どれだけ好きでも、自分は恋愛対象としては見てもらえない。でもそれでいいと思っていた。思いを伝えても拒絶されることは分かっている。だから、せめて今の心地よい距離を保っていたいーー。それは「逃げ」で、「守り」であることを茜はよく分かっていた。しかしそれ以外に方法はなかったのだ。この気持ちを大切に、壊れないようにするためには。


 ざあざあと降る雨を眺めて、茜は憂鬱な気持ちになった。茜はあまり雨が好きではない。靴に雨水が染みるし、車がはねた水がかかって制服が濡れるからだ。嫌だなあ、とため息をついた時、ちょうど隣に同じように空を見上げる姿があった。どこか悲しげな表情を浮かべるその人は葵だった。茜の心臓は一気に跳ね上がる。茜は葵のことを密かに想っていた。もちろん、その思いを伝えたことはないし、伝えるつもりもないが。
 葵はどうやら傘を持っていないようだった。彼女が持っているのはスクールバッグだけだ。どうしようか、と不安げな葵の顔を見れば、茜の心はすぐに動いた。


「葵ちゃん、一緒に帰ろう」
「えっ、いいんですか?」
「うん。ほら、入って」


 茜が傘を開くと、葵は「ありがとうございます」と言いながら入ってきた。茜は葵が濡れないように、傘を傾ける。自分の体が濡れることなど、茜にとってはどうでもいいことだった。茜は口調こそ普通だが、今のこの状況にとても緊張していた。だって好きな人と同じ傘に入っているのだ。
 ちらりと横を見る。葵の顔がいつもより近い。近すぎるくらいだ。茜は心を落ち着かせようと、何度も意味のないまばたきをする。傘を持つ自分の手が震えているのが見えた。なんて単純なのだろうか。そう思ってみても震えは止まず、心臓の音は大きくなっていく。
 二人はたわいもない話をしながらしばらく歩いた。それはいつもの会話とあまり変わらない内容だったが、茜はそれすらも特別に感じた。サッカー部のことを話す葵はとてもきらきらとしていて、茜はその眩しさにうまく目を合わせられない。でも茜は楽しい。叶うなら、この時間が永遠に続けば良いのにーー。願うようにゆっくりまばたきをしたら、葵が口を開いた。


「茜さんって優しいですよね。こうやって傘に入れてくれたり」
「えっ」
「私、茜さんみたいな先輩になりたいです」


 そう言ってにこっと笑った葵の顔を見つめると、茜の心に雷が落ちたような衝撃が走った。そしてどきどきは一瞬にして消える。すぐに心の中に生まれる一つの事実。


 ーー葵ちゃんにとって私は、ただの先輩でしかない。
 ーー私は葵ちゃんの恋愛対象には、なれない。


 分かっていたはずなのに、その事実は茜をきつく締め付ける。まるで天国にいるかのようだった茜は、一気に突き落とされた。
 こんなに近いけれど、手を伸ばせば届くけれど、葵は自分をそんな風には見ていない。だって今の葵の笑顔には、茜への憧れだけが浮かんでいる。それは純粋な憧れで、まさかその茜が自分のことを好きでいるなど考えもしないのだろう。
 茜は苦しい。思いが届かないことはもちろんそうだが、葵の尊敬する「先輩としての茜」を壊してしまわないようにすることが。茜は葵に慕われることに小さな幸福を感じていた。例え恋愛対象として見てもらえなくても、先輩として葵は自分を好きでいてくれる。その尊敬の気持ちで良かった。葵が自分を思ってくれているということがただ嬉しいのだ。
 けれどもこうして葵と一緒にいると、幸せと同じ位苦しみが募ってゆく。茜を舞い上がらせるのも、どん底へと突き落とすのも、すべて葵なのだ。思いを伝えてしまえば楽になれるだろう。でもそれはできない。自分は臆病なのだと茜は思う。ずるくて臆病だから、この関係を壊せない。


「…葵ちゃんなら、もっといい先輩になれるよ」


 なんとか絞り出した声は、不思議なくらいいつも通りだった。葵はその言葉に照れくさそうに笑う。
 きっといつか葵には、大切な人ができるのだろう。それは自分ではない誰かだと茜は思う。葵にとって自分はいつまでも「先輩」で、それ以上になれることはない。そう思うと涙がこみ上げてきた。葵に見られないように、茜は逆の方へ顔を向ける。葵はそんな茜に気づかず、前を見て話す。
 ふいに肩が触れて、茜はその瞬間涙を一粒こぼした。どこまでも片思いだ。葵は肩が触れたことなど、明日には忘れてしまうのだろう。でも茜はきっと、今日を一生忘れることはできない。葵が話した言葉や笑顔も全部覚えている。
 雨の当たらない傘の中は、まるで二人だけの世界のようだった。ーーこのまま世界が二人だけになってしまえばいい。そうすればきっと、私のことを見てくれるのに。
 でもそんな願いは叶わないことも、茜は分かっていた。だから今は、今だけは、葵と二人きりの世界にいさせてくださいと祈る。隣の葵は楽しそうな笑顔で、それだけが救いだと茜は思った。
 雨はまだ降り続けていた。傾けた傘のせいで、茜の肩は濡れている。それでも茜は、葵のことを嫌いにはなれない。自分がどんなに強い雨に打たれようとも、茜の心は必死に叫ぶ。今にも消えてしまいそうで、何よりも真っ直ぐなこの恋心を、叫び続ける。




いくつかのはかないもの


title by ポケットに拳銃

BLコンテスト・グランプリ作品
「見えない臓器の名前は」
- ナノ -