冬花はゆっくり息を吐いた。まだ出勤の時間までは一時間ほどある。ふと、自分の担当している男の子の顔が浮かんだ。サッカーが大好きで、看護士の目を盗んではしょっちゅう病室を抜け出すあの子だ。冬花は彼を見ていると、自身の中学生の頃を思い出す。あの頃、冬花も周りの誰もがサッカーに夢中だった。冬花にとっての青春とは何か、と聞かれれば迷わずサッカーと答えるだろう。冬花はマネージャーをしていた。おにぎりを作った時のあのお米の熱さ。汗や泥にまみれたユニフォーム。その一つ一つを思い浮かべていると、冬花の心がちくりと痛んだ。そして、ある一人の笑顔が浮かぶ。それはあの頃冬花が好きだった人のことである。 彼女――木野秋は、いつでも笑っていた。円堂たちが世界大会で優勝した時や卒業式以外に、彼女が涙を流すところを冬花は見たことがない。――いや、実は一回だけ見たことがある。しかし、大人になった今でも冬花にはあの涙の意味が分からないままだ。 あの頃の二人は何をしても楽しかった。冬花の隣には秋がいて、また秋の隣には冬花がいた。二人は当たり前のように一緒だった。暖かな窓辺で寄り添って本を読んだり、知っている歌を二人で口ずさんだり。それはまるでシャボン玉のようだった。冬花と秋は輝きだけを無数に生んだ。ふわふわと浮かんで、すぐに消えてしまう一瞬のシャボン玉を。 お揃いのストラップを携帯電話に付けたら、秋は喜んだ。指を絡ませあえば、二人の頬は赤くなった。そのまま秋の柔らかな唇にキスをしたら、秋も冬花にキスを返してくれた。冬花と秋は共に数え切れないほどの夢を見た。大人になった私たちはどんな風になっているだろう。きっと秋さんは素敵な女性になるわ。冬花さんだって。交わした言葉もきらきら輝き、弾けて消える。冬花は秋を本当に愛しく思っていた。 しかし冬花は分かっていた。初めて秋が自分の思いを受け入れてくれた時から、この関係はいつか終わってしまうものだと。冬花は最初から、秋を見ているふりをして、本当はその先にある終わりだけを見つめていた。もちろん秋がどう思っていたかなど冬花は知らない。もしかしたら秋もまた、冬花と同じ場所を見つめていたかもしれない。それとも、何も考えずに冬花の名を呼んでいたのかもしれない。 そしてついに別れの時が来た。それは季節が変わるよりも自然に訪れた。冬花は秋のことを嫌いになったわけではない。秋もまた同じだ。しかし冬花は感じた。冬花も秋も、大人になる時がきたのだ。夢の中でシャボン玉を飛ばし続ける時間は終わりをむかえる。冬花と秋は最後に、口付けを交わした。短いキスの後、冬花は淡々と喋った。 「私たち、大人になるのね」 「そうね…冬花さん、」 秋は何かを言いかけて止め、言葉のかわりにぽろぽろと涙を零した。冬花はそれに狼狽えることはなく、かといって一緒に泣くわけでもなく、胸が痛むのを感じながら秋を抱きしめた。この秋の涙が、二人の最後のシャボン玉であった。 これが冬花の見た秋の涙である。冬花には、未だに秋が何故涙したのかは分からないままだ。寂しくて泣いたのだろうか。大人になりたくなくて泣いたのだろうか。冬花はそれを秋に聞くつもりはないし、秋も冬花にそれを教えることなど無いだろう。だから冬花に分かるのは、確かにあの時、二人は煌めきの中で幸せだったということだけだ。 そうしてわたしは夢を見たの title by 少年レイニー |