薔薇の花園に君を連れていく | ナノ


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薄暗い部屋で、私は静かに目を覚ました。

ここはどこだろう。ぼーっとした頭で考える。そう、たしか私は今日大学で講義を受けていた。それから、いつも通り学食で昼食を食べて、夕日が綺麗だな、なんて考えながら私は歩いていた筈だ。それからはよく覚えていないが、少なくともこんな所で寝るような予定は無かった。じゃあなぜ、私はこんな所にいるのだろうか。

ゆっくり起き上がり手元を確認する。ピンと張ったシーツが私の体重で皺を作っている。真っ白なシーツに重厚なベッド、ふかふかの枕。少なくとも私の部屋のものでは無い。起き上がった反動で肩から鞄がどさりと音を立ててベッドに沈んだ。鞄もちゃんと持っている。まるで歩いていた次の瞬間にはベッドにいたって感じだ。鞄の中身についても、先程と何も変わりはなかった。

次に部屋全体を見回す。窓は無く、年代を感じるものの高級感ある内装だ。部屋の広さはお一人様用のビジネスホテルくらいでそこまで広くは無いが、薄い金色で模様付けられたクリーム色の壁紙や、派手過ぎないシャンデリア、焦げ茶色の扉やベッドなどが西洋館のような印象を与えている。ベッドサイドに置かれた木製のテーブルの上には、キラキラとテーブルランプに照らされ、砂時計が光っていた。

「砂時計…?」

私は砂時計を手に取った。この西洋風な部屋にぴったりのアンティーク調の砂時計。上下の天板と天板を支える三本の柱は鉄製で重量感があり、鉄の小さな薔薇が繊細に装飾されている。銀色にキラキラと光る砂粒は、ガラス管を休むことなく流れ、下部に砂の山を作る。さらさら、さらさら、と止めどなく聞こえる小さな音とふわりと光る砂がなんとも幻想的だ。そこで私はふと違和感に気付いた。

砂が、溜まっていかない。いや、落ちていかないのか。とにかく砂は流れているのに上の砂は減ることが無く、また下の砂も増えることが無かった。
さらに私は違和感に気付く。砂時計を斜めにしても、横に倒しても、勢いよくひっくり返しても、砂は常に一定方向に流れ続けている。止まることなく、キラキラと輝きだけを反射して、重力に逆らっている。

夢でも見ているのだろうか。頬をつねる。

「…。普通に痛い。」

痛覚ははっきりとしているので夢では無いらしい。まさか自分が漫画の登場人物の様に頬をつねる日が来るとは夢にも思わなかった。

砂時計はひとまず置いておいて、再び私はサイドテーブルに目を戻す。テーブルランプと砂時計の他に、もう一つあるものが目に止まって、私はそれをゆっくり手に取った。

「…。」

鉄の感触がずしりと伝わってきて唾を飲む。

ナイフ。砂時計とお揃いの薔薇が印象的な装飾ナイフだ。使う為に作られた物ではない刃先の切れ味は悪く、触っても怪我をする事は無さそうだが、金属の冷たさや重さがいやに不気味感を煽る。この部屋の雰囲気がそうさせているのだろうか。

ナイフをテーブルに戻すと、コトリと小さな音を立てた。自分で立てた小さな音にもやけに敏感になってしまう私は大変小心者である。小心者だけどいざという時の度胸はあるんだ、と自分を無理矢理励まし、私は深呼吸で気持ちを落ち着けると扉へ向かった。

ガチャリ。ゆっくりと扉を開け、廊下に出る。やはりどこもかしこも見渡す限り西洋の洋館そのままだ。目の前は吹き抜けで、前に5歩程前進すればすぐ木製の柵に行く手を阻まれる。手すりに近付き下を覗けば一階のエントランスが見え、ワイン色のカーペットや観音開きの玄関の扉に思わず「うわ…お城みたい。」と一人こぼした。しかしどこか雰囲気が仄暗い。私の様な庶民が住まう東京の片田舎に、いつの間にこんなお城が立ったのかしら、なんて。そんなわけ無い事は説明するまでもないだろう。ここはどこですか神様。

私は誘拐されてここに連れてこられたのだろうか。誘拐された記憶もなければ体に怪我などもしていない為、考えにくいのだが他に心当たりもない。
ダメだ、全くわからない。お手上げだと言わんばかりに二階の柵に前のめりに体を持たれかければ、一人の女性が一階のエントランスを横切るのが視界の端に映った。

「!」

誰か、人がいる!

私と同じ様な容姿をしていたので、もしかして同じような境遇でここにいるのかもしれない。私は逸る気持ちで彼女に近付き声を掛けた。

「あの!すいません!」

彼女は足を止め、ゆっくりとした動作で振り向いた。やはりまだ若い。私と同じくらいの年齢に見える。彼女は無表情のまま私を見つめていた。

「あの、私、気付いたらここにいたんですけれど、ここがどこだかご存知ですか?」
「さぁ。」
「…っ、」

さぁ、って。予想外の反応の薄さに先ほどまでの勢いが削がれる。なんだ、彼女は私と同じ境遇の人間では無いのか?私がおかしいのか?何にせよ、ここでめげている場合ではない。私は話を続けた。

「えっと、貴女はどうしてここへ?」
「さぁ。」
「今までどこにいらしたんですか?」
「さぁ。」
「…。えっと、ありがとうございました。」

私は彼女への期待が急速にしぼんでいくのを感じた。他にも何人か別の女性を見かけ、中には私が出てきた部屋の隣の部屋に入っていく女性も見かけたが、私は声を掛ける気になれず目だけで彼女らを見送った。

何なんだ、どうしてこんなことになったのだ。ある日突然「僕と契約して魔法少女になってよ!」なんて言われるでも、妖精が突然空から降ってきて助けを求められるでもなく、普通に過ごしていたら普通にこの場所に飛ばされていた。説明がある分魔法少女達の方がまだ待遇が良いレベルである。
はぁ、と重いため息が廊下を通り抜ける。何も起こらない。こうやって行くあても無く突っ立っていても仕方がないと、私は探索を続ける為くるりと体を反転させた。

まずは、外に出よう。謎の洋館系ファンタジーでは出入り口が無いなんて展開が良くあるが、幸い出入り口は目立つ位置にちゃんとある。問題は出られるかどうかだ。誘拐めいた現状だけにそれが一番不安だったが、そんな考えも取り越し苦労で、洋館の扉は意外にもあっさりと開いてくれた。重々しい両開きの扉を、体重を乗せる様にしてゆっくりと開いていく。扉の隙間から漏れてくる白い光が、開くに従って薄暗い館内にその幅を広げていった。

体を滑り込ませる様にして館内から一歩、二歩と足を踏み出す。空の眩しさに目を細めたが、慣れてきた頃にはそのあまりの美しい光景に逆に目を見開いていた。

息が、止まる。

「楽園か、ここは…。」

五月晴れの清々しい青空。ちゅん、ちゅん、と小鳥の囀る声。左右対称に広がる噴水庭園には、若草色に広がる芝生と色とりどりの花、そしてその花に移ろう蝶。噴水から湧き出す水は、太陽の光を反射してキラキラと輝いていた。

なんて立派な庭園。
本当に感動すると、人って動けなくなるんだな。そう思うくらい、言いようのない感動が胸に込み上げてきた。もしかして私は誘拐されたのではなく御伽の国にでも迷い込んだんじゃ。状況も忘れそんな事を思った。

辺りをキョロキョロと見回しながら広い庭園を進む。ふと、庭園から目を離し前方の門の方に目を向けた。白かった。空間が白かった。何を言っているか分からないかもしれないがとにかく一面白だった。

「…え。」

なんだこれは。なに、なになに何これ!え、嘘何これ!

自分ではそう叫んだつもりだったが、実際は声も出ていなかった。

白い、とにかく白いのだ。庭園の外、門から先は洋館をぐるっと取り囲む様に一面真っ白。門ギリギリまで走って近付き、上下左右満遍なく見渡してもやっぱり白。手を伸ばして白をかき混ぜてみたら、手は靄みたいなものに包まれて霞んだ。門から外に出たら、いや“落ちたら”と表現した方が近いか、とにかく一歩外に出れば自分が消えて無くなりそうな感覚に陥って、私は早々に庭園を後にした。

それからも、食堂、大浴場、庭園、応接間、図書室、それに各個人の寝室十数部屋と次々見て回ったが、これと言った情報は得られず。いくつかの部屋は鍵がかかっていて開かなかったが、これ以上はいくら歩き回っても得られるものは無いだろう。はいそうです。万事休すです神様。
今言えるのは、ここが現実離れしているという事だけ。いよいよ途方にくれた私だったが、さっきの様に二階の手すりにもたれ掛かっていると、不意にエントランスから声が聞こえた。女性の声だけでなく、男性の声も聞こえる。私は声のする方へ二、三歩階段を下り、手すりに両手をついて下を覗き込んだ。

男性と女性が向かい合っている。何か話をしているのか?私は会話が聞こえる距離まで階段を降りる。

「――めんなさい。本当に…ごめんなさい。」
「…。」
「あなたを、殺します。」

――っ!!

私は声を失った。女性が腕を振り上げた。手には、ナイフが握られている。それを男性に向かって突き立て、押し込んだ。男性は動かない。動じずに、静かにその光景を他人事のように受け入れている。刃物が胸深くに刺さった。

「いやああああっ!」

私は気が動転して、悲鳴を上げながらも弾かれたように彼らの元へ駆け寄った。…駆け寄ろうとした。実際は、その後起こった光景に脳がついていけずに足が止まってしまったのだが。

ああ、これは一体。




女性が消えた。なんのアクションも無く、忽然と。姿を消したのだ。


カランカラン。男性の胸から落ちるナイフの音がやけに響いた。男性の胸からは、血液の代わりに薔薇の花弁がひらり、ひらりと舞い落ちる。何とも言いようのない、不思議な光景だった。赤い花びら、赤い目、赤い髪。どれをとっても神秘的な美しさの男性に、思わず目を奪われる。庭園を見た時と似たような、少し違うような。そんな感覚が全身を支配して、ここから一歩も動けない。

男性は私に向き直ると、透き通るような声で私に言った。




「君も、俺を殺しにきたんだね。」


男性は、今まで見たどの人間より美しく、儚い笑みを浮かべていた。



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