームをまとめ上げていた鬼柳が、俺に傷口を見せることはなかった。俺の理性は、鬼柳のその行為によって救われていた。
 俺たちの関係は、微妙に歪みながらも、なんとかそれからも続いていた。


 俺が好意を寄せるもの。この世界で最も恋い焦がれているもの。それは、俺の世界の中心であった鬼柳の、その美しい指だった。
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