朝起きると真っ先に、全身が鉛のような倦怠感と、胃の中が渦巻くような嘔吐感が身体を浸いた。
 身体を持ち上げてみればその感覚はなんとも顕著で、クロウはそのまま布団に突っ伏したくなった。込み上げる吐き気を、喉に力を入れて飲み込めば、その箇所が焼けるように痛んだ。
 ああ、完全に風邪ひいたわこれ、とひとりごちる。
 軽い咳や、なんとなしに感じるだるさなどは、気のせいだと吹き飛ばせばいい。だがしかし、完全な自覚症状をもってしまっては、もはや受け入れるより他ないのである。熱があると気づいた瞬間症状が一気に駆けめぐるように、はじめにその事実に気がついてしまっては、もはや逃避の道はどこにもない。
 とにかく水が欲しくて、這うようにしてベッドから起き上がった。自分の身体の重さなど普段は気にもしないのに、今は腕を持ち上げることすら億劫だ。
 リビングと呼ぶにはいくほどかも粗末な、いつの間にか皆が集うようになった、一番大きな部屋に顔を出す。すると、足元で鬼柳が死んでいた。うんざりといった顔で、クロウの爪先が鬼柳のわき腹をつつく。

「てめぇ、人が死にそうなときになにやってんだ」
「オレは死にました」
「付き合わねぇからな。本当にだりぃんだよ」

ふらふらとした足どりで鬼柳をまたぎ、ミネラルウォーターを保管している戸棚を目指す。人が大変なときにふざけやがってこんちくしょう、などと思っていると、後ろから、げほ、げほ、と苦しそうな息づかいが聞こえてきた。嫌な予感がして振り返る。鬼柳が背中を丸めて、苦しそうに震えていた。

「鬼柳、まさか、風邪か?」
「……ちょー頭痛ぇ。喉も痛ぇ。オレこれ死ぬわ。もうまじ無理。だめ。今までありがとうございました」
「風邪だな。そんだけ喋れりゃ上等だろ。つかオレの方が重症だって。オレが先に死ぬわ」
「……うるさいぞ貴様ら。頭に響く」

ふと視線を上げると、ソファのひじ掛けから、ジャックが鋭い視線でこちらを睨み付けていた。しかし、鋭いといっても、普段のそれとはほど遠い。彼は気だるげに再びソファに横たわると、額に手のひらをあて、唸った。

「おい、まさかジャックもか……?」
「話しかけるな」
「嘘だろ、バカは風邪をひかねぇという名言が覆された」
「熱が下がったら覚えていろ、クロウ」
「やーい、ジャックのばーかばーか」
「鬼柳、てめぇもだバーカ。つか、熱上がるからお前らふたりとも喋んなまじで」

未だに床に突っ伏している鬼柳を傍目に、クロウはペットボトルの水を煽った。からからに干上がった喉を潤すが、同時に刺すような痛みに思わず顔をしかめる。
 ふらりとやってきたのは遊星だった。そのまま椅子に座った彼に、聞いてくれよとクロウは言う。

「なんか風邪ひいたみたいでさ。気持ち悪くてしょうがねぇよ。しかもジャックと鬼柳もだぜ? 今日は完全に休養日だな。遊星、お前は気をつけろよ」
「……う」
「う?」

顔をこちらに向けた遊星は、真っ青な顔をしていた。そして一度えずいたかと思えば、口元を押さえて、水場の方へとかけていく。あっけに取られるクロウの向こうで、おえええ、となんとも苦しそうな声が響いていた。

「遊星は風邪の菌が胃にきたらしい」
「まじかよ」
「朝からあんなんだぜ? ――背中擦ってやれなくてごめんなー、ゆうせー。今そっち行ったら、オレ確実に貰いゲロするからー」

遊星は項垂れたまま、水場の縁に片手をついて、もう片方の手を力なく振る。大丈夫だ気にするな、といったところだろうか。
 だるさがとうとう限界にきて、クロウもまたイスに座り、机に臥せった。
 体調の悪い今日くらいは、体力の有り余った連中に甘えておこうと思っていたのに、これでは自分が世話する側になりかねない。遊星は動くのも辛いだろうし、ジャックと鬼柳は、自分を叱咤して他人の世話を焼くほど甲斐甲斐しい性格ではない。彼らが頼りになるのは、日常からひどく逸脱したときだけだ。
 かといって、それほどクロウの症状が軽いかといえば、そうではない。脳髄を直接叩かれてるような痛みに、眉を寄せた。

「なんでよりによって、4人揃って風邪ひくんだよ……」
「オレだって、好き好んでひいたわけではないわ」
「あれじゃねぇの? 4日前の、寒中水泳ごっこ」

ジャックに続いて鬼柳が言い、そういえばとクロウは思い出す。とある地区を制覇し、その帰り道だった。鬼柳が突然、海に行きたいと言い出したのだ。そのままの足で海岸に寄り、そして鬼柳はジャックを、春先の海へと突き落とした。
 寒中水泳かーいいなージャックよーなどと宣う鬼柳の足を掴み、ジャックが鬼柳を海へと引き落とす。鬼柳はとっさに遊星の腕を掴み、遊星は道連れにされるかたちで海へと落下した。慌てて近寄ってみれば、本気で心配をしたクロウを裏切って、3人が彼の腕を強く引いたのだ。
 暦のうえでは春といえど、まだ風が冷たく水温も低い。そんな中で、4人は馬鹿みたいに水をかけあった。はしゃいで、歓声をあげて、今にしてみれば本当に馬鹿だと思うのだけど、そのときはすぐさきの結末も見えないほど楽しかったのだ。繰り返すようだが今は後悔しかない。
 頭を抱えたクロウに、違うだろう、とジャックが言う。

「おとといの嵐の日の、台風の実況中継ごっこじゃないのか」
「ああ、やったなー。楽しかったな、あれ」
「いや……」

掠れた声がする。真っ青な顔をこちらに向けた遊星だった。

「昨日の、全裸枕投げ大会じゃないか……おえっ」
「いや、さすがに昨日はないわー。あと遊星汚ぇ」
「遊星、お前は喋るな」

ジャックの忠告を待たず、再び水場に顔を突っ込んだ遊星から、うええ、と苦悶のうめきが聞こえた。
 風邪とは関係なしに、クロウの頭痛はますますひどい。

「原因ありすぎて、原因わっかんねぇわ」
「より取りみどりだな」
「全部だろ! どう考えても全部だよ!!」

こらえきれなくなって、とうとうクロウは叫んだ。喉の内側が無数の針で刺したように痛んだし、頭はがんがんと鈍痛を響かせたが、それでも声を張り上げずにはいられなかった。
 彼の葛藤や憤慨などつゆ知らずといった風に、ジャックと鬼柳が険しい顔をする。己の体調が万全であったなら、間違いなく殴り倒しているだろうと思った。

「だから大きい声で喋んなよ、頭痛いつってんだろ」
「オレも痛いわ! あらゆる意味でな!」
「クロウ、そんなに元気ならオレたちの看病でもしていろ」
「元気じゃねぇよ! 振り絞ってんだよ! 体力面よりもお前らのバカさ加減に死にそうだわ!」

既に掠れた声で叫ぶクロウを、ジャックは胡散臭げに眺める。仕方がない奴だな、とばかりのそれにクロウの不満は募るばかりだ。
 そのうしろで、鬼柳がおもむろに自分の服に手を突っ込んだ。腋のあたりから、透明な棒状の何かを取り出す。

「37度4分」
「微熱じゃねぇか!!」

鬼柳がかざし見ているのは、水銀式の体温計だった。そんなものがアジトにあるとは知らなかったが、誰かがとこかで拾ってきて、適当に放ってあったのだろう。
 鬼柳が寝転がったままこちらを睨む。はあ!? と表情が大げさに歪んだ。

「微熱じゃねぇよ! 平熱が低いんだよこっちは! 36度8分くらいでだいぶ辛いんだよ! だのに、世の中の36度5分が全人類の平熱だと信じて止まない連中はやれ37度は微熱だの36度8分なら平熱だの勝手なこと抜かしやがって死ね!!」
「自分の平熱なんか知らねぇだろ! 勝手なこと抜かしてんのはてめぇじゃねぇか死ね!」
「ああそうだよ、気づいたら親なんかいなかったし、定期的な検診なんか受けたこともねぇから正確な平熱なんて知らねぇよ! けど自分が低体温なことくらい知ってんだよ! オレがこれまでいちどもたいおんをはかったことがないとおもったか! こじなめんな!」
「……鬼柳、やめてくれ。悲しくなる」

熱が上がってきたのか、鬼柳の呂律が怪しい。それを聞きながら、相変わらず血の気の引いた顔で遊星が呟いた。鬼柳の自虐は、すなわち自分のことでもあるので笑えない。
 遊星の覇気のない声音と共に、現実がす、と戻ってきた気がした。改めて自分の不調を感じた鬼柳は、再びうつ伏せに地面に倒れ、クロウもまた机に額を押し付ける。興奮のままに叫んだ結果か、余計に悪化したような気がした。
 薬などは当然ない。今日は大人しくしているより他ないだろう。だか、しかし。

「オレ、布団で寝るわ」
「待てクロウ、オレも自分の寝床に、もど、う……おええぇぇっ」
「ぎゃあああああ遊星床に吐くなああああ!!」
「おいおい、遊星大丈夫か? あ、なんか、オレ貰いそう。きもちわるっ」
「鬼柳吐くなよ!? 絶対吐くなよ!?」
「落ち着け。カップラーメンの蓋ならある」
「それでどうしろと!?」

大人しくしていられるかどうか、というところが非常に大きな問題なのであった。


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