※リ/スト/カット事/件のパロディ


 欠伸を繰り返すその口に、あいつは隠すように手をあてて、そして億劫そうに体をふらふらと揺らしながら、あいつ、鬼柳京介は、化学準備室へとやって来た。やつの足取りはおぼつかず、普段は明るい表情も、肌の色と相成って、とても病弱なものに見えた。
 ここのところ鬼柳は、昼休みになると必ず、ジャックやクロウの誘いを断って、化学準備室へと足を運んでいた。それを本人から直接聞いたことはないが、その事実を、俺は数週間前から知っていた。というのも、数週間前、昼休みに化学講師に実験の準備を手伝わされ、その際にたまたま、机に額を当てている鬼柳の姿を目撃したからだった。そして鬼柳がこの部屋で何をするかと言えば、やつは窓側の端の席を陣取って、机に頭を押しあてて目を閉じているのだった。どうやら惰眠を貪りたいらしい。
 しかしいつも、何十分が過ぎ、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴ろうとしても、鬼柳から安らかな寝息が聞こえてくることはなかった。これは推測でしかないが、どうやら鬼柳は、近頃眠れていないらしかった。時間がどうこうといったものではなく、体が睡眠を受け入れてくれないらしい。やつは俺たちには何も言わないが、白い肌に浮かんだ隈が、ありありとそれを物語っていた。
 だから鬼柳は、少しでも寝不足な体を慰めようと、こうして物静かな化学準備室に通うのだった。しかし、実際眠れていないのだし、それで何の問題も解決していないと思うのだが、気休め程度にはなるのだろう。それか、そうでもしないと、午後の授業を乗りきれないのかもしれない。
 その日も鬼柳は定位置に腰を下ろし、大きく伸びをしてから、冷たい机に伏せって目を閉じた。それは変わらない、鬼柳のいつもの行いだった。昨日もそうだったし、一昨日もそうだった。それで眠りに落ちることなく時間だけが過ぎ、しばらくすれば、チャイムと共に鬼柳は立ち上がり、重たい目蓋を擦りながら次の授業へと向かうのだ。それがいつもの鬼柳の昼休みだった。
 しかしその日だけは、いつものように時間が過ぎていくばかりではなかった。鬼柳が机に体を倒して、数分が過ぎた頃、ガラリと音をたてて、化学準備室のドアが開いた。普段使うことの少ない部屋なせいか、ドアの滑りは重たかった。
 ぺたりぺたりと音をたてて、密やかな足音が来客を知らせる。誰かがゆっくりと鬼柳に歩み寄っていた。俺の視界の先で、潰れたサンダルが歩を刻み、白衣がさらさらと揺れていた。
 足は俺の前を通り過ぎ、まっすぐに鬼柳の方に向かっていた。ぺたぺたと、不自然なほどゆっくりとしたペースで、それは化学準備室の奥を目指す。その足音を掻き消してしまいそうなほど、俺の心臓はうるさかった。落ち着けるように唾を飲み込めば、ごくりと、大袈裟な音が鳴る。
 窓際で足が止まり、それは無感動な声で鬼柳を呼んだ。元々眠っていなかったらしい鬼柳は気だるそうに顔を上げ、ひどく掠れた声でうめき声をあげる。折角の安らぎの時間を邪魔をされた鬼柳は、不機嫌そうだった。

「んだよ、うっせぇな……」

小さな鬼柳の独り言は、この部屋ではやけに大きく響いた。それが相手に伝わってしまったことなどまったく意に介さない様子で、鬼柳はまた大きな欠伸を吐き出した。

「手は、どこにありますか?」

「……はぁ?」

意味がわからないと、鬼柳の声が語っていた。
 鬼柳に話しかけたのは、いつの日か俺に手伝いを頼んだ、化学講師だった。線が細く、物腰が弱そうな男だ。
 しかし今は、そんな雰囲気を全てかなぐり捨て、狂気を孕んだ瞳で、講師は鬼柳を見下げていた。その異様なまでの雰囲気と違和感は、形を成して、俺の方にまで迫ってくる。鬼柳はただただ、怪訝そうな顔をした。

「手は、どこに、ありますか?」

物わかりの悪い子どもに言い聞かせるように、ゆっくりとそいつは繰り返す。しかし鬼柳にその質問は伝わらず、やつは豹変した講師を、不安気に見上げるだけだった。鬼柳の眉間に刻まれたシワが更に深くなった。

「何、言ってんだ、お前。手ならそこにあるじゃねぇか」

「……とぼけるのも大概にして下さいよ。それとも、こう言わないとわかりませんか?」

講師がゆっくりと両手を持ち上げ、そしてそのまま、その手を鬼柳の首に這わせた。のんびりとした動作なのにも関わらず、鬼柳は何もできずに、目を見張ってその行為を眺めている。まさか鬼柳も、それは予想していなかったのだろう。まさか自分の高校の講師に、首を絞められるだなんて。

「ぐ、あ……っ」

「さぁ鬼柳くん、あなたは、手を、私の大切な手首たちを、一体どこに隠しましたか!?言いなさい!」

「んなこと……!俺が、知るわけが……!」

鬼柳からしてみれば、そいつの吐く言葉は意味不明だろう。講師は勘違いしたまま鬼柳を責めているし、鬼柳は本当に何も知らないのだ。何もわからないまま、鬼柳は首を絞められ続けている。困惑と苦痛に歪んだやつの顔を、とても美しいと思った。
 ぎりぎりと、鬼柳の首が締まっていくのを見た。苦しそうに息を求め、しかしそれは叶わずに、鬼柳はまたもがくように、伸ばされた講師の腕を掴む。机の下ではばたばたと、鬼柳の足が宙を蹴っていた。

「言いなさい鬼柳京介!そうしたら、あなたの手首も私のコレクションに加えてあげますよ……!」

「ーーっ!」

講師がそう囁いた直後だった。鬼柳は近づいた講師の顔を視界におさめると、渾身の力を振り絞って、顔面に見事なストレートパンチを決めた。寸分の迷いも、狂いもなかった。鬼柳はカードゲームも堪能だが、肉弾戦にも定評がある。
 情けない悲鳴をあげて、講師はよろめき、床に体を打ち付けた。鬼柳の体は自由になる。その隙に、鬼柳は椅子から転がり落ちると、息も絶え絶えに、這うようにして化学準備室の出口へと向かった。そして彼は廊下に向かって助けを叫び、それから数秒後には、普段物静かな化学準備室は、駆けつけた教師と生徒たちで、いつになく人口密度を増すのだった。
 化学準備室のビーカーの棚の裏に隠れていた俺は、その人混みに紛れて、こっそりとその場をあとにした。


***


「とんだ災難だったなぁ、鬼柳!」

「やっべぇ、マジうけるわ」

「うけねぇよ!全っ然笑えねぇ!下手すりゃ死んでたんだぜ、俺!」

放課後、繁華街を歩きながら、俺の隣で鬼柳は喚いた。それをいいことに、目の前にいるクロウとジャックは肩を震わせて、大きな笑い声をあげる。すると鬼柳は、また不服そうに、その二つの背中を睨み付けるのだった。

「てめぇら少しは心配しろよ!」

「それにしてもよ、あいつも趣味悪ぃよな、よりによって鬼柳を襲うなんてさぁ!」

「まったくだ。こんな男を組み敷いたところで、気色悪いだけだろう」

「つか、なんでお前ら俺が掘られる前提で話してるわけ?なぁ?」

なぁ、なぁ、と鬼柳は責めるように繰り返し、目の前の二人と肩を組む。しかし、鬼柳がどんなに睨み付けようともジャックとクロウはからかうように笑うばかりだった。

「だってお前さぁ、お前の最大の長所って顔じゃん?」

「言ってやれクロウ。顔以外に良いところがあるか、と。体目的以外にあるまい」

「はぁ!?なんだよそれ!ひっでぇ!つかジャックにだけは言われたくねぇし」

「どういう意味だ鬼柳」

「そのまんまですー」

鬼柳がジャックを睨み付ければ、ジャックもまた、鋭い眼光で鬼柳を睨み返す。いつものことだと、クロウが素知らぬ顔をしたのを横目に、俺は後ろから声をかけた。

「とりあえず、無事でよかったな、鬼柳」

「……!ゆーせぇえ!お前だけだ、そんなこと言ってくれんのは!」

すると鬼柳はオーバーに両手を広げて、そしてそのまま、両手を俺の肩にまわし、ひしっと子どものように抱きつくのだった。感情を全力で表現する鬼柳は、本当に無邪気だと思う。
 大人しく抱きすくめられていると、前方でジャックが抗議の声をあげた。その声に触発された鬼柳は、ますます俺と密着し、挑発するような言葉をジャックに向ける。それをクロウが茶化しているのを、耳の片隅に引っかけたまま、俺はそっと、首にまわされた、鬼柳の制服の袖に手をかけた。長袖のシャツをめくると、鬼柳の手首があらわになる。その白い手首は俺を魅了し、触れれば割れてしまいそうな、そんな陶器のような滑らかさと儚さを持ち合わせているように思えた。
 鬼柳は何も知らないが、俺は全てを知っていた。あの化学講師が近頃巷を騒がせているリストカット事件(相手を気絶させているうちに、手首を切り取ってそれを持ち去るという悪趣味な事件だ)の犯人だということ。自宅の冷蔵庫に持ち去った手を隠していたこと。そして昨日、何者かにそれを全て盗まれてしまったこと。何故それを知っているのかと問われれば、答えは簡単だ。昨日、講師の家から大量の手を盗み出したのは、俺だからだ。
 講師が、何故あそこまで手に執着したのかは知らない。しかし、やつは何かしらの魅力をそこに感じたのだろう。それは俺も同じだった。俺は手が欲しかった。だから手を盗んだ。だが、やつが切り取ったそのなかに、俺が本当に欲しい手は存在していなかった。それははじめからわかっていたことだが、それを改めて現実と認めたときに、俺はとても落胆した。
 だから俺は、講師の家に、わざと髪の毛を落として帰った。俺のものではない、鬼柳の髪の毛だ。わざとらしくパソコンの隣に落としたので、見破られるかと不安ではあったのだが、怒りにかられた化学講師には、そんなことを考える余裕などなかったらしい。やつは、手を盗んだのは鬼柳だと錯覚した。
 講師が鬼柳をどうするだろうかと考えると、心臓が高鳴って、血流が早くなった。やつは鬼柳を傷つけるかもしれない。怒りのあまり殺してしまうかもしれない。そして最後には、やつは鬼柳の手を切り取るだろう。憎い盗人の手を、造型の美しさに目を奪われながら、愛撫するだろう。そして俺は、もう一度講師の家に忍び込み、鬼柳の手を持ち帰るのだ。考えただけで笑みが浮かんだ。素晴らしい提案だと思った。ようやくそれを、手にすることができると。
 しかし、物事はそう上手くはいかないものだった。鬼柳の腕っぷしの強さは知っていたが、まさか一発で講師を倒してしまうとは、計算外だった。鬼柳は死なず、やつの手はやつの体の一部のままで、こうして今、俺の頭を撫でている。
 だが、今思えば、あの講師に手首を切られずいてよかったのかもしれない。もしかしたらあいつは、間違った部位で、それを切っていたかもしれなかった。
 鬼柳の手首には、いくつものリストカットの跡があった。不眠症のことといい、鬼柳にも色々あるのだろう。俺は鬼柳のその手首が欲しかった。やつの苦悩と絶望が刻まれたそれを、俺は自分のものにしたかったのだ。
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