プラトニック・ラブの奇妙なはなし

 おや、と思ったのはウィンターカップが終わった頃からだ。
 それまで練習中に熱くなってくると冬でも半袖になっていたのだが、最近の花宮は長袖を必ず着て、夏には今までしていなかったリストバンドをするようになった。
 長袖は寒がりな花宮らしいと言えばらしいが、今の今までしてこなかったリストバンドを、引退間近になりやり始めた事に、周りは少なからず疑問を抱いていた。しかしそれを敢えて指摘することなく、その手首の小さな存在を放置してきた。

 ■

 花宮が緩めのカーディガンを着るようになったのは、ウィンターカップ後、そして、木吉と付き合うようになってからだった。
 それまでは少し大きくても手はきちんと見えていたのに、最近着ているそれは、明らかに袖が長く、手のひらが半分隠れてしまっている。
 初めはあまり気にも留めていなかった木吉だが、夏になっても長袖のワイシャツの袖を捲ることなく、そして左の手首にある腕時計の存在に、小さなしこりが胸にできた。

「花宮、どっか行くか?」
 花宮の部屋にどかりと置かれた大きめのベッドに背を預けながら、雑誌を見る部屋の主にそう尋ねてみるが、主は首を振るばかりだ。そうしてしばらくして、少し釣り上がった大きめの瞳が、この部屋に来てからようやく木吉のものと合わさった。
「なに、どっか行きてえの?」
 問うてきた花宮のその顔は、花宮の性格を知る人からすれば想像もつかない程無防備で、それが自分と居るからなのだと思うと、木吉の顔も無意識に緩んでいく。
 こうやって何もない休日に、ふたりで居ることができるとは、そんなものは夢のまた夢だと思っていた。だが、それは現実としてここに在り、その度木吉を喜ばせる。
 木吉は緩んだ顔をそのままに、「いや、ない」と首を横に振って見せた。花宮は「ふうん」と然程興味を見せることなく、素っ気ない返事をして目線を木吉から雑誌に戻した。
 花宮と付き合うことになったからと言って、デートをするだとか、セックスをするだとか、そういった事は一切していない。ただ今までよりもメールをして、時々電話をして、何も予定のない日はどちらかの家に行き、一緒の時間を共有して、思い出したかのように触れるだけのキスをする。
 高校男子にしてはあまりにもプラトニックなそれに、内心苦笑ものだが、木吉はそれで十二分満足していた。
 デートをしたいかと聞かれれば、してみたいし、セックスをしたいかと聞かれれば、勿論したい。だが、花宮の負担を考えると無理にセックスはできないし、デートなどしなくても、一緒に居るだけで今は幸せなのだ。
 雑誌を見る花宮の隣に腰かけ、その雑誌を覗きこむ。
花宮の見ていた雑誌はバスケットボールの専門誌で、あんなプレイをする割には、花宮もバスケが好きなのだ。それに、誠凛戦後から、霧崎第一の悪い噂は影を顰めている。ラフプレイに飽きたと花宮は言っていたが、果たしてそれは本心かどうか、チームメイトすら知らないだろう。何せ、花宮は本心を極端に隠したがるから仕方ない。
 真剣に記事を見ている花宮の肩に頭を預け、花宮の指を見つめる。その雑誌は木吉も持っており、今花宮が見ている記事ももうすっかり読んでしまっているため、暇で仕様がなかったのだ。
「木吉、うざい」
「なあ、なんか面白い話してくれよ」
「うざい。離れろ。散れ」
 淡々と言い放つ花宮に心が折れそうになるが、知らんふりを決め込み、花宮の肩に頭を擦りつける。構ってくれと言わんばかりに擦りつけ、そして雑誌を奪い取る。
「あ、おい!」
 焦ったように少し大きな声で言った花宮を無視して、額を肩に乗せ、そのまま数秒。ご、ろく、と脳内ゆっくり数え、じゅう、と数えた瞬間頭を上げると、花宮は諦めたように空を見つめていた。斜め下から見るその横顔が綺麗で、木吉はそっと肩から頭を浮かせ、掬うように唇を合わせる。
――唇は指よりも少し温かく、ほっとする。
 花宮は人よりも体温が低く、冬になると指先や足の先は死んでいるんじゃないかと疑ってしまうほどに冷たい。生きているとわかっていても、それでもほっとしてしまうのだから、自分も相当この男が好きなのだと自覚する。
 怪我をさせられ、バスケも満足に出来なくなってしまったにも関わらず、それでも好きなのだ。これはもう、病気の域だろう。日向たちが心配するのも無理はない。
 数秒そうして唇を合わせ、そっと離すと、されるがままだった花宮が木吉の頭を叩いた。だがその手にはあまり力が入っておらず痛くもなんともない。
 それすら愛しく思え、木吉の表情筋は緩み、再び叩かれる羽目になったが関係ない。次は少し痛くなっていたから照れかくしだったのだろうと考え、また笑う。
 ふたりで居て何をするという訳でもなく、話も他愛ない話をふたつ、みっつ。ただ時間を共有し、そうして笑うのが、常だった。木吉はそれに幸せを感じ、堪らなくこの空間が好きであった。
 だが、気になるのは、部屋に居ても左手にある不釣り合いなほどベルトの太い時計の存在だ。花宮の部屋には時計があり、携帯も近くにある。どこかに出かけるというのなら腕時計の意味もわかるが、しかし出掛けないと花宮は言う。
――ならあの腕時計はなにか意味があるのだろうか。
 考えてみても、自分は花宮ではないのだから理由など分からない。腕時計を指でそっとなぞる。そうすると、今まで木吉の動きを見ているだけだった花宮がぴくっと小さく肩を揺らし、やんわりとその手を拒否した。
 その動きに木吉は疑問を浮かべたが、それでも肩に頭を乗せている自分を受け入れてくれている花宮に、幸せが勝り、時計の奥の秘密を知ることができなかった。

 ■

 花宮の手首の秘密を知ったのはあれから少ししてからだった。
 その日もいつものように花宮の家でただ時間を共にしていて、何をするでもなく木吉は部員から借りた漫画を読んで、花宮は明々後日に試験があるからと勉強をしていた。
 花宮の頭なら勉強しなくても大丈夫だろうと思うだろうが、数学で少し分からないところがあるらしく、そこを重点的にしている。木吉も初めこそその勉強内容を覗き見て考えていたが、花宮の通う霧崎第一高校は進学校なので、木吉の学力では理解できない応用問題ばかりが並ぶ問題集を前に、すぐに持って来ていた漫画に手を伸ばした。
 ノートを滑るシャープペンの音は耳触りがよく、木吉の鼓膜を震わせる。花宮の字は綺麗であまり癖がない。ちらっと見たノートも綺麗な字で、分かりやすく纏められていた。監督として働き、練習メニューを考え、その練習を毎日しているはずなのに、勉強までここまで完璧にこなすなんて、本当にすごいなと感心する。そしてそのすごさを億尾にも出さない所に更に惹かれてしまう。
 それに比べ木吉の字は筆圧が強く癖が強いため、ノートが擦れすぐ黒くなってしまったり、綺麗だと言われたことなどなかった。勉強もそこそこかそれ以下で、自分は本当に小さい時からバスケばかりだったと改めて思う。
 花宮の項をそっと眺める。室内競技だから、スポーツをしている割に白い肌をして、触れれば木吉の手によく馴染む。触れたいなと思うも、勉強している姿を見ると邪魔は出来ないとその気持ちを叱咤し、手元の漫画に目を落とす。
 何度かそんな事を繰り返し、そしてようやく休憩をするため木吉が寝転んでいるベッドに背を預け、だらりと座ると、花宮は頭をベッドに乗せ木吉に視線を寄こした。
「今日飯食って行けってさ。なんかふたりしてどっか行くらしいから作って置いておくって言ってた」
 花宮からのその言葉は花宮からの母親からのものだろうとわかり、「じゃあお言葉に甘えて」と素直に受け入れる。木吉の返事に今まで少しむっと顰め面をしていた花宮の顔が隠れて顔の力を緩めている姿を見て、木吉の顔の力も緩む。

 そこからはいつも通り自分たちの事をして、少しだけ話をして、お腹がすいたころに花宮の母親が作ってくれていた夕食を一緒に食べた。
 花宮の母親は料理が上手で、よく凝ったものも作っている。その日の夕食はロールキャベツがメインで、久しぶりに食べるロールキャベツは本当においしかった。
 育ち盛りの高校生で、部活もしているふたりの為にといつもより多めに作ってくれていたらしいが、それをぺろりと平らげると、ふたりでそれを片付けにかかった。
 皿洗いは花宮が皿を洗い木吉がそれを拭くという流れに決まり、黙々とその作業をする。
 花宮から皿を受け取り拭いていると、左側に立っている木吉にわざわざ右手で皿を渡していることに気付き、どうしてだろうかと首を捻った。
 ちらちらと花宮の手を盗み見ていると皿を洗っているため、例の時計を外し、袖を捲っている所為で左の手首が露わになっていることに今更ながらどきりとする。
 久しぶりに見る花宮の手首は、他と同じで白い。
 そこをもう気付かれるのを覚悟で凝視すると、花宮の左側に立っていて気付かなかったが内側に切った痕が見えた。
 ハッとして我に返った時には花宮の手首を掴んで、確認するためにその手首の内側をマジマジと見ており、花宮はそんな木吉の行動に目を見開いて何が起こったのかと頭を働かせている。
「これ」と木吉が言った時にそれまで固まっていた花宮が顔を青くしてすぐに手を自分の元へと引いた。だが木吉の手はそれを拒み、ぐっと更に花宮の手を手繰り寄せた。
「は、離せ! 見るな!」
「なんでこんな、これ、リストカットか?」
 木吉の言葉に花宮の動きが今度こそ止まり、恐る恐るという風に木吉を捉えた。
 小さな沈黙がふたりの間に訪れる。
 木吉はどうして、と口にしようとしてすぐにやめた。依然花宮は木吉を見つめ離そうとはしない。その目が木吉にはどうしても突き放すことができなく、無性に抱き締めたい衝動に駆られる。
 前からそうだ。花宮はいつだって不安に揺れる子供のような目でこちらを見る。木吉の膝を壊した時も、部屋にふたりきりで居る時も、いつだってそんな目で見てくるものだから、木吉は花宮の全てを許してやりたくなるのだ。
 確かに膝を壊された時は許せなかったし、怒りもしたが、次第にその目に心が震えた。今では守ってやりたいとさえ思う。
 掴んだ手首の傷痕にそっと唇を押しあてる。傷はひとつやふたつではなく、小さな範囲に傷が無数にある。同じところを切ったのか、はたまた深く切ったのか傷が濃く残っているものや、うっすらと皮膚の色が違うだけのものも、傷の種類も様々だ。それらをひとつ、ひとつ慈しむように唇を這わせるものだから、花宮の顔は赤く染まり、木吉に掴まれている左手もほんのり赤らんでいる。
「死にたい、って訳じゃなさそうだな」
「……なら、もう離せ」
 その返事は肯定なのだろう、それを聞き内心ほっとしつつも、手は離してやらない。再び唇を押し付け花宮の手越しに視線を送ると、観念したように、花宮は小さく息を吐いた。
「別に、理由なんてねえよ。ただ、切ったらどうなんのかなってやってみただけ」
「こんなに切ることが、ただ、か?」
「い、一回切ったらもう一回ってなって、いつのまにか止まんなくなって、そしたら、こうなった」
 バツが悪そうに目を泳がせ答える花宮の言葉に嘘はないだろう。花宮の動きを観察しながら、木吉は花宮の手を持っている方とは逆の手で、花宮の首筋をそっと這わせる。その強くも弱くもない力に、花宮の肩がぴくんと揺れた。
「痛くないのか」
「痛い、けど、それ以上に気持ちいい」
 花宮のその言葉は意外だったが、リストカット常習者は「自分が生きていると実感したい」と言いながら、本当はその痛みから快感を得ているらしいと聞いたことがあった。花宮もそうなのだろう。
「たのむから、此処は切るなよ」
 花宮の動脈をぐりっと押して言えば、は、と息を詰めた花宮がこくりと弱弱しく頷いて見せた。いつもはあんなに強気で弱みを見せない花宮のこんな姿は本当に珍しく、木吉はしばらく動きを止めて、衝動のように花宮の唇に比喩でもなんでもなく、本当に噛みついた。
「いっ……!」
「なあ、じゃあこれも気持ちいいのか?」
 唇は木吉の歯形がうっすらとついていて、ぞくぞくと背中に何かが走り抜ける感覚がする。花宮はそんな木吉を見ながらも、震えるように頷き、その目には涙の膜ができていた。
「やんなとは言わねえけど、できるだけ痕は残すなよ。気持ちよくなりたいなら、俺に言え。噛むでも引っかくでも、なんでもしてやるから」
 涙の膜を震わせながら、花宮はこくこくと素直に頭を縦に振る。そこでやっと木吉は顔を綻ばせ、花宮に触れるだけのキスをした。
 その日から花宮の部屋にふたりきりで居る時、左腕の時計を見なくなった。

 ■

 木吉と花宮はプラトニックな付き合いを続けていたのだが、最近は少し関係が変わった。他愛ない話をふたつ、みっつ。キスは思い出した時に触れるだけのものを、手は繋がないしハグもしないが、距離は肩が触れるくらいに近い。そして時々、木吉は花宮を噛む。唇に、項に、肩に、腕に、指に、ふくらはぎに、足の甲に、歯型はひっそりと花宮の身体で存在感を放っている。
「なあ、木吉」
 熱を孕んだその声が、花宮のお願いの時のサインで、それを聞き、木吉は眉を八の字にさせながらも、内心で興奮を押し殺し、花宮の唇に噛みつく。
「今日は、どこにどうされたいんだ?」
 花宮はその言葉に顔を赤くし、熱っぽい息を吐きだした。




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