水の中で、私は渇きを覚える

 彼の好きな人なら、そんなの、すぐにわかってしまう。 彼は分かりやすいのだから、きっと周りも気付いているだろう。その切れ長の綺麗な瞳で追うのは、いつも一人。いつも、彼の部下である、ジャーファルだけなのだ。
 彼はきっと気付いていない。無意識に動くその視線の先に、当然のごとくジャーファルが居ることに。それがもう、彼にとっての当たり前なのだから。

■Mediis sitio in undis.

 かの有名なシンドバッドとこのような関係になったのはいつからであろうか、と無意味に思考を彷徨わせてみる。それはアリババの癖であり、悪いところでもあった。目の前の現実から逃げたい時にはいつも、このように考えたふりをする。答えなどいつも、すぐ傍にあるはずなのに、それを気付かぬふりして頭をゆっくりと働かせはじめるのだ。
 悪い癖だとは理解しているが、それでも止められないのだから仕方ないではないか――
 誰にともなく言い訳を並べてみる。それも自分の悪い癖だと自覚しながら。
 ため息混じりの吐息を漏らし、髪を掻き毟る。難しいことは好きではない。きっと誰もいい顔をしないだろう自分の状況を再度確認し、逃げ出したくなった。
 アリババはいま、豪華な寝台の上で静かに寝息を立てているシンドリア王国国王、シンドバッドと体の関係を持っていた。
 彼曰く、男を抱く方が後々のことを考えると抱きやすいらしい。そう言われた時は多少ショックを受けたが、この関係になるきっかけは自分にあったから何も言えない。しかし抱かれる側の気持ちも少しは考えてほしいものだとアリババは今度こそ溜め息をついた。いくら慣れていると言っても、やはり痛いものは痛いのである。シンドバッドは知りもしないだろうが。
 アリババには貞操観念というものが欠けていた。それはアリババの育ったスラム街での生活が原因であり、スラム街では体を売り物にする者が多勢いた。アリババの母であるアニスもまた、体を売り、アリババを女手一つで育てたのだ。
 大人たちが行為をしている姿は幼いながらも見てはいけないものだとわかっていたが、嫌悪感は不思議となかった。体を売っていた女性や若い同性の人たちは皆胸を張ってまっすぐに生きていたからだろう。
 アリババも、そんな母や周りを見て育ってきたため、お金に困った時には自分を使った。だがその頃まだ小さかったアリババは、他の人のように自分の中に男性器をいれることができなかったため、口淫などをして金を貰ってきた。太く赤黒いものを咥えるのは大変だったが、これで生活ができるのなら安いものだった。
 こうして歪んでしまった常識がアリババを取り囲み、彼が自分のこの考えが周りと少しずれていると知ったのは、王宮に来た時だった。
 膨大な知識が増えるなか、アリババは自分の考えがずれていることを知った。子供を作るための行為であり、愛を確かめ合う行為。そう学ぶが、しかし体を売ることに否定もできなかった。その時アリババはそう言う考えもあるのだと、そう解釈しておいたのだった。
 そんなアリババが再び男と寝るようになったのは、このシンドリア王国に来てからだった。王であるシンドバッドの酒好き、女好きは今に始まったことではないが、近度が過ぎた行動が増えてきていた。部下何人かを引き連れ酒を飲み、その場に居合わせた女と寝る。シンドリア王国の民たちはシンドバッドが何よりも大切であるから、女も、シンドバッドに迫られると嫌な気にはならなかった。寧ろ嬉しいのだ。シンドバッドと寝ることができるなら、酔った勢いであろうと構わない。そんな思いを密かに抱いた女たちは、敢えて近くでお酒を飲むようにしていたくらいだ。
 そうして毎日のように朝帰りをしていた彼に、政務官であるジャーファルが怒るのも無理はない。一国の王である彼が毎日朝帰りなど褒められたものではない。そんな王であれば、部下や民、食客たちに示しがつかない――とはジャーファルの言葉だ。
 一時的ではあるが、ジャーファルに禁酒命令が下され、それと共に女の居る店にも立ち入り禁止となったのは、アリババがシンドリア王国に来てから半年以上経ってからだった。そしてザガン攻略を控えた現在でもそれは続いていた。シンドバッドのストレスは、極限まで溜まっていたのだ。普段酒や女で発散するそれを、ジャーファルに禁止されてしまったのだから、しょうがない。彼は自分が悪いことも重々承知していた。
 しかし溜まるものは溜まる。彼のストレスは日を追うごとに溜まっていった。だがシンドバッドも立派な大人である。自分が悪いと理解し、そのような素振りを微塵も出さずに努めていた。
 そんなシンドバッドに気付いたアリババは、時折寂しそうな、疲れた彼の背中を見ていられなかった。
 だから、声をかけたのだ。「自分が女の代わりをしましょうか」と。シンドバッドは初めこそびっくりしていたが、ストレスが少しでも解消できるなら、その時はなんでも良かったのだろう。少し間を置いてから、寝室に来るようにと言われた。
 それから、アリババたちは身体の関係を持つようになった。
 アリババの中では一度だけの関係のはずであったそれは、シンドバッドが何かあるごとにアリババのもとに訪れた所為でずるずると長引く結果になったのだ。そして、あの命令が解除された今も、それは続いた。
 はじめて関係を持ったとき、アリババは口淫などだけではなく、後ろを使った。もう体も大きくなっていた為大丈夫だろうと、拙いながらも母の残像を思い出し、自分で自分の後孔を解した。指だけでも正直痛くて堪らなかったが、お世話になったシンドバッドの為だと必死で初めてだと悟られないように振舞った。いま思い出せばなんて滑稽な様子だろう。だが、シンドバッドの上に、アリババはいつも乗った。自分が奉仕する側だという態勢を貫き、それが然も当たり前であるかのように。
 これは、他人に自分の領域を侵されること恐れていたアリババの防衛策でもあった。自分の知らない自分に恐怖を抱いていた。小さい頃に知らない男に体を暴かれかけた記憶が、いまだに深く刻まれているのだ。自分の意志と反し、反応を見せる体が、自分ではないのではないか、自分の中には、もしかしたら別の誰かが住んでいるのではないか。考えれば考えるほど、気分が滅入る。シンドバッドと行為をする際も、時折そのことを思い出し体を震わせたが、その度必死に気持ちを持ち直していた。
 今でこそ気持ちを持ち直したり、冷静にあの頃のことを思い出せるが、昔はそれも難しかった。思い出すたびどこかに逃げ出そうかと足を動かしたり、体を掻きむしり、痛みだけを体に刻んで忘れさせようとした。
「ん、う……」
 思考の波に絡め取られていたそれが、寝返りをうったシンドバッドによって戻された。顔を覗き込めば、いつもの大人びた顔ではなく、少し子供のようなその寝顔に、最近やっと慣れてきた。どんな時だって目が覚めるとシンドバッドはこの部屋から姿を消すのだが、アリババが今日のように深夜目が覚めると隣にシンドバッドが寝ていた。それがたまらなく嬉しくて、時折寝たふりをしてみたり、深夜目が覚めるように努力したりもした。
 穏やかに眠るシンドバッドの髪を梳いてみる。綺麗な髪だ。自分の日に焼けて傷んだ髪に触れて改めて感じる。そっともう一度さらさらと指から逃げていく髪を掬い、シーツの海でたゆたうそれを撫でる。
「この人は、シンドバッドさん。迷宮攻略を初めて成し遂げた、シンドリア王国の国王」
 小さく声に出して頭に浮かんだ言葉をそのまま発音してみる。声は、先ほどの行為で少し嗄れていた。
「俺は、スラム街出身の、母親は娼婦で、父親がバルバッド王だった人。今は、ただの食客」
 この身分の違いに苦笑がもれた。一度は近いところに立つことができたが、今ではバルバッドは王の居ない国である。王子など昔の話だ。
 自分の声が止み、再びシンドバッドの寝息と、時折聞こえる波の音だけが部屋を支配した。月明かりすら頼りない、そんな夜であった。ふたりだけの世界のように錯覚させるそれらが、憎い。目覚めると、この人は自分だけのものではなくなるのだと、暗にそう言っているようにも聞こえる。お前たちの愛する王様は、自分なんかに靡かない。よく理解はしている。
 身体を折って、シンドバッドの唇に一度だけ触れてみた。そこは、行為の時は一度も触れた事のない場所である。シンドバッドは眠っているが、アリババとシンドバッドにとって、それが初めての口づけだった。
 そっと触れたそこは柔らかく、少しだけかさついていた。ああ、こんなものか――アリババは身体をもとに戻しそんなことを思った。アリババはまだ誰ともキスをしたことがなかったので、これが彼のファーストキスでもあったのだ。誰に奉仕をしてもキスだけはしなかった。それがどんなに金をくれた人であってもだ。別に深い意味があったわけでも、初めてを大切にしたかったからというわけではない。ただ、その行為の意味をきちんと分かっていなかっただけだ。
 アリババは自分の少し乾燥した唇を舐め、そのまま、シンドバッドの髪にも唇をかすめさせた。
「……それから、」
 シンドバッドの髪から唇を離し、枕に顔を埋めた。
「それから、シンドバッドさんは、ジャーファルさんが好き」
 シンドバッドがジャーファルを好きなのは、前から知っていた。はじめは仲がいいのだと思っていたが、シンドバッドの目線の先にいつでも、どんな時でもジャーファルがいることに、いつの間にか気付いてしまっていた。それからは、面白いくらいにシンドバッドの気持ちが分かった。そしてそれと同時に他の人の感情にも気付いた。シンドバッドに禁止令を出した時の、あの時のジャーファルの静かに怒るその声には、また別の意味が込められていることに、どれだけの人が気付いていたであろう。きっと誰も知らない。彼は己の感情を殺すことが上手いから。だけども、ずっとふたりを見てきた自分は分かってしまった。ジャーファルの声が微かに震えていたことや、目が悲しげに緩んでいたことに。
 アリババはそんなシンドバッドやジャーファルに罪悪感を抱いていた。しかし、それでもシンドバッドに声をかけることを止められなかった。それが何故だと理由を聞かれても、アリババは曖昧にしか答えられないだろう。
 だがいつも答えはすぐ傍にあるのだ。この答えも確かに傍にあったが、知らぬ、分からぬと首を振り、感情をそっと大事にしまっておく。
 ずっ、と鼻を啜る。目頭が嫌味なくらいに熱い。なんだかなあ。小さく呟いたそれは枕に吸い込まれる。
 ちらりとシンドバッドを見れば、先ほどとは何も変わらない、綺麗でどこか幼い顔で眠っていた。
「鈍いんだよなあ……」
 少し笑いながら言ったはずなのに、その声は面白いくらいに震えていて、どうしようもなく泣きたくなった。なんだかなあ。声はとうとう出なくなった。

 ■

「アリババくん! 起きておくれよ!」
 聞き覚えのある声が響く。薄らと目を開けると、見知った顔が、満面の笑みを浮かべアリババの上に跨っていた。それが昨日の自分とはあまりに違って少し笑える。当たり前だ。意味が違うのだから。気持ちも、大分違う――
 純粋無垢に笑う親友の、アラジンの笑顔を無意識に羨ましいと思った。自分もこうなりたかった。自分から望んだことだが、それでも、気付きたくなかった、知りたくなかった。
「どうしたんだよアラジン」
 上体を起こし、アラジンの頭を撫でる。昨日のシンドバッドと違う、だけども、アラジンの髪もさらさらとしていた。
「一緒にご飯を食べようよ。今日は君の好きなパパゴラスのお肉があったよ」
 自分の好物の名前に、アラジンが自分を起こしにきた理由がわかった。
「よし、食いに行こうぜ!」そう笑いながら起きようとしたので、アラジンはその場から降り、アリババが起きるのをベッドの傍で待った。
 その場で寝巻を脱ぎ、服に着替えようとした時、アラジンが「あれ」と声を漏らした。何かを見つけたのかとアラジンを見遣れば、アラジンが自分の胸に指を指して不思議そうな顔をした。
「アリババくん、虫にでも刺されたのかい?」
 そう聞かれ自分の胸元を見れば確かに赤くなっている。そこは虫に刺されたと言うよりも、鬱血痕に似ていた。
「――!」
 昨日のことを思い出し、一気に体温が高くなる。もしかして――昨日シンドバッドと寝たときこんなものはなかった。ならばこれは――
 そうだとしたら、なんてずるい人なのだろうか! 彼は、あまり意味も考えずにつけたのだろうが、それでも、他人がこの意味を知れば勘違いしてしまうだろう。
 アリババは不思議がっているアラジンになんでもないと笑い、急いで服に着替えた。
ずるい、ずるい、酷い!――
 胸元にある赤い鬱血痕のある場所を、服越しに擦る。そんなことをしても消えることはないが、やらずにはいられなかった。
 アラジンに促されるまま、廊下に出で大広間まで歩いて行く。アラジンは楽しげに話しをするので、それに返事をしながらも、昨日のことを思いだす。
 シンドバッドは自分に好意なんて持っていない。ただの体のいい性欲処理のはずだ。なのに、何故こんなものを付けるのだろうか。ただの戯れだったのだろうか――意味のない行為だとしても、それでも深く読んでしまう。そんな自分に嫌悪した。
「あ、シンドバッドおじさん」
 その声にハッとして前を見れば、シンドバッドが前方から歩いてきた。動揺していることを周りに知られたくなくて、急いで平常心の自分を演じる。落ち着け、落ち着け、と呪文のように繰り返しながら、下手くそな笑みを携える。
「おはようございます」そう言えば、シンドバッドは「おはよう」と朗らかに笑った。
「これから朝食かい」
「うん。今日はアリババくんの好きなパパゴラスのお肉があるからアリババくんを誘いに行っていたんだ」
 楽しそうに笑うアラジンに、シンドバッドも微笑み、アラジンの頭を自分の子供にでもするように撫でた。シンドバッドは相変わらず自然体で、それが悔しかった。自分はキスマーク一つでこんなにも動揺しているというのに、当の本人は何食わぬ顔で居る。同じ人間なのに、こうも違うのかと、だがシンドバッドにとって意味のないことだったと思い出し、一気に気持ちを落ち着けようとアラジンとシンドバッドから目線を離し、窓から外の風景を見た。それがなんだかシンドバッドに負けたような気がして、自分でしておいて少しへこんでしまった。
「そうだ、アリババくん」
 不意にシンドバッドに名前を呼ばれたので、外の景色からシンドバッドに目を向ければ、シンドバッドは変わらず笑顔でそこに居た。アリババは動揺などしないように、少しだけ背を伸ばした。胸の痕を思い出す。彼はどんな顔であれを残したのだろうか。
 そんなアリババに知ってか知らずか、シンドバッドは笑みを深くした。
「身体の方はもう大丈夫かい。昨日も疲れただろう」
 その言葉に、カッと顔が赤くなったのが嫌というほど分かった。
 酷い! ずるい! ずるい! アリババは頭の中で声の限り叫んで、「大丈夫です!」と大声で言い残し、その場を逃げるようにして去った。

 アリババが去ったあと、シンドバッドは楽しそうにくすくすと笑った。その顔はどこまでも楽しげで、しかし大人の余裕のようなものすらあった。そんなシンドバッドをちらりと見てから、アラジンはアリババの去った方を見た。アリババの姿はもう見えなかったが。
「アリババくんを悲しい気持ちにさせたら、シンドバッドおじさんでも許さないから」
 その声はアラジンの見た目からは考えられない程に低く、シンドバッドの背にゾクリと悪寒が走った。
 しかしそれすらも隠す様に、シンドバッドは笑いながら「怖いなあ」とだけ呟いた。




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