葵には悩んでいることがあった。それは恋人の茜についてである。付き合う前までは、部活動の時にじゃれあったりふざけて抱きついたりすることが多くあった。それからだんだん茜に惹かれるようになり、そんなことがある度に心臓が早くなっていった。友達としてのスキンシップだ、と自分に言い聞かせてみても駄目だった。「やったあ」「葵ちゃん」ーーそう言って、試合の途中に抱きしめられたときには、ときめきを隠せない。茜はただ興奮してそうしてきただけかもしれない。それでも、もしかしたら、という淡い期待がいつも生まれては消えた。 それからしばらく経ったある日、葵は茜に好きだと告げられた。茜があまりにも普通の調子で言うから、葵は最初告白されていると気付かなかった。 「私も、茜さんのこと好きですよ」 「…うーん、あのね。友達とか後輩として、って意味じゃないんだ」 「え…?」 「恋愛感情の、好き、だよ」 「…えっ、本当、ですか? 茜さんが、私を…?」 葵の戸惑った表情の意味を誤解したのか、茜は慌てて首を横に振った。 「…ううん、やっぱり今の忘れて。変なこと言ってごめんね」 「…そうじゃないです! あ、あの、私も…好きなんです」 「え?」 「だから私も…茜さんのことが、好きです」 今度は茜が目を見開く番だった。 そして二人は付き合うことになった。二人で一緒に帰ったり、出かけたり。葵は思いが通じたことが本当に嬉しくて、茜と一緒にいれば何をしていても楽しかった。 だけれど、時間が経つにつれ葵は気になることができた。それは付き合う前よりも、茜が自分に触れなくなったことだった。じゃれあいの中でのスキンシップはほとんどなくなった。隣を歩いている時も、手さえ繋がない。最初は茜と付き合える嬉しさで何も考えられなかった葵だが、だんだん不安を感じ始めるようになった。自分は、茜に嫌われてしまったのだろうか。どうして茜は、自分に触れてくれないのだろうか。一度考えてしまうと不安はぐるぐる回って頭から消えない。自分だけが、好きなのだろうかーー。そう思うと涙が出てきた。 茜のことが、分からない。茜の笑顔を見ても、いつも頭のどこかにもやもやとした気持ちがあった。 「葵ちゃん。どうかしたの?」 「…あっ、なんでもないです…ごめんなさい」 葵は茜の声にはっとする。考え過ぎて、恐い顔をしていたらしい。茜が不安そうにこちらをのぞき込んでいた。 茜の部屋をぐるりと見回す。タンスの上には大きなコルクボードが立てかけてあり、そこには茜が撮った写真がいくつか飾られている。サッカー部の部員たちの写真や、葵の写真もあった。葵はそれを見てますます落ち込む。自分は茜にとって、なんなのだろう。例えば、茜が慕う神童が茜に告白してきたら。自分なんて簡単に捨てられてしまうのではないか。だって二人きりになっても茜は葵の指さえ触れない。 そう思うと、じわりと涙が出てきた。泣いてはいけない、と一瞬考えたけれど、涙は止まらない。ーーああ、私って最低だ。勝手に落ち込んで、泣いてしまうなんて。葵の頬を涙が伝ったとき、茜の慌てた顔が近づいた。 「どうしたの?どこか痛いの?」 「…違うんです。私が、悪いんです…!」 うまくしゃべれないでいると、ふいに茜が抱きしめてきた。最近感じていなかった温もりに、葵はまた涙をこぼす。茜の体は温かくて柔らかい。茜は「どうしたの?」と優しい口調で聞いてくる。葵は泣きながら、ゆっくり口を開いた。 「…茜さん、全然私に触れてくれないから。付き合ってから、抱きしめたりとか、全然なくて。私茜さんに嫌われたのかな、って…すごい不安で。こんなことで泣くなんて、馬鹿みたいですよね。でも本当に怖くて…!」 そこまで言うと、茜は驚いた顔をしてそれから申し訳なさそうな顔をした。葵を抱きしめる力が強くなり、二人はより近づく。お互いの心臓の音が聞こえそうな程くっついた時、茜が口を開いた。 「ごめんね。私全然葵ちゃんのこと考えてなかった。私ね、葵ちゃんがすごく好きなの。だから付き合うことになって嬉しかった。本当は抱きしめたりキスしたりしたいよ。でも怖かったの」 「怖い…?」 「葵ちゃんを傷つけてしまうんじゃないか、って。そう思うと手を繋ぐこともできなかった。でもそれが逆に、葵ちゃんを不安にさせてたんだね」 「…そんな、いいんです!」 「ううん、私が悪かったの。だから涙を拭いて」 茜はにっこり笑う。葵は手で涙を拭い、微笑み返す。葵の胸の中には幸せが広がっていった。自分は嫌われていた訳ではなかったのだ。茜は、自分のことを本当に考えてくれていたのだ。その事実が嬉しくて、葵は力を込めてぎゅっと茜を抱きしめる。茜は「ごめんね」と言いながら優しく葵の頭を撫でた。 しばらくそうしていた後、二人は抱きしめるのを止めて見つめ合った。 茜が口を開く。 「…葵ちゃん。キスしてもいい?」 「はい」 「じゃあ、目、閉じて」 葵が目を閉じると、茜の顔が近づいてくるのが気配で分かった。そして唇に温かいものが触れる。唇が離れて目を開くと茜と目が合う。二人は笑って、もう一度目を閉じた。そして二度目のキス。茜の舌が入ってきて、葵は口を開いてそれを受け入れた。 「…んっ、あ…っ」 聞こえる自分の甘い声とリップ音に、葵は顔を赤くする。でも嫌ではなかった。葵は精一杯舌を絡め返す。 息が少し苦しくなってきたころ、二人は唇を離した。そして見つめ合う。漂う甘い空気にとろけそうになった時、また茜が抱きしめてきた。今度は優しく、包み込むように。茜は葵の髪を撫でながら、耳元で囁いた。 「これからは、いっぱいこうしてあげるからね」 「…はい」 耳元がくすぐったくて思わず身をよじると、逃がさないよと茜が抱きしめる手に力を入れた。「もう、くすぐったいです」そう言って笑うと、茜は耳にちゅっとキスをした。茜の唇が触れた左耳が熱い。だけれど葵は、その熱さに幸せを感じていた。葵が「お返しです」と茜の頬にキスをすると、茜は楽しそうに笑う。二人の頬は、赤く火照っていた。 大切過ぎて君の名すら呼べぬとは title by 歯車 |