月夜の中を、クロウはひとり歩いていた。容赦なく叩きつけられる寒気に身を震わせながら、彼は、隣に佇む廃ビルを目指し歩いていた。科学スモッグに覆われた空の月明かりは遠い。
 彼が廃ビルを目指す理由はたいしたものではない。彼は夜気で冷え切った鉄の階段を高い音を鳴らして上ると、四階にあるトイレに向かった。
 そこは、もともとはオフィスの水洗トイレとして使われていたようだが、シティが分断されてサテライトになったときにその役目を失い、誰が作り変えたのか、今は汲み取り式のトイレとして活用されていた。しかしそうは言っても、誰かが管理をしているわけではないので、衛生状態はあまり良いとは言えない。だがそんな贅沢を言えないことは、彼らはずっと昔から知っていた。
 並んだ個室のひとつに入ろうとして、ふとクロウが見ると、トイレのドアのひとつが閉まっていた。暗闇に目を凝らして、クロウはその扉の向こうを警戒する。自分たち以外でここを使うものなど、今まで誰ひとりとしていなかった。これまでは、たまたま遭遇しなかっただけかもしれない。けれど、目の前の気配を警戒するにこしたことはない。もしかして、ここにもとうとうギャングの手が入ったかもしれないと、クロウは踵を返しかけた。
トイレの扉が勢いよく開いたのは、そのときだった。思わず、クロウは息を飲む。だが、

「……誰だ、てめぇ」

トイレの中からこちらをじろりと睨んで言ったのは、銀色の髪の、まだ若い男だった。その風貌からすると、自分とそこまで歳は違わないに違いない。しかしクロウの目を引いたのは、彼のまとう衣服とその右手に握っているものだった。
婦人服売り場で見そうな安っぽいデニムに赤いTシャツをしまい、どこで売っていたのか、金色で、袖の部分だけが青の、無駄にキラキラと輝くスタジャンをはおっている。そして彼の額に巻かれているのは、紫のバンダナだった。クロウはこれといってファッションに興味がある方ではないのだが、その取り合わせには頬を引きつらせるしかなかった。対して顔は随分と綺麗であるから、より一層、銀髪の青年の感性を嘆いてしまう。
 そしてそんな彼が右手に携えているのは、これまた突拍子もなく、便所ブラシだった。
 水気を払うように、彼はそのブラシを下に向けていたのだが、息を飲んで表情を強張らせているクロウに、勢いよく、そのブラシを突き付けた。

「お前は誰かって聞いてんだよ。まさか、デュエルギャングの一味じゃねぇよな? おいおい勘弁しろよ、ここの便所重宝してんだからよー」
「……っせぇんだよ! オレはデュエルギャングじゃねぇし! つか、ブラシ下せよ、汚ぇな!!」

一方的に話し続ける青年に嫌気がさして、とうとうクロウは声を荒げた。元より、彼は気が長い方ではない。
 すると青年はきょとんとして、それから、なーんだ、と未だ水が垂れるブラシをまわした。クロウの足もとにまで水が飛び、クロウはもう一度、だから汚ぇんだよ! と怒鳴る。だが青年がそれを気にとめた様子はない。

「まぁ、それならいいや。……ん? じゃあマジでてめぇは誰だ? なんにせよ、この近辺にいるのはオススメしねぇな。お前、この辺に住んでんの? だったら、早くどっか移った方がいいぜ」
「……どういうことだよ」

治安のこと、生活面のこと、全て考えたうえで、クロウたちはここに寝床を置いている。自分たちで調べる限り、問題は特になかったはずだ。しかし、青年はそうではないと言う。
クロウの問いかけに、青年はまた瞳を丸めて、そしてブラシの先で、窓の外を指し示した。

「どういうことって……。あっちのビルの占拠してるギャングたちと、あっちのバッドエリア近辺を縄張りにしてるギャングたち。あいつらは今対立してて、睨みあいの真っ最中だ。そしてここはその中立地帯。そのうちなにが起きるか、わかんねぇわけじゃねぇだろう? なんにも知らねぇんだなぁ、チビさんよー」
「誰がチビだ!」

青年の最後の余計な一言にクロウは目くじらを立てる。それにかまわずに、青年はブラシを携えて、嫌味のように笑うばかりだった。

「まぁ、今は奴らも大人しくしてるけど、一触即発の冷戦状態だからな。逃げておいたほうがお利口さんだと思わねぇ?」

月光に照らされた青年は、まるで悪戯を企む子どものように笑みを浮かべる。彼の言うことはおそらく本当で、正論だとも思うが、クロウは何故か、彼に従って行動するのは、面白くないように思った。そもそも、そういった類のことは、クロウの独断で決められることではない。

「……てめぇに従う義理はねぇ。オレたちは、オレたちの好きにするさ」
「ふーん。ま、オレには関係ねぇけど」
「そもそも、てめぇはここでなにしてやがんだ」
「なに? 見てわかるだろう? 便所掃除だ」
「はぁ!?」

そう言うと、銀髪の彼はクロウに背を向けて、トイレの個室の中へと帰っていく。そして便器の前に腰を下ろすと、まるで当然のように、ブラシで便器を磨き始めた。
 クロウは茫然とそれを眺めていた。ここは危険だから去った方が言い、と告げたばかりのその人は、どこか楽しそうに、そこで便器を磨いているのだ。クロウには目の前の光景がまるで理解できなかった。立ち去ったほうがいいのは、目の前のこの人なのではないだろうか。

「いやいやいや! 意味わかんねぇし! 便器磨いてる暇があるなら、お前が早くここから逃げろよ!」
「馬鹿かてめぇ! 便所の神様を知らねぇのか! 本当に無知だな! ムチビだな!」
「はぁぁ!?」

クロウは眉間に皺を寄せて、感情に従って思い切り疑問を吐き出した。斬新的なファッションの青年が言うことを、クロウは微塵も理解できない。少なくとも、これは自分の知識不足のせいではないと、クロウは全力で主張したかった。

「便所には、すんげぇ綺麗な神様がいてな。みんなが嫌がる便所掃除を、すすんで、頑張ってやってくれたやつを、イケメンにしてくれんだよ。ほら、オレみたいに」

手だけ動かしながら、青年は顔をこちらに向ける。それはどうも得意げで、憎たらしい。だが、そう思う前に、クロウはすぐにでもここから逃げ出したい衝動に駆られていた。不思議な男だと最初から思っていたが、これはもう既にそれを通り越して、恐怖だった。
 これ以上関わってはいけない。クロウの中の常識的な概念が、がんがんと警鐘を鳴らす。そしてクロウは間髪入れずに方向転換すると、自分たちの寝床である廃屋を目指して、駆けだしたのだった。ああ、これほどまでにあの粗末な小屋が恋しかったことがあっただろうか! などと嘆きながら。





「遊星! ジャック!」

転がるように飛び込んできたクロウを迎えたのは、遊星とジャックの、ぽかんと呆けたような表情だった。デュエルでもしていたのか、ふたりは向かい合って、床にはカードを並べている。

「どうしたんだ、クロウ。トイレに行ったんじゃなかったのか?」
「ふん、まさか、幽霊が怖くて帰って来たのか? まだまだ子どもだな」

からかうように言うジャックの一言にも、クロウは少しも反応しない。それを訝しんで遊星とジャックが顔を見合わせると、ようやくクロウは息を整えて、掠れ掠れに言った。

「ばっかやろう……! 幽霊なんてもんじゃねぇ……! なんか……、よくわかんねぇ、けど……便所の神様がいた……!」
「……は?」

遊星とジャックの表情は、まるで理解できない、と、ありありと物語っていた。しかし、クロウにもよくわかっていないのだから、上手く説明ができるはずもない。
 結局、三人の結論は、あそこのトイレにはハイセンスな便所の神様がいる、というところに落ち着くのだった。




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