ふと隣を見上げると、見慣れたはずの廃ビルがそこにあった。月を背景に佇む廃墟は、不気味でありながら、何故か美しい。
 遊星は、しばらくその光景に見入ってしまっていた。
 数日前。ジャックとクロウの、ただならぬ様子での引っ越しの提案に、遊星は頷くしかなかった。いくら粗末な廃屋とはいえ、この住居に未練も愛着もないのかといえば嘘になる。だが、二人の言いようは、そんなことを言っている猶予などないような切迫さがあったのだ。そうして彼らは、必要最低限のものだけ持ち出して、廃屋から退去した。そして必然的に、便所の神様がいるだのなんだのと騒いだあのビルとは、すっかり疎遠になってしまっているのだった。
 そういえば、ジャックとクロウはあそこで何を見たのだろうか。そんな考えが遊星の脳裏を過る。あそこでのやりとりを知らないのは、仲間内では遊星だけであった。

「……」

自分らしくのは重々承知であるが、その正体を、遊星は確かめてみたいと思った。あそこには絶対近寄るんじゃない! と二人に言われてはいるのだが、それでは尚のこと、確かめなければと考えてしまうのが遊星の性質であった。好奇心よりか、正義感、使命感のようなものである。
 そして、彼の足は冷たい階段を上っていった。





 四階のトイレに辿りついて、遊星はすぐにその足を止めた。
 トイレの個室のドアは全て開いていた。二人のときとは違って、今は、そこには誰もいないのだろう。しかし、遊星は気を緩めることができなかった。すぐそばに、人の気配を感じたのだ。
 その気配の正体は、トイレの外にあった。
 四階のフロアの東側には、大きな窓があった。薄暗い建物の中を映すように、その窓からは大きな月が覗いている。月光に照れされるようにして、浮かび上がる影があった。
 その人は、窓の桟(さん)に腰掛けて、視線は儚げに、どこか遠くを見つめていた。細長い指に挟まれた煙草からは、かぼそい煙があがっている。光の中にぼんやりと残された横顔の輪郭は、作り物のように綺麗だった。

「あんたが……」

この人が二人の言っていた人物なのだと、遊星はすぐに確信した。もちろん、その顔など知らなかったが、彼の服装と、壁に立てかけられている便所ブラシからそう判断を下した。派手なスタジャンをはおって、便所ブラシを携えた者など、そう何人もいないだろう。
 遊星の呟きを拾って、その男はこちらを向いた。サラリと銀の髪が揺れる。否、明るいところで見れば、もっとはっきりとした色をしているのだろうと遊星は思った。

「オレになんか用?」

口元に笑みを浮かべて、その人は言った。その声には敵意はなく、はじめて会ったというにも関わらず、どこか親しげだ。それを怪訝に思い、遊星が眉をしかめると、その人は続けて言った。

「おいおい、お前から呼んだのに、不審者はオレかぁ?」
「いや、そういうわけじゃ……」
「だって、どうせお前あれだろ、クロウとジャックの知り合いだろう?」

彼の言葉は確信めいていて、沈黙で遊星は肯定する。
 遊星はすっかり、目の前の男に呑まれていた。男の印象が違いすぎたせいもあるが、大半は彼の、独特の雰囲気のせいだ。

「なんでわかるか、ってか? 二度あることは三度あるもんだろう? それしてもあれだな、クロウはチビで、ジャックはデカブツで、お前は……ミドルサイズだな」

くつくつと笑って、男は指先の煙草を口にくわえた。すっと短く息を吸って、そしてふぅと空に煙を吐き出す。きっと彼はまだ未成年だろうに、しかしそれが全く気にならないほどに、その姿はさまになっていた。
 格好こそ奇怪であるものの、彼が、ジャックやクロウが言ったような人物だとは、遊星には思えなかった。飄々として、人をくったような態度ではあるが、それが、咎めるような短所であるとは思えない。二人の報告から垣間見えた非常識な振る舞いも、今の遊星には感じられなかった。

「吸ったことあるか?」

男がそう問いかける。それが、彼の持つ煙草のことだと気づいて、遊星は首を横に振った。

「いや」
「じゃあ、吸ってみろよ」
「オレはまだ未成年だ」
「オレだってそうだよ」

さして問題でもないように彼は言う。気取った様子でもなく、最初から、彼と自分とでは価値観が違うのだろう。

「どこの誰かもわからない相手に貰った煙草を吸いたくない」
「……まぁ、そりゃあそうだな。オレだって嫌だもん」

彼は納得した様子で、再び煙草をふかしはじめる。遊星のところまで、苦い香りが漂ってくる。立ち上った煙は、サテライトを霞めるスモッグのようだと思った。
 遊星から視線を外し、男は窓の外を眺めた。廃棄ガスのせいでおぼろげに揺れる空と、生気を失った工場群。遠くに見えるシティの明かりは、尚のこと自分たちを惨めにさせる。だがそれも、すでにありふれた光景だ。
 男の向こうに遊星がそれを眺めていると、先ほどとは違うトーンで、男は話し始めた。

「ミドルサイズ、お前さぁ、サテライトで満足してるか?」
「……どういう意味だ」
「サテライトってのは、ゴミ溜めみてぇで、本当に汚ねぇ町だよ。そこにあるぼっとん便所と何にも変わらねぇ。こんな便所みたいな町は、俺は嫌いだ。
けどな、どんなにきったねぇ便所でも、磨けば綺麗になるもんさ。便所で満足できねぇなら、満足できるまで磨けばいい。住みたい世界は、自分で作って満足するもんだ」
「……だからあんたは、そこでトイレ掃除してたのか?」
「んー、ちょっと違うかもしれねぇけど、間違ってはないな」

苦笑する男は、何故か、遊星には先ほどまでとは違って見えた。男は変わった男である。その見解は変わらないが、今はその言葉を褒め言葉として使いたかった。今まで、こんなことを言う人間がいただろうか。
 あ、と小さく言葉を漏らして、男は煙草の火を消した。遊星が彼の瞳を見ると、太陽のような黄金の眼は、今は静かに冷え切って、錆びついた世界を見下ろしている。その変化に戸惑って遊星が何も言えずにいると、男は便所ブラシを手にとって、窓の桟に足をかけた。

「おい、あんた、なにして……」

そんなことをしたら落ちる、と忠告しかけたその口は、淡々とした男の声に遮られる。

「お前ら、もうこの辺には住んでないんだよな?」
「あ、ああ……」
「それなら安心だ。お前も早く帰れよミドルサイズ。今日はこの辺に絶対近寄るんじゃねぇぞ? わかったな? お兄さんとの約束だぞ?」

一方的に言い渡して、そしてその刹那、男の姿は遊星の視界から消えた。
 一瞬、何が起きたのかわからなかった。だがすぐに、彼が窓から飛び降りたことに気がついて、遊星は窓へと駆けよった。ここは四階だ、飛び降りて、ただですむ高さではない。しかし、窓から身を乗り出して覗きこんだ先に、男の姿はどこにもなかった。いったい、どこに消えたというのだろう。
 そのとき、向かいにあるビルが何か騒がしくなったのだが、遊星はそれに気がつかず、仕方なく、出口に向かって歩き出していた。そして遊星は考える。もしかして、自分が求めていたのは、大人ではなく、自分の世界を変えてくれる人なのではないだろうかと。男との出会いは、遊星に、大きな変化をもたらしていた。





例の便所の神様に会ってきた、というと、ジャックもクロウも、大きく目を見開いて遊星に詰め寄った。

「だからっ! トイレに近寄るんじゃねぇってあれほど……っ!!」
「無事か遊星、変な物を埋め込まれたりしていないだろうな!?」
「なんだそれ、エイリアンかよ」
「ジャック、クロウ」

好き勝手に言う二人の肩に、遊星はポンと手を置いた。落ち着きはらったその声音に、怪訝そうに二人は彼を見つめ返す。そして遊星は言った。

「あの人は、そんなに悪い人ではないと思う」

ジャックとクロウは、互いに顔を見合わせる。そんなわけがない、言葉はなくとも、二人の視線はそう述べている。
 そして数秒後、烈火の勢いで二人は遊星に反論し、その口論は夜中にまで及ぶのであった。


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