薔薇の花園に君を連れていく | ナノ


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砂が落ちていく。刻々と、目に見えるスピードで。

今日で、タイムリミットの最後の1日となる。私は砂時計を握りしめ、部屋に一人籠っていた。今日の何時にタイムリミットになるのか厳密な時間は分からないから、この砂時計だけが頼りになる。もう上段の砂は残り少ない。私に残された時間はあと何時間だろう。早く赤司くんを。そんな事を考えながら、しかし足は一歩も外へ向かわなかった。

怖い。もう時間が無い。早く殺しに行かないといけないのに。どうして私はベッドにうずくまって震えているんだろう。

赤司くんに恋をさせようと決めてから一週間、私達はたくさんの企画を催していっぱい女性達と彼をくっつけた。実際、赤司くんは女性達の何人かに心を開き始めている。自然な笑顔も増えて、きっと私がいなくなっても誰かと恋に落ちるだろう。だからもう大丈夫。後は自分の事だけ考えて、申し訳ないけれど彼を殺して私も助かるだけ。赤司くんだってきっと許してくれる。私の役目は終わったんだ。

テーブルに置きっぱなしになっていたナイフを手に取る。来た当初よりずっと重く感じた。

「殺したくない…殺したくないよ赤司くん。」

涙ぐんだ声が狭い部屋に響いた。最初に見た辛そうな赤司くんの顔、二度目に見た何でもないように笑う顔、三度目に見た消えてしまいそうな、頼りない顔。それらを思い出しては心が葛藤して動けなくなる。ナイフで彼を殺すという行為。その意味はきっと『彼の心を殺す』ということだ。

4日目に見た、女性が赤司くんに告白する現場。彼女は例え消えるのを待つだけだとしても、私は殺せないと言っていた。好きだから、殺せないと。結局彼女は赤司くんを殺して現実に帰って行ったのだけれど、今なら彼女の言った事も少しは分かる気がした。

理性も本能も思考も、全部彼を殺すべきだと言っているのに、体が動かないのは本当に何なんだ。自分の気持ちが分からなくなって布団に包まって泣いた。


コンコン。扉が二度叩かれ涙が止まった。息が詰まる。女性陣に意識されないこの空間で、ここを訪ねてくる人なんて一人しかいない。私は絶対会いたくなくて布団を強く被った。

「名前、」

ガチャリと扉を回す音が何度か聞こえたが、鍵を掛けているので当然開くことは無い。ここで出ないと私が死ぬのに、でも出たら赤司くんを殺してしまう。両方の想いに板挟みにされていっそ心臓がつぶれて死ぬんじゃないかと思った。

「名前、少し話をしないか。【質問票】の最後の質問も、まだしていないだろう。確か『私の事、どう思う』だったか。」
「…メモ帳、見たの。」
「見えてしまったんだ。別に隠してもいなかっただろう。」

扉越しに話をすると、少しだけ気持ちが落ち着いてきた。人と話をするって、なんでこんなに落ち着くのだろう。それが例え初対面でも、親しくなくても、親しい人だと余計に、何でもない事を喋るだけで安心する。



→【質問票】―2週目―「私の事、どう思う?」を選択した後、ブラウザバックでお戻りください。








会話が止んで、しばし静寂が流れる。砂時計を見ればもうほとんど砂は残っていなかった。本当に私は死んでしまうのかもしれない。もう何も考えたくない。泣き疲れて、思考が途切れはじめた頭で、このまま眠ってしまうのもいいかもしれないと思った。それでも眠れないのは、やっぱり白い世界に永遠に彷徨うのが怖いからだ。

「名前、」

赤司くんが再び話しかけてくる。私は答える気になれなくて黙っていた。

「最後の扉が開いたみたいだ。」
「え、」
「一緒に見に行かないか?」

赤司くんが扉の向こうで楽しそうにしているのが分かった。最後の扉には何があるのか、私も気になる。ひとつの扉が開くたび、赤司くんには様々な話を聞かせてもらった。全部赤司くんの思い出話で、全部とても面白くて、その話を聞くたびに私は彼の事がもっと知りたいと思った。

ゆっくりと起き上がって、扉に向かう。ナイフはテーブルの上に置いたまま、砂時計だけ持って扉を開けた。

「やっと出てきた。ひどい顔だね。」
「今言う事がそれですか赤司くん。」
「ふふ、元気はあるみたいだね。じゃあ行こうか。」

赤司くんに手を取られるようにして、階段を降り、一階の廊下の一番奥へと進む。赤司くんの宣言通り、扉の鍵は開いていた。

「やっぱり開いていた。良かった。」
「え、赤司くんには開いたことが分かるんじゃないの?」
「いや、なんとなくそんな気がしただけ。」
「…。もし開いてなかったら私に嘘を吐いていたって事?」
「そうしたら謝るよ。」
「なんじゃそりゃあっ。」

呆れて思わず吹き出してしまった。ようやく笑った、なんて嬉しそうにしても許してあげない。でも赤司くんなら例え扉が開いていなくても無理矢理なんとかして開けてしまいそうだと思った。それに、もしかしたら最後の質問で私に心を開いてくれたから扉が開いたのかもしれないし。そう思うと、ちょっと嬉しい。
扉をゆっくりと開く。ああ、ここも、あの庭園と同じく彼の心を映すようにとても美しい。

「わぁ…!」

その扉は裏口となっており、足を踏み入れた先は建物の外、裏庭となっていた。表の庭園と同じくらいの広さの、草花中心の園内の入り口には大きなアーチが設けられている。まるで不思議の国のアリスに出てきそうな迷路みたいだと思った。表の庭園とは違う、雄大な美しさだ。

「ここは裏庭になっていたんだね。」
「赤司くんでも部屋の先がどうなっているかは分からないんだ。」
「ああ。」
「それにしても、一面緑だぁ。」

庭園、なのに花が咲いていない。表の庭園の華やかさとはまるで違う様相に、私は首を傾げた。不思議そうにしている私とは裏腹に、赤司くんは懐かしそうに園内に目を向けている。私は顔を覗き込むようにして視線を合わせると、どういう事かと彼に問いかけた。

「ああ、ここは、本当は薔薇園なんだよ。」
「薔薇園…もしかして前に赤司くんが言っていた?」

お父さんがお母さんにプロポーズした場所。正確に言えばその場所にとても良く似た薔薇園という事になるが、じゃあこの裏庭に花が咲いていないのはどういう事だろう。もしかして、赤司くんがまだ恋をしていないから?
薔薇は恋の花だから、赤司くんが恋をしたら、この緑一面が真っ赤に色付くのだろうか。それとも、黄色、ピンクなど様々なグラデーションがこの空間いっぱいに広がるのだろうか。
どちらでも、きっととても美しいに違いない。

「…見たかったな。」

思った事がつい口からポロっと出てしまいあわてて口を押えた。最近の私は自分の事ばかり考えて、つい赤司くんに恋愛を焦らせるような事ばかり言ってしまう。そんな自分に反省しつつ、彼が怒っていないか確認すれば、彼は微塵も気にしていない様子で口元を綻ばせ、そして自然な動作で何かを取り出した。

「名前、これを。」
「…っ、」

それは、彼を幾度となく苦しめた、あのナイフ。彼はどこからか隠し持っていたそれを私にやんわりと握らせ、優しく笑った。
私はあまりにしなやかな動作に抵抗する暇さえ与えられず、目を見開いたままそれを握ってしまう。私のもう一方の手から砂時計を受け取り時間を確認する彼は、もう時間が無いなと溜息を吐いて私を真っ直ぐと見つめた。

「名前と過ごして色々な事が見えてきて、思った事があるんだ。」
「思った、こと?」
「名前以外にも、俺を救おうとしてくれた女性が何人かいた。けれど俺は、そうやって誰かが自分の為に動いてくれる度に、その後に待っている“殺される”という行為がより怖くなった。そして怖くても、俺はその気持ちを抑え込んでしまえるから、それがとても苦しかったんだ。」

いっそ逃げてしまえたら良かったのに。彼の口にする言葉はとても重くて苦しくて、そして面白くて目が離せなかった。もっと聞きたい、もっと知りたい、そう思わせる彼の言葉と、それを織り成す彼の心が、私の心を色付かせる。

「今は、彼女たちの気持ちが分かる気がする。名前を見ていると…特にね。」

赤司くんはナイフを持った私の手を包み込むように握ると、正面に向き合ったまま近付いてきた。こつり、とおでこ同士がぶつかって、ガラスの瞳に私が映る。いつ見ても透き通るように鮮やかな赤だった。ガラスケースの薔薇も、この薔薇園も、花が色付いたらこんな風になるのかと思うと、見られないのが本当に残念である。赤司くんの影に包まれながら、私は彼の話に耳を傾けた。

「彼女らも、きっと俺を殺す為に辛い思いをしたんだろう。自分の死とそれを天秤に掛けて、葛藤していたと思う。図書館で刺された時も、それ以外の女性も、皆辛そうに顔を歪めていて、俺はその意味に気付いていなかった。」
「あ、あかしくん。私も辛いよ。このまま殺さないでいられたらって思ってる…。」
「うん。わかっているよ。だからこそ、俺はお前に現実世界に帰って欲しいと思うんだ。もう、殺されても辛いとは思わない。」
「あ、赤司くん…!」

ゆっくりと、ナイフが、彼の胸に刺さっていく。赤司くんが私の手を包むように握って、離してくれない。徐々に手に力を込めていく感覚が伝わって、胸が張り裂けそうだった。ズブ、ズブ、と音を立てながら、服がナイフに食い込んでいく。その光景がとても生々しい。涙が溢れて止まらない。嫌だ。殺したくない。嫌だよ赤司くん。

「ふふ、泣くと余計ひどい顔になるよ。」
「…っ、だから、今言う事が…それですか、赤司くん…。」
「そうだね。」
「…っ、あ」
「…ありがとう、名前。お前に出会えて、良かった。」

赤司くん…ごめんね。

ナイフに、より力が籠められていく。さらさら、さらさら、砂時計の流れは徐々に弱くなり、そして――。

砂時計の砂が落ち切ると共に、刃のすべてが彼の胸に押し込まれ、私の世界は暗転した。


「……さようなら、名前。」




胸から溢れた花びらは、ひらり、ひらりと宙を舞う。カラリとナイフが音を立て落ちる。ゆっくり地面に落ちていく赤を見送って、顔を上げれば、そこにはーー


「ああ、こんな風に咲くのか、ここは。」




ふわり。誰もいない部屋の一輪の薔薇が、彼の瞳を映すかのように赤く、鮮やかに色付いた。

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