冷徹の女王

彼が言葉を発すると、空気が凍った。

「ウィンターカップが終わって気が緩んでいるんじゃないか。外周もう10周追加だ。」
「パスが遅い。気を引き締めろ。」
「そこ、ミーティング中の私語は慎め。」

キャプテンの厳しい指導に、恐怖半分、信頼と尊敬がもう半分で練習に励む部員達。その様子を、私はマネージャーとして傍観していた。
ああ、また後輩に厳しい事を言っている。そう思いつつ他人事なのは、私達マネージャーに被害が無いからだ。
赤司くんは基本、マネージャー業務に口出ししない。
唯一被害があるとすれば、彼が冷たい言葉を発する度に、私を含め彼と親しい者達が冷や冷やするくらいだろうか。
赤司くんの厳しい注文に、陰で愚痴を零す部員も少なくは無い。その現場を目撃する度、どこかで赤司くんが聞いてやしないかと私達が肝を冷やす。それが、最近のバスケ部の構図だった。

有無を言わせない絶対零度の声色に、冷めた目、冷ややかな態度。女性のように白い肌に冷たい心。
二年になった彼が後輩の間で『冷徹の女王』と呼ばれている事は、部内では有名な話だった。かくいう私も、そのあだ名は言い得て妙だな、なんて思っていたりして。
あ、ひとつ言い訳をしておくと、これは私が彼と仲良しだからこそ思うのであって、決して悪口では無い。
本当に、彼の言葉には背筋が凍る程の冷たさを感じる時があるのだ。

そして今日もまた、たまたま後輩の愚痴を聞いてしまった私は、この現状をどうしたものかと思いながら練習メニューをホワイトボードに書き写していた。
すると、どこからともなく赤司くんがやって来て、冷淡な声で私に話し掛けてきた。

「部活の後で話がある。」
「わあ、…いえ、はい。」

珍しい事を言ってくる彼に、私はもしかして後輩の件だったりして、と内心冷や汗をかいた。

キャプテンとして誰よりも遅くまで練習に残り、誰よりも努力する赤司くん。
後輩だってその姿は嫌という程見てきた筈だから、時には愚痴を言ったってそれが全てじゃない。赤司くんだってそれは分かっているはずだ。
彼の練習風景を眺めつつ、私も例外なく彼の背中を頼もしく思う。赤司くんは冷徹だし女王だけれど、それは外見だけで、本当はとても優しくて、温かい人だと私は知っていた。


部活後、部室に呼び出された私は、深々とした校舎の一室で、赤司くんと対面していた。

「で、改まって話って何?」
「名前は僕が冷たい人間だと思うか?」
「おっふ」

やはりその話題だったか。私は返答に困って曖昧に笑った。
赤司くんは真剣な表情で、僅かに目線を落として口を開く。

「言霊、ってあるだろう。」
「え、うん?何唐突に。」
「他人が僕を『冷たい』と口にする度に、僕は言霊に縛られてどんどん冷たくなってしまう。」

無表情で意味不明な事を言う彼は、どこか声に覇気が無い。

「だから、名前の意見が聞きたい。」

名前は、僕が冷たい人間だと思うか。再び彼が問いかけた。
私は内心「大丈夫かなこの人…」と思いつつも何とか彼を励ましてあげようと思って言葉を選んだ。

「赤司くんは、そうだね。時々冷たいって感じる事もあるけど、私は赤司くんがそれだけじゃないって知ってるから大丈夫。」
「…。そうか。」

うーん。返答が気に入らなかっただろうか。彼は相変わらず浮かない顔をしている。

「…好きだよ。」

うん?

窓から見える外景は黒一色で、もう夜遅いしそろそろ帰りたいなーなんて失礼な事を考えていた、その矢先。

何故か、唐突に告白された。

赤司くんの超人的な思考に凡人の私は追い付いていけない。口を突いて出た言葉は

「ちょっ…と、良く分からないです。」

だった。それを聞いた途端、赤司くんの顔がピシッと固まる。空気が凍った。
ピシ、ピシと亀裂が入るような音が部屋中から聞こえてきて、窓が、扉が、壁が、薄い氷の幕で覆われていく。
それは赤司くんの足元から、這いずるように広がっていた。

「え?え?」

瞬く間に行き渡る氷結。私は夢でも見ているのだろうか。部屋の気温がみるみる下がって吐息が白く溶ける。
棒立ちでアクションを起こす気が一切無い赤司くんは、ピシピシッっと一際大きな音を立ててついに部屋全体を薄い氷で覆ってしまった。
急激な温度低下に空気がシュウ…と霧を上げる。赤司くんは無表情のまま薄い唇から白い呼気を吐き出していた。

「え?何これ?え?赤司くんがやったの?これ。」
「ああ。言った通り言霊だよ。心が凍った影響が体外に漏れ出た結果とも言える。」

何を言っているか全然分からないがそれは私が馬鹿だからでは無い。むしろ馬鹿になってしまったのは赤司くんの頭だ。
つまり赤司くんは、信じがたいが、散々「冷たい」だの「冷めている」と言われ続けた結果、言霊に縛られてこの力を有してしまったという訳か。イッツファンタジー。
って言ってる場合か。理由なんてどうでもいい。とにかく、このままこの部屋に居たら寒くて凍え死んでしまう。
私は取りあえず外に出ようと扉に手を掛けた。

「いった!」

冷たいというより最早痛かった。何という事か、取っ手の金属がカチンコチンに冷えて凶器と化している。
何とかジャージの袖で包んで押したり引いたりしてみても、ドアの切れ目が氷によって壁と一体化していてビクともしない。窓も同様だ。
携帯で助けを呼ぼうにも、私は手ぶらでここまで来てしまった。マネジのロッカーはここに無いので荷物も無い。

「赤司くん。赤司くんの携帯で外の人に助けを呼べないかな。」

私は最後の望みを赤司くんに委ねた。

「無理だ。」
「えっどうして?」

摘まむように持ち上げられた携帯電話。

「凍ってしまった。」

見事にカチコチだった。

「終わった…。」

ああ、いよいよ万事休すだ。このまま朝までこの冷凍庫みたいな部屋で過ごすなんて、絶対死んでしまうって。無理だって。
絶望に駆られる私をよそに、赤司くんは淡々と何か動いていた。
何をしているんだろう。こんな時でも冷静な赤司くんの動作を、奇異なものを見る目で追う。
まず彼は、ロッカーからワイシャツを取り出すとおもむろにそれを私に被せた。
そして、同じようにブレザーを取り出すと更にそれを上乗せした。
仕舞いには、自分の着ていた帝光ジャージを脱いで私に被せた。
半袖一枚の彼が、満足げに腰に手をついている。

「ちょ、ちょっと!待って、これ何?」
「そのままでは風邪を引いてしまうよ。」
「いやそれはこっちの台詞だよ!見てるだけで寒いって赤司くん!私は制服だし寒くないから、赤司くんこそ早く着て。」

実際、寒くないと言うのは嘘だが、この部屋で半袖は不味すぎる。本当に凍死してしまう。

「平気だよ。この体質になってから、多少の寒さは耐えられるようになった。」
「でもすっごい手冷たいよ!」

私は無防備に晒された手を掴んで持ち上げた。それでも平気だと主張する彼に、見かねて無理矢理背中の一枚を彼に掛けようとしても決して受け取ろうとしない。
もう、こうなったら最終手段だ。私は彼の手を引き寄せて、ぎゅーっと彼を抱き締めた。

「…っ、名前、」

首に腕を回して、そのまま上から体重を掛ける。地面に座り込んで、私は一層彼の体を包み込んだ。彼は全身が氷みたいに冷たかった。

「赤司くん体超冷たい。赤司くんが死んじゃう。」
「僕は冷たい人間だから大丈夫だよ。それより、振った相手にこんな大胆な事をして、少し考えが足りないんじゃないか?」
「振ったって…。別に振ってないよ。『ちょっと意味が分からないです』って言っただけ。」
「じゃあ受けてくれるんだ。」
「受けるとも…言ってないけど。」

口を尖がらせながら、大層どっちつかずな返事をする私に、彼は小さく笑ってゆっくり背中に腕を回した。
三枚の上着の下を通って、ぎゅっと背中が締め付けられる。
頬を摺り寄せるように密着されて、微かな吐息と唾を飲む音に不覚にもドキドキしてしまった。
流されるな私。彼をそういう対象として見た事は今までで一度も無いだろう。
ただでさえ勝利が新陳代謝の超人なのに、エターナルブリザードまで宿したとなっては、凡人の私に彼女役など完全に力不足だ。大体何で彼は私が好きなのだろう。
ようやく思考がそこに行きついて、根本的な疑問に気付いた私は彼にそれを聞いた。

「気付いたら好きになっていた。」

彼は私の肩に顔を埋めながらそう答えた。まぁなんともありきたりな回答で。
でもまぁ、実際恋なんてそんなものなのかもしれない。曖昧で、不透明で、不確かで。
そんなものに振り回されて心を乱すなんて、赤司くんも案外普通の男の子なんだな、って、こうやって閉じ込められていなければ思っていたんだけれど。
「でも、」と赤司くんが私の腕の中で続ける。

「名前の一生懸命な姿が好きだよ。マネージャーという役回りを進んで引き受ける姿勢も、相手に気を遣わず、遣わせずに会話を楽しめるその人柄も、さり気無く人を想える優しさも、全部好きだよ。」
「…おぅ、それは、どうもありがとう。」

恥ずかしげも無くするする言葉を紡いでいくそのタラシっぷりに当てられて、単純な私は全身がカァっと熱くなった。タラシというか、この場合は口説かれているのか、私は。

「…寒いな。」

そう言って赤司くんが私を引き寄せる。

「寒い?赤司くん大丈夫?」
「いや、寒くてあまり大丈夫では無い。」
「ほんと?ジャージ着る?着た方が良いよ、ってか着て下さいお願いだから。」
「体じゃなくて心が寒い。名前が僕に温かい言葉を掛けてくれないと死んでしまうかもしれない。」
「…ふざけてるでしょ。」
「ふざけてないよ。本当に必要だから言っている。『冷たい』という言葉を上書きする言霊が、僕には必要なんだ。」
「自画自賛じゃダメなの?」
「好きな人の言葉だから効果があるんだろう。」
「うーん、そういうもん?」
「そういうもん。」

そういうもんなら仕方が無い。なんか流されている気もするけれど、もし赤司くんに温かい言葉を掛ける事で周りの氷が解けるなら、こうして朝まで助けを待たなくてもここから出られる。
正直、部活の疲れと、赤司くんと抱き合っている安心感みたいなもので眠気が限界だった。
眠い。寝たら死ぬぞ。そう言い聞かせながら、赤司くんの良い所を一生懸命考える。

「赤司くんはカッコいい。顔が。」
「うん。」
「頭も良い。運動神経も。」
「うん。」

現状に余り変化は無い。本当に効いているのだろうか。

「うーんと、話していて楽しい。色々勉強になる。」
「うん。」
「後は、面倒見が良い所が良い。冷たい態度の中に親しみを見つけると嬉しくなっちゃう。女子はギャップに弱いからね。」
「うん。」
「それから、部活も委員会も一生懸命で、部長とか生徒会長とかの重みを感じさせない堂々とした姿が素敵。そういう所がモテるんだよね。羨ましい。」
「好きな人に振り向いてもらえなければ意味が無いよ。」
「うーん。そうだねぇ…。」

気付けば、先程まで感じていた寒気は大分和らいでいるように感じた。彼の冷たかった体温も僅かながら上昇している。
寒さが緩んだ事で、逆に眠気が一層強くなった。さっきまでと反対に私が彼に体重を預ける形となり、ウトウトと微睡む。
赤司くんの良いところ、良いところ…。

夢と現実の狭間で、私は最後に思いついた言葉を声に出していただろうか。
判別するだけの意識を保つこと無く、私は深い眠りに落ちて行った。

「…赤司くんの優しくて温かいところが、好き。」





朝目が覚めると、氷は全部解けていた。
地べたに寝転がっていた私は、痛む身体を起こして抱きしめていた筈の赤司くんを探す。

「おはよう。」

声の在処に目を向ければ、彼はすぐ横に座って、膝に頬杖をついて私を眺めていた。

「氷、解けてる…。」
「昨日、名前が眠った後全部解けたよ。」
「ほんと?それ言霊が効いたって事なのかな。てか、それなら起こしてくれれば良かったのに。」
「名前があまりに気持ち良さそうに眠っているから、躊躇してしまった。」

赤司くんはそう言って、吹っ切れた顔をして笑っていた。

窓から微かに朝焼けの光が差し込む。氷が解けたとはいえ、真冬の部室は肌寒く、吐く息が白く濁る。
しかし、半袖の赤司くんは、寝ている私に上着を全部譲ってくれたにも関わらずピンピンしていた。能力のお陰で寒さに強いと言うのは、どうやら本当らしい。

澄んだ空気に「名前、」と私の名前を呼ぶ声が響く。
声の先を見上げて、頭の後ろに手を回された事に気付いて、そのまま。

――、

ちゅ…と、小さくリップ音が響いた。

「名前と一晩過ごして、考えたんだ。」

しゃがんだ姿勢のまま、目を細めて私を見下ろす赤司くんの大人びた表情に、思わず目を奪われる。

「やはり名前は僕のものにしよう、って。」
「…っ。な、なんて強引な。」

茫然と口を開ける私を見て、彼は満足げな顔をした。動揺する私を見て楽しんでいる。
勝手気ままなその態度に、私の脳も段々覚醒してきた。

「ファーストキスだったのに…ファーストキスだったのに!返せ、私のファーストキス!」
「問題無いよ。遅いか早いかだけで、どうせ僕とする事になるんだから。」
「なん…どうしてそうなる…!」

徐々に昇り始める朝焼けが、赤司くんの背を眩しく照らす。逆光になった表情を読み取ろうと目を凝らせば、頬杖をついた赤司くんが、ふと切なげに微笑んだ。

「だって、どうしても諦められない。」

白い息と共に呟いたその声は、冷たくて、温かかった。





**日も昇らない凍える朝、頬杖をついて「だって、どうしても諦められない」

診断メーカー、「僕から君へ、あいの言葉」様よりお借りしました。


2015/9/25 桜桃

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