息が切れる。吐いた吐息は白く、冬の夜空に気化していった。
 朽ちたビルの隙間を縫って、遊星は走っていた。聴覚、視覚、感覚の全てをぴんと張り詰めたまま、次の角を曲がる。
 人影が見えて、すぐに一歩引き返した。壁に身体を押し付け、暗闇に溶け込むようにする。はあはあと乱れる呼吸が煩わしく、口元に手をあてた。その呼吸が、張り裂けそうな鼓動が、彼らに気付かれてしまいそうだと思った。

「おい、いたか!?」
「いや、こっちにはいない!」
「あのガキども、どこ行きやがった!!」

ドスのきいた荒々しい声音が響いてくる。明らかに悪意を持った彼らは、血眼になって自分たちを探していた。ここら一帯を縄張りとしているデュエルギャングたちだ。
 こっちにいたぞ! とまた別の男の声がした。遊星の視界にいた男たちも、その声に反応して走りだす。遊星がいる場所とは反対の方向へ、彼らの足音は響いていく。
 どうやら危険は回避したようだ。しかし、それどころではない。彼らは遊星以外の誰か、つまりクロウかジャックを見つけたのだ。遊星は一瞬考え込んだが、すぐに引き返して、別の道から男たちの足音を追うことにした。





 ほんの少し、帰宅が遅くなってしまっただけであった。しかし、冬本番を迎えた空は、その明るさが消えるのも早く、辺りは瞬く間に暗闇へと姿を変えた。
 文句を言うクロウと、それに反論するジャック。ふたりについて行く遊星。サテライトの治安が増して悪化していると、その言葉が誰かの脳裏にほんの少しでも残っていれば、その歩みはまた少し早かっただろう。そしてこんな風に、デュエルギャングたちに追いかけ回されることもなかった。
 何か様子がおかしいと気がついたのは、先頭を歩いていたクロウだった。不意に歩みを止め、怪訝そうにするジャックや遊星を、口元に人さし指をあてて黙らせる。

「なあ、これ、やばくねぇ?」

無理に笑おうとした顔は、不自然に引きつっている。促され、耳を澄ませてみれば、複数の騒がしい足音が鼓膜を揺らした。
 その瞬間に遊星は、昼間に聞いた噂話を思い出した。近頃、デュエルギャングのチームが次々と襲われ潰されていると。そのせいで、各地のギャングたちが荒れているのだと。
 乱暴な言葉の応酬が鼓膜に響いた。しまった、と気がついたときにはもう遅い。角から飛び出してきたスキンヘッドの男に、無意識に三人はその身を固めた。

「おい、てめぇら! そこで何してる!」
「ーーっ! 逃げるぞ!!」

間髪いれずに、クロウと遊星の背中を押したのはジャックだった。
 件のデュエルギャング潰しに、遊星たちは無関係だ。しかし、そんなことは当事者たちには関係がない。話しが通じるとは思えないし、結局は捕まればただでは済まないのだろう。
 スキンヘッドの男は仲間を呼んだらしく、あたりは波紋が広がるように騒がしくなった。デュエルギャング潰しの犯人であればその存在を消し、そうでなければデッキや金目の物を奪い取る。彼らに遊星たちを追いかけるメリットがあるのはわかるが、こちらからしてみればたまったものではない。
 しつこく続く足音に、クロウが舌を打った。

「キリがねぇな!」
「だが、相手をしていればそれこそキリがない。ここは逃げるのが賢明だ」
「遊星の言う通りだ。ひとりの相手をしているうちに、その他大勢に囲まれてはたまらん」
「現状維持も悪化もきちぃっつの! ったく、どこの誰だよ、ギャングたちを潰してまわってる奴ってのは! とんだとばっちりだぜ!」

クロウの言う通り、このままでは捕まるのも体力の問題だろう。なんせギャングたちは数が多い。仮にこの地域を抜け出せたとしても、奴らが追ってこない保障はない。
 どうしたものかと思索する。追いかけてくる声はますます多いし、曲がり角ひとつ曲がるのにも神経を擦り減らす始末だ。鉢合わせしたときには心臓が飛び出さんばかりに鼓動し、とっさに踵を返したあと、近くの廃墟に滑り込んだ。
 そこは、元はコンビニか何かだったらしい。身を低くしてカウンター裏に忍びこむと、腰をついて息を吐いた。

「どうするよ。朝まで鬼ごっこなんて、オレはごめんだぜ」
「朝まで、で済んだらいいのだがな」
「おい、不吉なこと言うなよ」

声は潜めたまま、クロウはジャックの腕を叩く。
 少しばかり逡巡した遊星が、そんなふたりに提案した。

「オレが囮になろう」
「なに……?」

眉にしわを寄せてジャックが聞き返す。

「ここままでは、見つかるのも時間の問題だ。オレが飛び出すから、見計らってふたりもここから逃げてくれ」
「なに言ってんだ遊星!」
「……だが、ここを抜け出すのに有効な手段であることは確かだ」
「ジャック、てめぇ正気か!? 遊星ひとり犠牲にして逃げるなんて、出来るわけねぇだろ!」
「遊星を犠牲にするつもりなどない! 遊星ならば大丈夫だろうと、そう思って言っているのだ!」

すると、同時にふたりの瞳が遊星をうつした。片や不安を、片や信頼を携えて、遊星の藍色を覗く。
 そして遊星は力強く頷いた。

「ああ。必ず合流しよう」
「当たり前だろうが」
「あまり待たすなよ」

少し離れた場所にある空き地を合流地点に指定し、遊星は腰をあげた。外の様子を窺い、今ならそこまで人がいないことを確認する。クロウはまだ少し不満が残るようだったが、割り切れないだけであって理解はしているのだろう。
 遊星は足元にあった石を拾うと、躊躇いなく窓に向かって放った。ばりん、とガラスの割れる音が壮大に響く。何事だと、ギャングたちが動きを止めたのは一瞬であった。そしてその瞬間を見計らっていたように走り出すと、再び、ひどく冷えた外へと飛び出した。

「いたぞ!」
「追いかけろ!」

その声が耳に届くより先に方向を変えて走り出す。囮にはなるが、捕まってやるつもりは微塵もない。立ちふさがった別の男の鳩尾に肘打ちをくらわせ、軽く蹴り飛ばすと、そのまま遊星は、クロウとジャックが向かう空き地とは反対側の、港の方へと向かったのだった。





 ギャングたちをうまくかわしながら、闇夜をぬって慎重に進む。ジャックとクロウは別ルートから空き地を目指したはずだが、先ほどギャングたちは、ガキどもを見つけた、と言っていた。それはつまり、ジャックとクロウが彼らに見つかった、ということなのだろうか。約束通り空き地を目指すべきか悩んだが、結局遊星は、様子見の為に回り道をすることに決めた。
 追われているだけならばいいのだ。だが万が一、捕まってしまっては。
 デュエルギャングたちをずいぶん刺激しまったという自覚はある。この状態で捕まって、ただで解放されるとは思えない。デッキを奪われるだけならまだまし、と言ってもいいだろう。それでも、遊星たちにとってはたまったものではなかったが。
 次の廃墟を右に曲がろうと決める。身を低くして辺りの様子を探り、一歩踏み出そうとしたところで、強く腕をひかれた。
 とっさに洩れそうになった声を、誰かの手のひらが押さえつける。しまった、と背中に嫌な汗が伝う。

「おい、心配すんな。オレだよ」

手を外され、振り返る。は、と大きく息を吐き出した遊星は、次に瞳を大きく見開いた。

「あんた、あのときの……!」
「よお、久しぶり、ミドルサイズ」

そこにはいつかの、廃ビルのトイレで出会った男が立っていた。
 紫のバンダナに、デザイナーのセンスごと疑うスタジャン、安っぽいジーンスと、ファッションは相変わらずのようだ。ただ違うのは、その手に便所ブラシではなく、デュエルディスクが装着されていることだった。

「ったくよー、警告までしてやったのに、なんでこんなとこでギャングの抗争に巻き込まれてんだよ」
「オレたちが聞きたい」
「しょうがねぇなあ」

男は頭を掻いて、そういやチビとデカブツは? と聞いた。ジャックとクロウのことだろう。だから遊星は素直に、今の状況を説明した。男は難しい顔をする。

「だからあれほど……って、今お前に言っても無駄か」
「そういうあんたは、どうしてこんなところにいるんだ」
「オレは……あー、そうだなぁ……」

男は口元に手をあてて、何やら考え込んでいるようだった。次にうかがうように遊星をのぞき見る。

「……なんだ」
「お前、口堅いか?」
「……堅い……方、だと、思うが」

すると、男はちょいちょいと手の動きで遊星を呼んだ。それに従って身を傾ければ、男は内緒話でもするように、そっと遊星の耳元で告げた。実はな……、と続けられた話の内容に、遊星はわずかに目を見張って改めて男に視線を向ける。
 どういうことだと、そう言った遊星の言葉は、別のそれに遮られていた。遊星が意味を理解する前に、男が遊星の手を掴んで、走り出した。

「おい!」
「話はあとだ! 逃げるぞ!」

すると聞こえたのは、自分らを追いかける乱暴な足音と暴言だった。どうやら、ギャングたちに見つかったらしい。
 遊星の手を握ったまま、男はギャングたちを嘲笑うように奔走を続けた。ともすれば、鬼ごっこを楽しむ子どものような。切羽詰まっていた自分たちとはずいぶん違う。
 とある廃墟で鉢合わせした小太りの男に、彼は、はははっ、と笑って、それから遊星を掴んでいる方の手を思い切り引っ張った。遊星の身体は大きく揺らぐ。そのまま小太りの男に叩きつけられ、彼を巻き込んで地面に倒れた。カエルが潰れたような声がした。下敷きにした男のものだろう。

「あっははははは!」

指さし笑う男を、遊星は思い切り睨みつけた。

「おい」
「悪い悪い。ほら、さっさと行くぞ」

また遊星の手をひいて立たせ、そして逃走を開始する。
 男は奔放で、それ故に理解が追いつかない部分もある。しかしながら、彼のそんな型破りなところが、何故か遊星は嫌いになれなかった。
 不思議な男だと、手をひかれて走りながら思う。彼は強引でありながら、一方で気遣いも忘れてはいない。あのとき、ギャングがいるのだから離れた方がいいと、そう忠告したのは彼だった。
 無意識のうちに人引きつけるなにかを、彼は持っているのだろう。具体的にどうだとか、語れる理屈を遊星は持ち得なかったが、それは確かなことのように思えた。



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