葵はぼんやり考え事をしながら、冷たい廊下を一人で歩いていた。それは最近葵を悩ませている、誰にも言えない葵の秘密である。実は、葵は同じ部活動で一緒にマネージャーをしている茜のことが気になっているのだ。しかもそれは、ただの好奇心ではなく恋愛感情に近い意味の「気になる」だ。
いつからだなんて分からない。茜が写真を撮る姿に胸をときめかせる自分に気付いたのは、本当にここ最近のことだ。じゃれあいの中できゅっと抱きつかれたときには、茜の体の柔らかさとシャンプーの香りを感じてドキドキした。だが、同じ女である茜に対してこんな感情を抱くのはおかしい、と葵は思っていた。――男の子にときめくならまだしも、同じ部活の、ましてや女の先輩にときめくだなんて――だから葵は、この気持ちはきっとただの憧れだと思うようにしていた。そう思っていないと、おかしくなりそうだった。−−だってこんな風にドキドキしたり目で追ったりしているのは、まるで恋のようではないか…。葵はもんもんしながら、図書室に向かっていた。借りていた本の返却日が今日だったのだ。
図書室につくと、出入り口の横の廊下に上履きが一足だけちょこんと並べられていた。当番の委員が中にいるのだろうか。葵はそう思い上履きを脱いで図書室のドアを開ける。しかしカウンターには委員の姿はなく、さっきの上履きは誰だろうと中を見回す。するとその瞬間、よく知る声がテーブルの方から聞こえた。


「葵ちゃん」
「あ、茜さん!」


テーブルで本を開いていたのは茜だった。振り向いた茜のゆるい三つ編みが揺れる。さっきまで考えていたことを思い出し、葵は少し恥ずかしくなった。茜は席を立って葵のいる方へと近づいてきた。


「ねえ、葵ちゃん」
「なんですか?」


すると茜は何も言わずに顔を寄せてきた。突然のことに、葵は頭が真っ白になる。…あ、茜さんって肌が白くて綺麗だ…。鼻の先がくっついてしまいそうなほど近くに茜の顔がある。かちり、と時計の針が動く音がした。図書室は静寂に包まれて、葵は無意識に息を止めていた。近い。茜がどこか切なそうな表情を浮かべるから、葵は次第に心臓が速くなってきた。何をするつもりなのだろう。冷静に考える自分がいるけれど、ドッ、ドッ、と心臓がうるさい。
え、と小さく声に出した瞬間、葵の唇に何か温かいものがふれた。茜との距離はゼロになっている。触れたそれは茜の唇で、キスをされたと気付くまで葵は目をパッチリ開けていた。まともに呼吸も出来なくて、まるで時間が停止してしまったかのような葵。そんな葵を見て茜はふふ、と笑った。
――今、茜さんにキスされた?
一瞬消えていた心臓の音がまた聞こえる。さっきより何倍も大きく速いその音に、葵は混乱した。


「あのね、葵ちゃん。私、葵ちゃんのことが好きなの」
「…え…?」


葵の手から力が抜け、持っていた本がどすっと音を立て床に落ちる。しかし葵はそのことに気付かず、ただ速くなっていく鼓動を感じていた。
茜はにっこり笑っている。葵はなにがなんだか分からないまま、茜の目を見た。その紫色の瞳と長い睫毛。それらはいつも見ているはずなのに、近いからだろうか、なにかとても美しいものに見える。


「ねえ…」
「…はい」
「葵ちゃんは、どうかな?」
「私は」


葵の頭の中で、今まで茜にときめいた出来事が浮かんでは消える。あの時自分が否定した胸の高鳴り。女に恋をするだなんておかしいと思いをかき消した自分。でも、茜は今確かに葵が好きだと言った。葵は、見えていた世界が崩れていくような感覚に襲われた。
そして崩れた後に心に残った一かけらの気持ちに気付く。葵は分かってしまった。−−私は、茜さんのことが好きなんだ…。


「私も、好きです」


震える声でそう言うと、茜は夢を見ているような幸せそうな笑みを見せた。そしてもう一度葵の唇に口づけをする。茜の、かすかに濡れた唇を感じた時、もう戻れないな、とどこか夢見心地で葵は考えていた。




恋に堕ちる法則


title by 歯車

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