イージーモンスター

この薬を飲めば工藤新一に戻ることができる。そう灰原に告げられたのが軽く十時間ほど前。タイミングのいいことにその日は満月、キッドの予告日だった。コナンは毎度のことながらキザな予告状の謎を解き、キッドが現れる場所に来ていた。ズボンの右ポケットには灰原から貰ったAPTX4869の解毒剤が入っている。これを飲めば元の高校生探偵工藤新一に戻れる。わかっていても軽い気持ちで飲むのは少々憚られた。
「よう、探偵くん。今日も俺の出迎えか?」
いつのまにかキッドが屋上に降り立っていた。「うっせぇな」返事はいつものようにすることができた。見れば、キッドの手には今日盗んだであろうビッグジュエルが握られていた。笑いながら「照れるなよ」と返すキッドはおもむろにその宝石を月にかざした。詳しい事情は知らないがいつもこうしてキッドは月に宝石をかざした。そうすることでなにかを得ようとしているのか、それはわからないが。
「ほら、はやく返せよ、宝石」
「おや、今夜はずいぶんとせっかちさんですね」
「うっせぇな。早くしろ」
「はいはい」と口許に笑みを浮かべたキッドは宝石をコナンへと放り投げた。なんなくそれをキャッチしたコナンは、その宝石を見つめ、考えるように息を飲み込んだ。キッドはその少しの変化にも気付いたのか、コナンの言葉を待った。これをこいつに言ってなんになる。コナンはコナンで、出そうで出ない言葉を口のなかで泳がしていた。
数十秒、たっぷりと時間をかけてコナンはついに口をひらいた。
「……最後だ」
「……はい?」
「江戸川コナンとしてお前に会うのは、もう最後なんだ」
コナンの言葉にキッドは眉ひとつ動かさずに、ただじっと目の前の小さな探偵を見つめた。最後、すなわちそれは工藤新一に戻り、江戸川コナンの死を意味する。傍目から見れば動揺していない風に見えるキッドだが内心では煩いくらいに心臓が脈打ち、背中や手のひらにはじっとりと汗をかいていた。しかし腐っても世界的に有名なマジシャン、黒羽盗一の一人息子で、怪盗キッドだ。ポーカーフェイスは忘れず顔に貼り付いている。そんなキッドの顔を見てコナンはギクリとした。こいつにそんな話をしてなんになる。そんなの、止めてほしいといってるようなものだ。
「薬、できたんですね」
「よかったじゃないですか」とキッドは続けた。笑みを浮かべよかったよかったと頷くキッドを見ていると、コナンは行き場のない、言葉では表せない思いで身体が埋め尽くされていく感覚がした。そうだ、よかった。やっと不自由な小学生の身体とおさらばできるんだ。蘭をもう泣かせることもない。不必要な嘘をつかなくてよくなる。嬉しくないわけがない。そうだ、俺はいますごく嬉しいさ。そうでなくちゃ、いけないのだ。
「ああ、警部たちに気付かれたようですね」
ポツリと呟かれた声と共に耳をつんざくサイレンの音。勢いよくキッドを見れば、いままでいた場所にキッドはいなく、もう逃げたのかと虚無感が襲った。しかし次の瞬間、視界を埋める白に目を見開いた。
マントで包み込まれたコナンは白く発光するそれを掴み「怖くねえか」と声を漏らした。怖くねえか。こんな、ゴールの見つからない迷路は。キッドは返事することなく黙ってコナンを包み込んでいた。
「俺は、怖くてたまんねぇんだ。キッド」
「……」
「……なあ、俺は、何者なんだろう」
密かに胸に秘めていた思いを口にしたとたん、孤独の海に突き落とされたような、暗闇に独り落っこちた気がした。瞼の裏側は何も写さない。何者なのだ。江戸川コナンは。何のために生まれ、死んでゆく。漠然とした疑問に謎を突きつけられたときの高揚感はなく、むしろ逃げ出したくなった。

「警察だ!」
乱暴に扉を開ける音が屋上いっぱいに響く。しかし警察が求めていた男の姿はなく、居たのは小学生の子供だけだった。先頭をきって飛び出してきた中森はその子供が誰なのかすぐに理解し、また逃がしたと頭のなかで舌打ちをした。
「コナンくん怪我はないかい?」
「うん、大丈夫だよ」
幼いコナンの笑みを見て、今度は溜め息をついた。いつもいつもキッドに逃げられてしまう。謎を解いても、その時にはもう彼の姿はどこにもないのだ。長年キッドを追いかけてきたが、彼の手がかりはいまだになにもない。コナンから宝石を預かり、コナンを送っていくため声をかけたが、コナンはもうすぐ親が来るので大丈夫だと笑った。その笑みが子供らしからぬ大人びた笑みだったので、中森はなにも言えなくなった。
警察が退き、再び一人きりになった屋上で、コナンは先程のキッドを思い出す。

マントに包み込まれ、何も話さず、辺りは静寂に染まっていた。するとキッドがその静寂のなか小さく囁いた。
「名探偵、逃げようか」
見上げればキッドは悲しげに笑い、そうしてコナンの名前を呼んだ。名探偵でも、探偵くんでもなく、コナンと。
コナンは息を飲み、応えるように笑みを浮かべた。逃げよう。こんな暗闇から──。だかしかし次の瞬間にはもうキッドの姿はどこにもなく、扉が開いた。
「警察だ!」
その声を聞き、コナンはああと気付いた。彼は盗んではくれなかった。この得体の知れない感情も、江戸川コナン自体も。コナンは自嘲気味に笑んで、右ポケットに入っている薬を握った。




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