酷く狼狽していた。わなわなと震える体は、意識による支配など受けようとせず、鬼柳は呻きながら頭を掴んで、そしてもがくようにその部位をかきむしった。混乱と混沌に満ちている。ざわめき立つ思考回路は、じわりじわりと彼の精神を侵食し、彼はまたそれを振り払うように、沈殿する感情を空中へと吐き出した。

「あぁ……違う、違う、こんなはずじゃなかったんだ。だから……いや、違う。俺は……!」

違う違うと、壊れた人形のように繰り返す。なんて痛々しいと、それを見た人は言うだろう。狂っていると、それに気がついた人は言うだろう。事実そう言って、彼の仲間は彼の元を去っていた。その事実は、更に鬼柳自身を追い詰めていた。

「なにが間違いだったんだ……あぁ、わからない……何故失敗した。どうしてまた失敗した。わからない……わからない……」

意識の届かない深い水底で、黒い塊が渦を巻いているのを、鬼柳は感じていた。その正体はわからないが、それらは次第に肥大していき、今にも自分の中から吐き出されそうとされている。腹の底に飼った衝動を押さえつけるのは苛酷なことだった。内側から食うように這い上がってくる何かは、鬼柳をひどく恐怖させ、そしてまた言い様のないほどに苦しめる。
 鬼柳はそれを解放したかった。今までの自分を否定しかねないそれを、自分の外側へと逃がしてしまいたかった。苦悩を理解してほしかった。他人に、問題の解決を託したかった。彼はただそれだけだった。
 けれど彼の友人は、蔑むような視線を向けて、鬼柳から離れていった。彼の頭は混乱に満ちた。何故だ何故だと体を引っ掻き回すも、答えはどこからも現れなかった。鬼柳には、どうしたら自分が欲しいものを手に入れられるのか、それがまるでわからなかった。もがけばもがくほど零れ落ちていくそれらに、彼は発狂してしまいそうだった。
 泣きそうな声で吐露していた鬼柳は、急に言葉を押し殺し、そしてまた、異常なまでに体を震わせた。肩が何度も上下を繰り返し、ヒッ、ヒッ、と上擦った声が口の端から洩れている。鬼柳は笑っていた。それを笑いと表現するのが正確かどうかはわからないが、鬼柳は目を見開き、口を吊り上げながら、喉の奥を揺らしていた。

「そうだ……俺は、何も間違っちゃいねぇ!奴らが!奴らが理解に乏しい下等な人種ってだけだ!あぁ、そうだ!だから次はきっと上手くいく!なぁそうだろう、ゆうせぇ!」

恐ろしい形相で鬼柳は叫び、それを静かに見守っていた遊星は、ただ小さく、以前の面影のない彼の名前を呼んだ。
 遊星が鬼柳と二人きりになった当初から、鬼柳の精神状態は危ういものがあった。当時の彼は、仲間という存在に異常なまでに執着しており、遊星は彼に、何度も仲間であることを確認させられた。彼のために煙草の火を腕に押しつけたことだってあるし、彼の手首から流れる血を舐めてやったことだってある。大概自分も異常なのだと自覚はしているのだが、それで以前の明るい彼に戻ってくれるのなら、それが異常だろうと正常だろうと、遊星にはどうでもよかった。
 しかし結果は。鬼柳は堕ちていくばかりだった。半ば自棄になっているのか、近頃彼はひとりでデュエルギャングの元へ乗り込み、そしてボロボロの状態で帰ってくる。そしていつも、遊星の足元で、彼は蹲って狂乱し、そして最後には、歪んだ笑顔を遊星に向けるのだった。その瞬間が、遊星には苦痛でたまらない。
 鬼柳の白い頬に痛々しく咲いた鬱血の痕に、指先だけで触れた。ここまで腫れ上がっているのなら、少し触れただけで傷口はビリビリと震えるだろうに、鬼柳は、そんな素振りはまるで見せない。痛みを覚えたのは、どちらかと言えば遊星の方だった。

「まだやるのか、鬼柳」

小さく問えば、鬼柳は心外だと言わんばかりに目を見開き、そして膝を立てて、遊星の腕を掴んだ。彼の目蓋が、はしった痛みにピクリと上下する。鬼柳の細い指が、彼の腕にギリギリと食い込んでいた。

「なに言ってんだよ……!こんなんで、俺が、満足できると思ってんのか!あぁ!?」

「……っ、すまない」

すると鬼柳はまた笑って、ゆっくりひとつひとつ、食い込ませた指を抜いた。患部が赤く変色し、空気と触れた途端に、じわりと痛みが波紋のように広がっていく。遊星は、自分の心が悲痛な声をあげるのを聞いた。痛みを訴えるのは、腕ではない。じくじくと膿んだ彼の内側だ。それは具体的な傷口をもたないだけに、殊更厄介に彼を苦しめる。
 鬼柳が間違っていることも、自分が間違っていることも、遊星はわかっていた。それでいてこの関係を続けたままであるから、彼の傷口はいつまでも開いたままだ。そうしていつかは腐敗していくのだろう。死んでいつかは腐り落ちていくのだろう。それを思うと、遊星はどうしようもない気持ちになる。わかっている、わかっているのだ。けれど、もし自分が鬼柳を拒絶したら。思うだけで戦慄する。本当にひとりになったとき、鬼柳はどうなってしまうのだろう。遊星はその結末が恐ろしい。だから彼は、いつまでもありのままの鬼柳を受け止め続けるのだ。


***


 その日も鬼柳は傷だらけで帰ってきた。衰弱しているのか、彼はぐったりとしたまま動かず、しかしぶつぶつと何かを呟いて、泣いているのかと顔を覗けば、彼は何とも言えない惰弱な表情を浮かべて笑っているのだった。
 頬の傷が心配で、遊星は奥から簡易な救急箱を取ってくると、消毒液を塗って、白いガーゼをあててやった。切れた唇から流れた血も拭ったが、鬼柳は痛みを訴えることなく、時おり壊れたように笑うだけだった。

「鬼柳、もう無茶をするのは止めてくれ。せめて傷が治るまで休んでくれないか」

「……お前も、そういうことを言うのかゆうせぇ、ジャックやクロウと同じだな。ヒッ、ヒャハハハ!」

「そうじゃない。お前の体が心配なだけだ」

「ヒヒッ、なに言ってんだお前。なにも問題なんてねぇ。何もかも順調だ。そうだろう?なぁ」

決してそうには見えなかった。だから遊星は、震える喉を押さえて口をつぐむ。否定することは、怖くて出来なかった。だからと言って、肯定することも出来なかった。
 それを察してか、鬼柳は途端に情けない顔をした。情緒不安定な彼に、遊星は一瞬、焦りの感情を顔に浮かせる。鬼柳は、先ほどまでの狂気に満ちた顔が嘘のように、すがるように遊星を見上げていた。

「なぁ遊星、もう一回だ、もう一回あればきっとあいつらに勝てる。だから、なぁ、ゆうせぇ」

ねだるような声音は、いつかの無邪気な彼を思い出させて。あぁ、あれは、クロウと鬼柳がくだらないやり取りをしていた時だっただろうか。甘いデザートが食べたいと、子どものように駄々をこねる彼は、確かこんな声音をしていた。クロウが怒鳴り、ジャックが呆れたように笑い、そして遊星もまた、静かに微笑んでいたのを覚えている。四人であげた笑い声が、頭のなかで虚しく反響して、消えた。
 無意味な期待だと、遊星自身もどこかで思っているのかもしれない。けれど、切実に過去の彼の姿を望む遊星は、その面影を手放すことは出来なかった。遊星は、鬼柳の目を悲しげに見つめながら、一度だけこくりと頷いた。鬼柳の死んだ目に、一瞬だけ光が宿ったのが見えた。

「俺をわかってくれるのは、お前だけだ、遊星」

嬉しそうに鬼柳は目を細める。遊星の膿んだ傷口が、くずりと音をたてた。


***


 鬼柳の顔に、また新たな傷が出来た。顔だけでなく、既に全身が打撲と鬱血に彩られていて、さすがに身に堪えたのか、今日は大人しく横になっている。
 おそらく鬼柳は、デュエルには負けていないのだ。しかしその後報復をくらって、そしてこうして傷だらけになっているに過ぎない。彼は腕っぷしは強い方だが、いかんせん多勢に無勢では、袋叩きにされるのが関の山なのだろう。単身、荒くれ者集団であるデュエルギャングの元へと乗り込めば、そうなることは、目に見えてわかっている。それは鬼柳だって同じはずなのに、彼は決してそれを止めようとはしなかった。

「ゆうせぇ……」

掠れた声で彼が呼ぶ。遊星はそれに従って立ち上がると、むき出しのコンクリートの上に倒れている鬼柳のもとへ歩み寄った。彼に合わせて床にしゃがむと、彼は這い上がるように手を伸ばし、そして両手で遊星にしがみついて、幾度も彼に近づこうとする。しかし、上手く力が入らないのか、度々力の抜ける彼の体を、遊星は支えてやった。鬼柳は、泣き出しそうに歪んだ笑顔で、脆弱な言葉を吐き出した。

「もう一回だ、もう一回……。俺はまだ満足しちゃいねぇ。なぁ、遊星」

「……もういい、鬼柳」

ダラリと脱力し、以前よりも細くなった彼の体を、遊星は抱きしめた。しっかりと腕を回して、傷だらけになった彼を繋ぎ止める。彼が求めたものはここにあるのだから、もうどこにも行かなくていい。

「そんなことをしなくても、俺はお前の側にいる。だから、ゆっくり休むといい。そろそろお前も疲れただろう」

鬼柳が呼吸する音が聞こえた。驚愕したかのように息を飲んで、それからゆっくりと、震える吐息が吐き出される。
 遊星がそれに気がついたのは、ごくごく最近のことである。しかし今にしてみれば、どうして気づけなかったのだろうと後悔がつのる。鬼柳が何に苦しんでいたのかと問えば、それは、孤独だった。
 鬼柳が、貪るように遊星の体に手を回した。片方は遊星の頭に、もう片方は背にあてられ、存在を確かめるように、彼の手は遊星を撫でる。

「遊星……、本当に、お前は……」

彼の言う満足には届かないかもしれないが、遊星にはこれでいいように思えた。そして他人の温かみを芯まで感じながら、鬼柳は久しぶりに、穏やかな顔でその瞳を閉じたのだった。
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