手を引いてくれた男がいた。暗い水底にたゆたうような感覚を、すっと引き離してしまうような男がいた。
 男は彼の救世主だ。太陽の瞳に澄んだ青空のような髪をもった男は、確かに彼の救世主だった。


 鬼柳が眠っていた。布団を被り、静かな寝息をたてて、安らかな表情で鬼柳は眠っていた。月の光だけという、わずかな光源のなかで、遊星はそれを見下げている。
 伸びた鬼柳の髪が、ゆるく月の光を反射して、銀色につやめいていた。遊星はそれを美しく思い、またそれを、悲しいと感じる。どうしようもなく切なくなって、彼は、そっと目を伏せた。自分の髪は、あの頃となにも変わらないというのに。
 クラッシュタウン、もとい、サティスファクションタウンの復興のために、鬼柳はここに残ると言った。その言葉に寂しさを感じつつも、当初はそれに、ある種の誇らしさを感じたものだった。自分が憧れ、信じた男は、こうしてまた、多くの人間の道標となるのだと。またどこかの誰かの、手を引く存在になってくれるのだと。彼はまた、元通りの彼になってくれるのだと、そう信じた。
 だが、実際は。どうだろう、今の彼は。

「鬼柳」

ひとつ名前を呼んでみるが、それは穏やかな吐息に溶けてゆくばかりだった。
 過去の罪に縛られて、死に捕らわれた鬼柳は、睡眠が苦痛であると言った。死にもっとも近く、だが死にもっとも遠ざかる矛盾に満ちたその行為に、耐えられないと遊星に告げた。
 しかし、過去のしがらみから解放された今。彼の寝顔は安らかで、なおかつ美しい。元より中性的だった顔立ちは、伸びた髪も相成ってより中性的に、また、落ち着いた大人の冷静さも、醸し出しているように思えた。

「鬼柳、どうしてお前は、俺の気持ちをわかってくれないんだ……」

伸びた髪は、鬼柳の成長の証なのかもしれない。だが、そう認識すると同時に、胸に迫りくるこの孤独感は、いったいなんだろうか。

「寂しいんだ。お前がいなくなってしまって、俺は、とても」

寂しい。遊星の唇が、悲痛に満ちた声を伴ってそう動く。
 返事がないのをわかっていたように、遊星は鬼柳の眠るベッドに乗り上げた。鬼柳の顔の脇に手をついて、その身体の上を、遊星の足がまたぐ。
 気配に気づいてか、薄い布団のなかで、鬼柳が身じろぎをした。念のため、遊星は彼の名を呼んでみるが、その目蓋は未だ開かない。町の復興のために酷使した肉体は、よほど疲れているのだろう。
 鬼柳が起きないことを確認すると、遊星は自身の腰に手をまわし、工具が入れてあるポーチから、ひとつのハサミを取り出した。なんの変哲もない、一般的なハサミだが、月光を受けて銀色に光る刀身は、恐ろしい凶器であるのだと、体現しているかのようだった。遊星はそれを、右手で握る。

「きりゅう」

もう一度、暗闇の中で遊星は彼を呼ぶ。先ほどと違って、耳に絡まりつくような声音である。
 異様な気配を察知してか、それまで起きる様子のなかった鬼柳が、気だるげに、その太陽の瞳をのぞかせた。うまく焦点の合っていないそれを、遊星の藍色の瞳が見つめかえす。

「ん、遊星……?」

まだ眠そうに目を細めながら、鬼柳の掠れた声は、こんな時間にどうした、と言葉を続けた。だが、遊星は何も言わない。怪訝そうに揺らいだ瞳は、刹那、大きく見開かれた。

「ゆう、せ……?」

鬼柳の瞳に映ったのは、無表情のまま、凶器を振り上げる親友の姿だった。

「あぁ、起こしてすまない。だが、ちょうどよかった」

「は、いや、なに言って……っ、なにしてんだよ、遊星……!」

眠りに微睡んでいた鬼柳の脳は、一気に底の方から冷えていった。指先を震わすその恐怖の正体は、決して凶器に対する恐怖ではない。凶器を構える遊星の、理由や意図がまるでわからないことへの恐怖だ。
 しかしそうは言っても、その身に危機がせまっていることは明白で。鬼柳は身を起こすと、手で体を支えながら、じりじりと遊星から距離をとった。だが遊星は、それを許さぬように詰め寄ってゆく。遊星の足は、完全に鬼柳の下半身の動きを封じていた。

「やめてくれ遊星……! どうしたんだよ……!」

すると遊星は、ことさら悲しそうな顔をするのだ。泣きたいのは、鬼柳の方であるのに。

「変わってしまったのは、お前の方だろう? 鬼柳……」

もう一度、鬼柳の脇に手をついて、遊星は鬼柳から逃げ場を断つ。見上げる鬼柳は唇を震わせて、何故だと、その黄金の瞳が訴えていた。
 遊星は、あの頃と比べて、ずっと伸びてしまった鬼柳の前髪をかきあげた。遊星は、以前の鬼柳の前髪が好きだった。黄金を隠さない前髪が好きだったのだ。

「遊星……お前は俺を、許してはいないのか……?」

不意に、落ち着いた声で鬼柳がそう問いかけた。その表情は、悲痛に歪んでいる。それは、親友に命を狙われる悲しみか。それとも、未だ断ち切れない過去への悲しみだろうか。

「ああ、俺はお前に、酷いことをたくさんした。酷いことを、たくさん言った。許してもらおうという考えが、まずひとつの過ちなんだろう。少し前の俺だったら、醜く生き延びたこの命を、喜んでお前に差し出しただろう。
 けど、けどな、今は少し、困るんだよ。守るものができちまったんだ。贖罪、なのかもしれない。でも俺は確かに、あいつらを守ってやりたいんだ。まだもう少し、生きていたいんだよ、遊星……!」

震える唇で紡ぎだした告白を、遊星はどこか、冷めた気持ちで聞いていた。そんなことは、彼にはどうでもよかったのだ。ただ彼が求めるのは、かつての輝きをもった鬼柳なのだから。
 前髪を撫でつけていた手で、遊星は鬼柳のうしろ髪を掴むと、それを少し高い位置へと持ち上げた。それに伴い、鬼柳の頭も引っ張られる。苦痛か恐怖か、鬼柳が小さく悲鳴をこぼした。

「ゆうせ……! やめ……っ!!」

遊星がハサミをこちらへ向ける。条件反射で鬼柳は目を閉じて、身をすくめる。死に直面した絶望感に、頭皮の痛みはまるで吹き飛んでいた。
 しゃき、しゃきと、柔らかい感触がしたかと思った。何かを切っているのはわかるのだが、それが何かはまるでわからない。そして数秒後、不意に鬼柳は頭皮の痛みから解放され、力なく、ベッド脇の壁に体重をあずけた。何がおきたかわからぬまま、鬼柳はただ、唖然としていた。
 いったい何が起きたのか。鬼柳が理解する前に、その身体に遊星が抱きついた。そして遊星の両手は、鬼柳の頭を抱きかかえ、何度もその髪を愛撫する。時おり顔を押しつけて、いとおしいとばかりに匂いをかいでいる。
 鬼柳がふと見ると、ベッドの上に、ハサミが放置され、シーツの上には長い髪が散乱していた。そういえば首筋が涼しいと、鬼柳はそこに手を伸ばす。あったはずの長い髪の毛は、既にそこに存在していなかった。散らばった髪の毛は、紛れもなく鬼柳のものだった。

「あぁ、やっと……」

混乱する鬼柳を抱きながら、遊星は吐息混じりの声をこぼす。

「これでやっと、昔の鬼柳だ……」

死人のような瞳は、再びいつかのように前を見据え。首筋で揺れる空色の髪は、遊星が、かつて信頼し敬愛した、救世主のものだった。
 短い髪を携えた鬼柳は、確かに彼の、救世主の姿だっだ。



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