廃屋にある唯一のまともな家具であるソファーから、ジャックがようやく立ち上がると、まるで、恐ろしいものを見た、と言わんばかりの目でクロウがジャックを見上げた。それを嫌味と受け取ったジャックは、不機嫌に吊り上げた口角を引きつらせて言う。

「……なんだクロウ、不満でもあるのか?」

このソファーが、賭けデュエルの勝利の産物であることを掲げて、ジャックは日頃から、ソファーをひとりで占領することが多かった。その度に、ここは三人の家だの、お前だけのソファーなら邪魔でしかないだのクロウには文句を言われており、ジャックはまたその類のことだと思ったのだが、しかし、今回クロウが言いたかったのはそれではなかったらしい。

「お前……どこ行くつもりだよ……?」
「どこって……決まっているだろう。廃ビルのトイレだ」
「やめとけ死ぬぞ!」
「まだ言っているのか貴様!」

どうやら、先日のトイレの件は、クロウの中で大きなトラウマになってしまっているようだった。思えばそれ以来、クロウはあの廃ビルに足を踏み入れてない。トイレも、わざわざ遠くの方を使用しているらしかった。
 確かに、近所に得体の知れない奴がいるのは気味が悪い。しかし、それを実際に見ていないジャックには、ほとんど現実味がない、というのが本音だった。
クロウの言葉を疑っているわけではない。彼が言うのなら、なるほどそうなのだろう。しかし、それでジャック自身がどうこうしようなどとは、まるで思わないのだった。

「関わらなければ問題ないだろう!? 貴様はいつからそんな繊細になった?」
「ちげぇんだって! てめぇはあの男の恐ろしさをわかってねぇ! ――なぁ遊星、お前もジャックを説得してくれよ!」
「ええい、相手にするなよ遊星!」
「そう言われてもな……」

二人の極端な意見に挟まれて困ってしまうのは遊星で、表情の少ないその顔に、今はありありと困惑の色が浮かんでいる。彼はしばし悩んだあと、睨みあう二人に向けて、静かに口を開いた。

「クロウが言うことももっともだが、トイレに常駐しているとも思えないな。仮にいたとしても、それなら尚更、放っておけないだろう」
「ほら、聞いたかクロウ!」
「じゃあもう一回あそこに行くってのか!? 俺は二度とごめんだぜ!」
「誰も貴様についてこいなどと言っていないだろう。トイレくらいひとりで行く」
「ひとりで大丈夫か、ジャック」
「遊星までなにを……この歳で連れションなどごめんだ」

遊星が言うのは、ひとりで行くと危険だから云々ということだったのだが、ジャックにはそうは伝わらなかったらしい。ジャックには少し、表面的すぎるところがある。しかし、そうなのだと説明したとしても、彼はひとりで行くと言い張ったに違いない。
 なんでもないような顔をして、ジャックは廃屋から出て行った。多少不安ではあるものの、ジャックなら大丈夫だろう、という思いが遊星の中にあったのもまた事実だった。
 しかし対照的に、クロウの声音は重い。

「あいつひとりで行かせて大丈夫かよ、遊星。あいつ絶対何かしらやらかすぜ」
「そんなに、怖い奴なのか?」
「怖いっつーか……恐怖?」
「同じだと思うぞ」

それから遊星は延々、その男の恐ろしさについて、これでもかと、クロウに語られるのであった。





 当時のクロウ同様に、ジャックもまた高い音を鳴らして、鉄の錆びた階段を上っていた。カンカンとなる足音は、騒がしいようで、尚のこと、自分以外に誰もいないのだという孤独を強調しているかのように思う。ここに怪しい人間がいるなど、到底思うことができない。この一帯は、とても静かだ。
 しかし、四階のトイレに着くと同時に、ジャックはぞわりと、背中が泡立つのを感じた。自分だけの存在を確信していたというのに、ぼそぼそと話し声がするのだ。それも、閉まったトイレの個室の向こうから。得体の知れない奴がいる、というのは本当だったのかと確信するのと同時に、相手は複数なのかという疑問がわいて出る。
 しかしおかしな話だった。聞き取ろうと耳を傾けているのだが、聞こえるのは、ひとりの話し声だけなのだ。まさか、ひとりで話しているのだろうか。いやそんなはずはない、とは思ってみるものの、頭を過るのはクロウの、いかに恐ろしい目にあったかという言葉の羅列だった。
 閉まったドアに、一歩一歩近づいて行く。次第に声がはっきりしてくる。内容は拾えないものの、確かにクロウの言った通り、若い男の声だった。
 どういう心理がはたらいたのかはわからない。確かめなければ、という使命感だったのかもしれない。ジャックは決心したように息を飲むと、そのドアを二回ノックした。
 途端、細く続いていた声がぴたりと止んだ。物音ひとつしない。その静けさに、ジャックは薄気味の悪さを感じたほどだった。いるならノックを返せばいいものを、それすら反応がない。認めたくはないが、心霊の類か。いや俺は認めない! などと葛藤を繰り返していると、急に、ガタンッとそのドアがけたたましい音をたてた。反射的に、ジャックの体もびくりと強張る。
 出てくるなら出てこいと、ジャックは構える。しかし、ドアが開く気配はない。疑問に思ったそのとき、頭上から、か細い声が降ってきた。

「……おい」

その声に呼ばれるように、ジャックは視線を持ち上げる。そしてそこにいたのは、天井とドアの隙間から覗く、不気味に青白い顔だった
不意打ちをくらって、思わずジャックは声をあげた。暗闇の中でそんなものに遭遇すれば、声もあげたくなるだろう。ただ、背を向けて逃げ出さなかったのは、彼のプライドが成し得た技に違いなかった

「ははははっ!! ビビってやーんのー!」

嫌味たらしく跳ねた声と同時に、目の前のドアが開いた。するとどうだろう。ジャックが見たのは、クロウが言っていたのと同様、独創的なファッションに身を包み、便所ブラシを携えて、しかし顔だけは綺麗に整った銀髪の青年だった。
 理不尽にからかわれたにも関わらず、ジャックは言い返すことができなかった。本当にいた、というよりも、なんだこいつは、という思いが先行して、彼から言葉を奪う。
 すると青年は、ブラシを携えたまま、不機嫌そうに顔をしかめるのであった。

「んだよ、ノリ悪ぃな」

ノリだとかそういう問題では断じてないのだが。青年は、ジャックのそんな心の呟きに気がつく様子もなく、そのまま言葉を続けた。

「あんたさぁ、いつもここ使ってんの?」

ジャックにかける声は、随分と軽い。その慣れ慣れしさに憤慨を覚えつつも、男の雰囲気に呑まれて、ジャックは半ば反射的に、その問いに答えた。

「あぁ、そうだ。なんだ貴様、なにか文句でも……」
「ばっっかやろおおおおお!!」
「ぐあっ!? 」

ジャックの腹に、勢いよく男の拳がめり込んだ。ボディブローされたのだとジャックが気づいたときには、既にその衝撃に呼吸を奪われ、吐き気を催していた。
 元来、ジャックも肉弾戦では腕が立つ方である。思い切り彼の攻撃をくらいながらも、なんとか片膝をつくだけに留める。
 理不尽な暴力になんとしてでもやり返そうと顔を上げるが、しかし、目の前の銀髪の青年が叫ぶように言うほうが先であった。

「トイレはキレイに使え、って父ちゃん母ちゃん及び周りの大人に教わらなかったのか! そんな奴はなぁ、便所の神様にニキビ面にされんぞ! べ、別にここの掃除が面倒くさいから言ってるわけじゃないんだからねっ!!」
「……っ!! ええい、うるさいわこの変人がぁ!! 」

男の物言いに、とうとうジャックの鬱憤はぶちまけられた。彼の性格からして、ここまで我慢しただけでもだいぶもった方だろう。クロウ以上に、ジャックは機嫌を損ねるのが早い。反面、それ故の気高さも、彼の特筆すべき個性なのだが。
 ジャックは立ち上がると、その青年を正面から睨みつけた。体格が良く、眼光も鋭いジャックに睨まれれば、大抵の者はすくみあがる。だが青年は、好戦的な瞳で、ジャックのアメジストを射抜くのだった。

「なるほど、貴様が、クロウの言っていたこのトイレの酔狂人というわけか。あいつの言葉など話半分だったが、嫌というほど納得したわ」
「クロウ……? ああ、あのムチビか。なんだあいつ、俺のこと散々言ってんのな」
「当たり前だ!! 貴様のような輩が身近にいるのは気味が悪い。早々にここから出て行ってもらおうか!」
「ほおー、言ってくれんじゃねぇか。クロウって奴にも言ったけどな、出て行くべきはお前たちだぜ? 意地悪で言ってんじゃねぇ。お前ら自身のためだ」
「貴様に指図される筋合いなどない! 出て行く意思がないならば、追い出すまでだ!」

言葉と共に、ジャックは装着していたデュエルディスクを稼働させる。言葉が通じない相手には、拳を向けるよりも、カードを引いたほうがよほど効果的だ。なにより、賭けデュエルで名を馳せるジャックには、絶対的な自信があった。そう簡単には折れない、特出したプライドと共に。
 それに応えるように、青年もディスクをかざした。ジャックから出る威圧感を浴びながらも、青年は笑ったままだ。青年もまた同様に、腕には自信があるのだということが窺いしれた。
 はじめてだった。ジャックを目の前にして、確信的に笑う男など。
 得体の知れない男だ。改めてジャックは思う。

「いいぜ、デュエルだ。お前が勝ったら、俺は出て行こう。その代わり、俺が勝ったら、お前らは大人しく住居を移りな。
 さぁ、俺を、満足させてくれよ?」

デュエル! 二人の鋭い宣言が宵闇を切り裂いていった。





 廃屋へと帰ってきたジャックは、そのまま力なくソファーに身を沈めた。傍目にもわかるほど、彼の纏うオーラは尋常ではなく重い。
 どうしたものかと遊星は考えあぐねたが、他に良い策もなく、そっとジャックに、何があったのかと問いかけた。昨日はジャックの立場にいたクロウは、察する部分があるのかなにも言わない。
 遊星の問いかけに、しばらくジャックは反応を示さなかったが、遊星が諦めて立ち去ろうとしたその刹那、ガシッと力強く遊星の手首を掴んだ。
 唖然とする遊星に、地を這うような声音でジャックは言った。

「遊星……、あのトイレには、もう近寄るな……」
「なにがあったんだ、ジャック」
「便所の神様はな……デュエルも堪能だったのだ……」

そう言って彼は、再びソファーに顔を埋める。未だひとり、状況が理解できない遊星だけが取り残された。


人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -