やめてほしいよ | ナノ


「先輩」


とても綺麗な声で、わたしのことをそう呼ぶ。ぞわりぞわり、背筋が凍った気がした。なんだと問い返せば、お願いがあるんです と。申し訳なさそうに眉を寄せて、彼はわたしの瞳を見詰めて、捕らえる。捕らえられる。逸らすことも出来ず、わたしは声にならない悲鳴を胸中で叫んだ。嫌な予感がする。この先のことばを聞いてはいけないなんていう警鐘が、頭の中で何度も鳴り響く。逃げよう、本能でそう思った。悪いけど、と切り出そうと思い、口を開く。しかし彼の瞳がまるで逃げることは許さないとでも言うように、わたしを捕らえたまま離さないのだ。言い掛けたことばを口腔で反芻した。逃げろと叫ぶ本能に抗うように、わたしはどうしたんだと震える声で聞き返す。すると目の前の少年は、まるで花でも咲かせたように綺麗にわらった。ああ、言わないで、言わないで。聞きたくない。認めたくないやめてやめてよやめてちょうだい。わらったりしないで


「俺、好きなひとが出来たんです」


突然、鈍器で殴られたような衝撃を感じた。情けないことに膝ががくがく震えてしまい、立っているのがやっとだ。乾いて舌が張り付いた喉で漸く絞り出した台詞は肯定と祝詞だった。感情の籠もらない声で、応援するなんて精一杯に言ってみる。なんて矛盾しているのだろう。レギュラスは頬を微かに染めてありがとうございますとまたわらった。ちくりと胸が痛む。ついでとばかりに肺に何か重たいものが滑り込んできた。吐き出そうにも力を抜いた途端涙が溢れそうな気がして。わたしはただ下手くそにわらった。おめでとう と


「告白は、もうしたの」

「いえ、まだです」

「そう…」


なんて脆弱な質問なんだろう。己の首を己で絞めようとしてしまった。幸いにも、まだ彼の思い人と彼は結ばれていないらしい。よかった、なんて安堵してはいけないのに吐息をついた。先程までどの口が祝いのことばを並べ立てていたんだか。もう彼は取り返しのつかない所にいるというのに、わたしはまだ大丈夫だなんて自分を励まして、そして彼を心の底から祝おうなんて思っていない。浅はかな自分に嘲笑した。願うことなら振られてわたしの元にもう一度帰ってくればいい。そして、わたしを好きにはなってくれないだろうか。どうして、わたしではない違う女の元に行こうとしているの。わたしには君が必要で、君にもわたしが必要で─‥。そう思って、考えを巡らせるのをやめた。なんて嫌なやつなんだろう、最低最悪だわたし。唇をぎゅっと噛み締めるわたしに向かって、レギュラスは微笑む。だから先輩、お願いがあるんです 仄かに紅い唇が弧を描く


「彼女に言おうと思っている」「俺の気持ちを聞いて」「くれませんか」

「…え」


死刑宣告だった。あろうことかこの少年はまだわたしを地獄へ突き落とし足りないようだ。キャパシティオーバーもいいところだ。膝がまた小刻みに揺れた。いやだ、ききたくない。それをきけばわたしは必ず君を諦めなければいけなくなる。それだけは、いやだ、思い知らされたくない


「い、いや」

「すきです」

「…っ」

「あいしています」

「…あ…」

「あなたのすべてを」

「!…」

「そうやって俺のことしか頭にないところも」

「…」

「絶望に打ち拉がれた表情も」

「…え」

「ぜんぶぜんぶ、俺のものなんだと思うと、気が狂いそうです」


気付いたときには、わたしの身体は少年の腕の中に納まっていた。視界に映るのは彼の肩と柔らかい黒髪のみである。驚愕に固まるわたしを見て、レギュラスは可笑しそうに笑った。そして目尻に溜まっていたわたしの涙を器用に舐め上げる。ぞくぞくした


「だま、してたの」

「好きなひとが出来たとしか言ってませんよ」

「…っばか!」

「そういうところも可愛いですね」


たいした後輩だ。わたしの一喜一憂する顔を見てほくそ笑んでいたんだから。もう二度とこんな思いはしたくない。ぎゅっと目を閉じると目蓋に接吻を落とされた。くすぐったい、でもいやではない。レギュラスはにやりとわらって、そしてわたしの唇に同じものを押し付けた

もうこんなわたしを試すようなことはやめてほしいよ


110818 title 透徹
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