あいされたがりの話

 泣いていた。涙や鼻水を垂らしながらぐちゃぐちゃになった顔で、嗚咽混じりに彼は名前を呼ぶ。「はなみや、はなみや」声は震えているが、それでも意思は強い。小さな手が花宮の手を取り、その手を額に当てる。自分より小さな体をしたその人は、ただ涙を流した。外は静寂に支配され、しとどに濡れたアスファルトの匂いが鼻腔をくすぐる。生温い雨上がり特有の夜の空気は、ふたりを包み、まるでこの大きくも小さな世界にふたりだけのように思えた。
「ずっと、一緒だから。もうひとりなんかじゃないから」
 温かな涙が花宮の手を濡らす。人の涙とはこんなに温かいのかと、はじめて知った。その温もりが、言葉が心臓の緊張を解す。ゆっくりと鼓動する心臓が、久しぶりに温かな血液を体中に巡らせる。指の先が、背中や足の裏、首が、奪われていた体温を取り戻す。もうずっと冷たかったそこが、涙と言葉によって温められる。ほっと息を吐き出すと、白く空気を濁す。寒い。寒いけど、こんなにも、暖かい。頬をすっと通ったそれは、彼のように温かくない。人間になるにはまだまだ先のように思えた。

 ■

「花宮、内定もらった!」
 大きな音を立てて玄関が開いたかと思えば、ドタドタと近所迷惑な程に騒がしく花宮の居るリビングに来た。騒音の主は、ひとつの封筒を突き出しながら、嬉しくてたまらないという顔でそれを花宮に渡し、そのままソファーに体を沈めた。ソファーを背もたれにして本を読んでいた花宮はそれを受け取ると、渋々といった雰囲気を醸し出しながら、その中身を見る。採用内定通知書と書かれたそれには、山崎が6度目に受けた会社の名前が記載されていた。
 ソファーでは、「あー」と疲労が滲んだ声が漏れ、山崎が就職活動中に一番近くにいた身としては、両手を広げておめでとうと素直に言ってあげたくなる。が、妙な羞恥心がそれを制御する。緩みそうになる頬を必死に取り繕い、採用内定通知書を封筒に丁寧に仕舞い、それを目の前のテーブルに置く。
「はいはい、新人いびりする先輩に気をつけろよ」
 素っ気ない花宮のその言葉に、山崎は「もっとなんかあるだろ!」と呆れたような声で嘆く。それを知らないと素知らぬ顔して受け流し、キッチンへと向かう。
 山崎と出会って、気づけばもう10年以上も経った。小学校入学と同時に引っ越したマンションの下の階に住んでいたのが山崎の家族で、マンション近くの公園で見かけたときは驚いたものだ。学校の子が居る! と山崎が花宮の手を引いて一緒に遊ぼうと誘ってきたから、いまのふたりがあうのだろう。思い出すたび、いまのヘタレ具合が嘘かのように、山崎は花宮の中でヒーローのような存在だった。恥ずかしい話、その頃の花宮には、山崎が世界のすべてだったのだ。
 牛乳たっぷりのココアに、ひとつはハチミツを少し入れる。ふたつのマグカップを持ってリビングに戻れば、山崎がクッションを抱えきちんとソファーに座っていた。声をかけようと口を開いたとき、タイミングよく戻ってきた花宮を見て、山崎はその手にあるマグカップにぱっと顔を明るくし、怖いとよく形容される顔を綻ばせる。なにが怖いだ。こんなにヘタレで、すぐ笑うやつが怖いなんて、どうかしている。
 ブサイクなゴリラが描かれた白いマグカップを山崎に渡せば、「サンキュ」と柔らかく笑う。高校の時に染められた金色ではなくなった、黒く、落ち着いた髪色が山崎のその顔を余計に幼くさせた。
 ゴリラのマグカップは花宮が一人暮らしを始めた日に山崎が持ってきたものだ。「一人だとお前寂しいだろ」と厚かましくも、マグカップ以外にもお茶碗やお箸まで持ってきたから呆れた。呆れて、内心どこかでホッとしてしまった。山崎の言った寂しいが、的確に花宮の胸に落ちたからだろう。山崎はいつだって、花宮の理解できない感情を代弁してくれる。その日から一緒に過ごすようになったゴリラのマグカップや、お茶碗やお箸は、頻繁に使われるようになり、お箸は去年、買い換えたくらいだ。
 山崎がココアを飲んでいるのを確認し、花宮も先ほどと同じようにソファーを背もたれに使いそこに腰を下ろす。自分のものは少しコーヒーパウダーを入れ、少し苦い。一口、口内に招き入れると、ほんのりと苦味が鼻を通り抜ける。ほっと息をつくと、山崎が笑ったのがわかった。
「花宮ってさ、やっぱ優しいよなーゲスとか言われてたくせに」
「うっさい、しね」
「素直じゃねえぞー」と間延びした声が煩わしい。笑いながら、花宮の頭をぐりぐりと撫で付ける手は温かくて大きい。小学校の時は、クラスで一番小さかった癖に、生意気な……。ジト目で山崎を見上げれば、目をそっと細めて「ありがとう」とこぼす。その声は温かくて、どこまでも優しい。卑怯な奴だ。小さい頃から、花宮はその声に弱い。
「うっせえよ、ばか」
 自分から漏れた声は、あまりにも覇気のないリラックスした声で、内心笑ってしまった。悪童と嫌われていた高校時代の自分が聞けば、きっと笑われる。だけど、いつだって花宮は山崎に弱いから、高校時代の自分もこうなるだろう。滑稽だ。けれど、それが嫌ではない。逆に、こんな自分が、理由もなく、なんだか好きだった。

「勉強はどうしたの真!」
 怒鳴り声が部屋に木霊す。ああ、またか、と内心呟く。ヒステリックに叫び散らし、先程盛り付けたばかりの料理たちを床に撒き散らす母親は、いつも通り顔にモヤがかかっていた。怒っている時の母の顔は見ないように、自分の中でフィルターをかけていたから、モヤがかかっているのが当たり前なのだが。
「ごめんなさい」
 そう感情のこもらない声が金切り声で叫ぶ母の声を裂く。それを不快そうに聞き取り、「ならはやく部屋に戻りなさい! なにぼさっとしてるの!」ともう一度叫ばれてしまった。
 数分前までニコニコと優しい母親だったが、こうも変貌してしまうのは、元を正せば父親が原因だった。
 仕事が忙しく中々帰ってこない父親は、家庭をほぼ捨てた状態で、ほかに女を作った。それはもう大分昔の話で、花宮が小学校低学年の時だったように思う。その時から母親は時折ヒステリックにモノや花宮に当たり散らし、それから、思い出したように泣いて花宮に謝るのだ。「ごめんね、真。ママを許して」さめざめと泣く目の前の母親に、小さい頃の花宮はそれをどうにも素直に受け入れられなかった。この人は、何を言っているのだろう。幼かった花宮は、いつもそう問うていた。彼女はなにに対し許しを乞いているのか。誰に許してほしくて、誰の心を求めているのか。きっとそれは息子の花宮ではなく、自分を捨てた男に対してだ。花宮を通して、その男を追っていた。ずっと。
 それに気づいたとき、とうとう花宮の小さかった心臓が爆発した。不安と悲しみと、それから虚無感が、小さな花宮の体を襲った。誰も、母親だって自分を見てくれない。愛してなどくれない。独りぼっちだった。周りを見渡しても、傍には誰もいなかった。
――行かなきゃ、どこかに……どこに?
 絹のような雨が世界を濡らす1月の夜、花宮は飛び出した。行くあてなどない。母親も、父親も、自分を見てはくれない。あの家に自分の居場所などなかった。誰かに見つけて欲しい。愛して欲しい。その一心で、暗闇を走り回った。雨は花宮の体温を奪い、白い息を吐き出す唇は次第に赤みを奪い、白くなる。時折傘をさした人が花宮を追い越し、通り過ぎるが、誰も傘もささず、外套も身につけていない花宮に声を書¥かける人はいなかった。
 愛されている自覚は、もうずっとなかったように思う。父の姿を追い、その影を探し続けた母と、母や自分を捨て、他の女の元に行った父。祖父母にも会うことなく育った。誰が、自分を愛してくれると言うのか。
「花宮?」
 気づけば肌を濡らす雨は止み、むわっとアスファルトの濡れた匂いが一気に体を襲った。自分の名前を呼ぶ声の方を無気力に振り返れば、1年の頃に一度クラスが同じになった山崎がいた。1年の頃、同じマンションに住んでいるからという理由で何度か遊んだことがあるが、5年生になった花宮には、その頃の記憶があまりなかった。しかし顔と名前だけはしっかり覚えていたため、不思議に思うも、彼の方に体を向ける。
 山崎の手には紺色の傘と黒色のトートバックを持っていた。どこかへ行った帰りだろうか。ぼんやりとそんなことを考えながら山崎の様子を眺めていると、徐に白色と赤色と黒色のチェックのマフラーを取り、それを花宮の首へと巻いた。「なんでこんな薄着なんだよ、風邪ひくぞ!」そう言った山崎の顔は、少し焦っていた。何故、他人が風邪をひこうが関係ないだろうに。だがマフラーを拒むことはできず、黙ってそれを受け入れる。マフラーからは、温かな匂いがした。
 思えば、いつだって山崎は温かかった。手も、匂いも、存在も、言葉も。みんな温かく、この時から、山崎の隣は花宮の特等席になっていたように思う。
 愛したい、愛されたいと、言葉足らずに泣き出した花宮を、山崎はただただ耳を傾けていた。ひとりぼっちだと泣く花宮の言葉に、いつの間にか泣いていた山崎は、そっと花宮の手を取る。小学校1年の頃に同じクラスで、同じマンションに住んでいて、マンション近くの公園で何度か遊んだことのある子。それだけの関係なのに、一緒の空間に居るだけで、妙に落ち着いた。「もうひとりじゃないから」その言葉が花宮の心を溶かし、鼻が痛む。
 鼻水をすすると、山崎はようやっと笑った。
「帰ろう」

 小学校の頃の記憶がココアと共に蘇る。あのあと、山崎の家に連れて行かれ、山崎の母親にココアを作った。山崎家ではココアにはちみつやコーヒーパウダーを入れるらしく、その時飲んだはちみつ入りのココアは、いまでも花宮のお気に入りだ。山崎家に習ってはちみつやコーヒーパウダー、抹茶パウダーやアーモンドパウダーを入れるが、ここぞという時は、あの時飲んだはちみつ入りのココアを飲むようにしている。その度、ひとりじゃないと教えてもらう。
 両親から逃げるように、山崎の家に入り浸るようになり、山崎の両親に可愛がってもらいながら、ふたりで育った。何をするでも隣には山崎が居て、なにか悪いことをすれば、山崎の母親が自分のことのように怒ってくれた。それがどうにも新鮮で、花宮が山崎家の家に馴染んでいくには、時間はそうかからなかった。
 高校を卒業と同時に家を出た。親はなにも言わずに金だけを出してくれ、無駄遣いするなよと親らしいことを言いながら、花宮の口座に月の生活費を振り込んでくれた。お金はありがたかったが、バイトもした。あんなに嫌っていた親を頼りたくなかったのが本当の理由だが、なんだか気が引けた。
 引っ越してからは、今度は山崎が花宮だけの城に入り浸るようになり、やはいふたりで時間を共有して過ごした。山崎とは学部が違うものの大学が同じだったため、テスト前などにもよく泊まりに来た。それ以外にも、理由などなく泊まっていったが。
 コーヒーパウダー入りのココアを飲み干すと、隣に座っていた山崎がポケットからタバコを取り出し、一本口に含んだ。それをすかさず奪い取ると、「吸うなら外」とだけ言った。はいはいといかにもめんどくさそうに苦笑する山崎は、花宮の手の中のタバコを受け取りベランダに出るのだった。
 大学に入ってから、山崎はタバコを吸うようになった。なんで吸うんだよと聞いても、なにも答えてはくれなかったが、うっすらと、知っていた。
 少し隙間の開いている窓から、マイルドセブンの匂いがする。タバコを吸わない花宮には銘柄はよくわからないが、山崎が吸うから、マイルドセブンは覚えた。むせたフリをして数度咳き込むと、馬鹿らしいと少し前まで山崎が持っていたクッションに顔を埋めた。山崎の香りに混じり、マイルドセブンの匂いもうっすらとする。タバコが嫌いだと吸い出した山崎に散々言った所為で、自らの匂いを気にするようになったが、それでも、消せない程、匂いが根付いている。その匂いは山崎が吸ったマイルドセブンだけではない。そこにはきっと、数年前付き合っていた山崎の彼女が吸っていたマイルドセブンの匂いも混じっているのだ。
 反吐が出る。自分から山崎を奪っていた女は、山崎にタバコを覚えさせ、匂いをつけ、捨てた。付き合って欲しくないというわけではない。だが、あれが山崎と付き合っていたのは花宮の気を惹くためだったのだから、本当に頂けない。けれども、そんなことを知りもしなかった山崎は、純粋に彼女を愛した。愛し、そして傷ついた。彼女が残していった匂いを追い求めるようにタバコを吸い出した山崎の姿を見るのは、辛かったが、止めることはできなかった。愛した人の残り香を求める山崎の姿を見ていると、なにも言えなくなってしまうのだ。
 タバコを抱きしめ、そっと匂いを吸い込む。山崎とタバコの匂いが肺いっぱいにたまる。
 最悪だ。臭い。

 ■

 山崎の就職先が北海道に決まった。元々東京支部に配属される予定だったのだが、人員不足のため、急遽北海道支部に移動となったのだ。
 そう聞かされたときは、とうとう山崎離れをする時が来たのかとぼんやり思った。北海道に自分も行こうかと本気で考えたが、山崎が「離れても連絡しろよ。飯作れ」と言うものだから、自分も行くとは言えなくなってしまった。山崎の両親には息子が北海道に行ったとしても、顔は出してと言われたので、それも花宮に北海道行きを鈍らせた原因だった。
「忘れものは? 行ったら簡単に取りに来れねえぞ」
 北海道に行く前日、山崎の実家に泊まりに来ていた花宮は、早朝のひんやりとした空気が漂う玄関で、袖を伸ばしながらそう声をかけた。「ん」とだけ返す山崎に、こいつは本当にわかっているのかと溜め息が付きそうになったが、そういう気分にもなれない。
 1月の朝。奇しくも、山崎が花宮を見つけてくれた時期と同じだった。
「なあ、花宮」
 昨日からずっとだんまりだった山崎が、ようやく口を開いた。はなみや。自分を呼ぶその声を、もう簡単には聞けなくなってしまう。悲しいが、仕方がないことだ。噛み締めるように山崎の声を咀嚼する。飲み込んで、ようやっと山崎の目を見つめる。昨日から一緒にいるが、はじめて目を合わせたように思えた。どっちも不器用だなと喉の奥でこっそりと笑った。
「ひとりにしないって言ったのに、ごめん」
 ひっそりとした冬の玄関は、あの日のように、ふたりきりの世界だった。声は、罪悪感を含み、不安を増大させる。そこではじめて、涙を我慢していたということに気づいた。山崎の揺れる言葉が、涙腺を強かに刺激し、視界を揺らす。ゆらゆらと山崎と世界の境界線が歪み、色が混じる。泣くな、泣くなと喉の奥で叫び、下唇を噛み締める。会えなくなるというわけではない。だが、自分と山崎だけだった世界が、ふたりだけで密やかに育ててきた小さな国が、崩壊する。それが悲しかった。花宮にとって、山崎は家族であり、友達であり、恋人でもあった。キスもセックスもしない、ただ一緒にいるだけの、恋人のような、友達のような、家族のような存在だった。山崎だけだった。山崎が全てだった。自分の一部が、引裂かれるような感覚がする。いたい。いたいよ、やまざき。
「北海道だろ。そんな遠くねえよ。ばかじゃねえの」
 唇が震えるのを必死に隠しながら、口早にそう伝えれば、揺れる視界で、山崎が笑ったのがわかった。「ありがとう」言葉の意味は、山崎が家を出て行っても、理解できなかった。

 山崎が出てから、花宮はもう一度眠りについた。山崎家で泊まる日は、いつも布団を出してくれるが、それでも一緒にベッドで寝ていた。20を過ぎたいい大人が一緒に寝るのは、少し不気味で窮屈だが、構わず一緒のベッドに潜り込んだ。山崎の温もりと、匂いが、花宮を安心させる。「離れろ」と言いながらも、結局山崎は招き入れてくれるのを花宮は知っているのだ。山崎と眠るときは枕を使わない。山崎の伸ばした腕と、脇の間に入り込み、丸まって寝ているため、枕は必要ないのだ。そんな寝方をしている花宮を見て、先に山崎が起きた日はいつも猫だと言って笑う。そんな少し前までそこに在った日常を思い出しながら、花宮はやはり枕を使わずに眠った。

 目が覚めると、やはり山崎は隣にいなかった。セミダブルのベッドにいつも窮屈に寝ていた所為で、今日はベッドが大きく感じた。山崎がいないだけでどうにも寒い。身震いをし、床に放置されていた山崎の部屋着である大きめのパーカーを拾い上げ、それに腕を通す。ふわりと香るのは、山崎と、やはりマイルドセブンの匂いだ。どこもかしこも部屋は山崎で埋め尽くされている。
 ベッドから出て、いつも山崎の部屋に来た時に座る場所へと腰掛ける。クッションを手繰り寄せ、それを抱きしめる。手をすっぽりと覆い隠すほどのパーカーは、文字通り花宮を包み込んだ。思い出すのは、小学校からいままでのことで、そこには笑ったり呆れたりする山崎が花宮のことを呼んでいる。隣にいる。次に呼ばれるのはもうずっと先だろう。毎日のように会っていたから、これから先の、山崎が居ない生活が想像もつかない。
 気を抜けばすぐにでも泣いてしまいそうだと、鼻をすすりながら部屋をぐるりと見わたす。考えるのはもうやめようと山崎がよく成人向け雑誌などを隠しているベッドの下を探る。高校生のような隠し場所は、いつも山崎の母親や花宮に暴かれるのだ。そしてその成人向け雑誌やDVDは、巨乳や教師ものが多かった気がする。趣味すら高校生だったそれらを、もっとバレにくいところに隠せばいいのに、単純なやつだと苦笑する。
 すると指の先が何かに当たった。雑誌の感触ではない。なんだろうかとそれを引きずり出せば、大きな箱が顔を出した。箱の上には、山崎の字で花宮へと書かれている。ベタだ。ベタベタだ。エロも、サプライズも、すべてベタなやつだ。はああ、と盛大なため息を吐いて、体の力を抜く。いなくなった所で、あまり変わらないのかもしれない。こうやってあの男が置いていったものや、思い出を引き出して笑えれば、もう、ひとりでも大丈夫な気がしてきた。なんとも不思議だ。
 箱には見覚えがあった。これは確か、小学校の頃に山崎が大切にしていた宝物入れだ。茶色の大きなその箱には、当時、おもしろい形の消しゴムや、綺麗なガラス玉、中学の頃に花宮が山崎の誕生日にとあげたピアスもここに入っていたこともしっかり覚えている。
 そっと箱の蓋をあければ、一番上にもう一度山崎の癖のある字で、花宮へ、と書かれた紙が入っていた。それを一番に取り出し、裏を見れば、そこには不器用な字で短く綴られた、山崎からの言葉があった。
――誕生日おめでとう。泣くなよ。
 それだけの手紙でぎゅっと胸が痛む。ああもう、勝てない。卑怯だ。なんて卑怯なんだろう。こんなことを書かれてしまったら、泣きたくても泣けないじゃないか。少し前に大丈夫だろうと考えていたのに、これじゃあもう、寂しくて仕方なくなってしまいそうだ。
 ずっずっと鼻を啜り紙を机に乗せ、箱に目を向ける。そこには、開いているマイルドセブンと、ライターと、マフラーが入っていた。マフラーは、あの時と同じ、白色と、赤色と、黒色の、チェックのそれだった。
「タバコなんて、もらっても嬉しくねえし。このマフラーもお揃いじゃねえか。ばかじゃねえの、あいつ」
 誰も居ない部屋で、饒舌になる自分が可笑しい。泣く前のように息が詰まる。泣くなと釘を刺された手前、泣けない。ぐっとそれに耐えて、箱からマイルドセブンを拾い上げる。開けたばかりなのだろう、何本も中に残っているそれからタバコを一本抜き取り、口に咥える。壁に映る自分の姿は、どうにも決まらない。ふっと笑いながら、ライターで火をつけ、いつもガラス越しに見ていた山崎を思い浮かべながら、その姿を真似て肺に煙を入れる。もわっと広がる苦味と、煙たさに、勢いよく咳き込む。こんなものを毎日吸っていたのか、あのバカは。悪態を付きながら咳き込んでいると、その勢いでぼろりと涙が目から溢れた。
「ゲッは、ゲホッケホッ、あ、あ、ああっ」
 ボロボロ流れる涙が、頬やパーカーを濡らす。涙を止めようとすれば、ひっひっと喉がしゃくりあがり、うまく息ができない。カエルの潰れたような声だ。煙が目に染みて、さらに涙が溢れる。浮かぶ煙が、ベランダの山崎を思い出させる。背中越しに見える煙だ。
 泣くなと言われたのに、山崎がいないだけで、こんなに弱くなってしまう。情けない。小学生のままだ。あの日山崎に見つけて貰って、「ずっと一緒だ」とありもしない言葉を受けた日からなにも変わっていない。もう少しその言葉を信じていたかった、綺麗な言葉は、山崎の宝物入れには入れられない。言葉も記憶もなにもかも、花宮の世界だった。唯一だった。山崎だけが、自分の中で存在していた。これは依存というのだろうか。煙が視界を染める。マイルドセブンの匂いが漂う。微かに香る、山崎の匂いだ。

 ■

 ココアを入れる。少し時間をかけて、ゆっくりと順を追って入れていく。熱した牛乳でココアパウダーを溶かし、最後にはちみつを入れる。山崎の母親と同じ手順で、同じ味を再現する。はちみつを溶かし、ソファーを背にして座り込み、両手でマグカップを持って一口、一口、ゆっくり飲む。味は山崎の母親のものとは少し違うが、これもこれでおいしい。両手で持っているマグカップにはブサイクなライオンの絵が描かれていた。これは、山崎が出発してから家に帰ると、自分専用のマグカップのところに、山崎のものと並んで置かれていたものだ。これも誕生日プレゼントなのだろうか。山崎が北海道に行ってもう1年が経つが、まだ確認はしていない。
 はちみつ入りのココアを飲んでいると、ソファーに転がしていた携帯が着信を知らせるベルを鳴らせる。着信の主を確認する前に電話に出れば、聞きなれた声が機械越しに聞こえた。時計を見れば、時間は丁度12時を過ぎた所だった。
「誕生日おめでとう、花宮」
 携帯越しに聞こえたその声が耳を震わせた。声はくすぐったそうに笑うから、こちらも頬を綻ばせる。
「これから毎年、こうやって律儀に電話してくるつもりかよ」
「それもいいけど、お前すぐ泣くからな。今度は帰ってくる」電話越しの声が楽しそうに言う。もう泣かないよ。そう言えば、彼はなんて言うだろうか。
 外は、夕方から降っていた絹雨が止み、濡れた冬の世界が広がっている。あの時、ひとりじゃないと泣いてくれた山崎を思い出して、ひとりで小さく笑った。





人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -