左手に輝くシルバー 「あの、引っ越したので……、身上異動届、お願い、します……!」 総務課の、影でお局様と呼ばれている年配の女性社員のデスクの脇に立ち、若干緊張しながらそう伝えれば、お局様はちらりと俺を一瞥してから袖机の引き出しを開け、取り出したファイルから数枚の書類を抜いて机の上に広げた。 シャーペンで小さく丸印を付けながらの、説明。 「まず、新しい住所をここに。あと、通勤手段や距離が変わるようならここも。手当てが変わるからね。それから、家族異動届は必要かしら?」 「家族……?」 「転居の理由は、ご結婚? あなたのそれ、初めて見たわ」 「!」 お局様の遠慮のない視線が、書類を受け取った俺の左手に注がれている。薬指に収まっている、先日まではなかったシルバーリングに。 どんなにお互いがなくてはならない存在なのかを必死に訴えそれぞれの両親を説得し続け、しぶしぶ、といった感じではあったけれども、単なる同居ではなく「夫婦」として一緒に暮らすことを、先日ようやく認めてもらった。 連休を利用し引っ越しを済ませ、式は挙げられないけれども二人だけで誓いの言葉を交わし、愛の証を互いの指にはめ、覚悟を決めたつもりだった。 だけど、本人たちがどんなにその気でも、法的に俺たちは「夫婦」じゃない。だからといって、その場しのぎの嘘はつきたくない。 言いよどむ俺にお局様は「まあいいわ」と小さく呟きファイルを閉じた。 「後日でいいから、住民票もお願いね。もし戸籍上単身の世帯なら、あなたの分だけで構わないから」 「……いいんですか?」 もっと厳しく追及されるのかと思ったから、拍子抜けして思わず漏らしてしまった呟きに、お局様が苦笑を返す。 「引っ越しの理由まで書く欄もないし、なにか事情があるのなら、無理に話す必要なんてないわ」 あっさりした物言いは、不思議なもので逆に本当のことを正直に話す気持ちにさせてくれる。 家族や親しい友人以外で、初めて真実を伝える「他人」。 「……結婚、したんです」 「あら、やっぱり?」 「相手、……男、なんです」 「そう」 「………え?」 それだけ? 「なに?」 「いえ、……あの、もっと驚くかと……」 俺の言葉に、お局様は、今度は声を上げて笑った。 「私が何年ここに座っていると思ってるの? 書類を通して、たくさんの人のさまざまな人生を見てきたわ。いい加減、ちょっとやそっとのことじゃ驚かないわよ」 いたずらっぽいお局様の笑みに、自然と俺も微笑みを返す。 と、そこで、お局様の左手にはリングがないことに気づいた。 思えば、この部署の女性は皆既婚者のはずなのに、誰一人指輪をしていない。 「あのー……、高橋さん、結婚してらっしゃいますよね?」 不思議に思って尋ねると、返ってきたのは思いもかけない言葉だった。 「……邪魔なのよね」 「は?」 「事務仕事にしても、家事仕事にしても、とにかく手を使うでしょ」 「ええ」 「指輪があるとね、邪魔なの。特にお茶碗洗うとき。カチャカチャぶつかるのが嫌でそのたび外してたら、そうねぇ……いつの間にか、しなくなってたわ」 明るく笑いながらそう答えるお局様。夫婦である二人を繋ぐはずの指輪を「邪魔」の一言で片付けられる、その裏には、夫との間に揺るぎない信頼関係があるのだろう。 「そうですか」 少しうらやましさを感じながら、書類を持ち直す。 「住民票、忘れないでね」 念押ししたお局様の声はもう、普段どおりの落ち着いたトーンに戻っていた。 物心ついた頃にはもう、隣にいた。 その時から、今日までずっと一緒に過ごしてきた。 毎日のように会って、いろんなこと話して、電話だって、メールだって、たくさん交わした。 幼なじみから始まった関係は名前を変え、最終的に「夫婦」という形に落ち着いた。この先の、あいつと一緒にいられる年月を思うと、照れくさいような、くすぐったいような。何ともいえないあったかい感覚で心が満たされる。 いつも以上に気合を入れて仕事をこなし、気持ち早足で家路を急ぐ。 新居のドアの前に立ち、インターホンを押す。すぐに正宏がドアを開けて出迎えてくれた。 「おかえり、サキちゃん」 その左手に輝く、シルバーリング。二人を繋ぐもの。 「ただいま」 応えながら家の中へと足を踏み入れる。 雅樹と正宏で、名前の頭二文字が同じだったため、気づいたときには周りの大人たちが俺たちのことを「サキちゃん」「ヒロちゃん」と呼ぶようになっていた。幼い頃はその流れでお互いをそう呼び合っていたけれども、さすがに俺は、この年になってまで正宏のことを「ヒロちゃん」とは呼ばなくなった。なのに正宏は昔の癖が抜けないのか、未だに俺を「サキちゃん」と呼び続ける。 子供っぽい呼び名を咎めたこともあったけど、今は、正宏だけが口にするその呼び名が、特別で、愛しい。 「お、今日はカレー?」 家中に漂うカレーのいい匂い。ネクタイを緩めながらそう尋ねれば、キッチンへ向かった正宏が、食器棚からカレー用の深皿を取り出しながら返事を寄越した。 「うん。サキちゃん、好きだよね」 「おー」 スーツの上着を脱いでネクタイを外し、とりあえず、鞄と一緒にリビングのソファーの上に置き、手を洗うべく洗面所へ向かう。 戻ってきたら、食卓にはすでに食事の用意が整っていた。 そのまま座ろうと椅子を引くと、正宏に窘められる。 「サキちゃん、着替えてきなよ」 「いーってこのままで。腹減ってるし」 「ついたら、落ちないよ」 「愛しの奥さんが作ったカレーを一秒でも早く食べたいっていうこの男心、わかんないかな?」 「愛する旦那様にはいつもきれいなワイシャツを着せてあげたいっていう男心は?」 「………着替えてきます」 一枚上手な正宏の言葉に負け寝室へと向かい、上下とも部屋着に着替える。 ダイニングに戻ると、正宏は食事に手を付けないまま待っていてくれた。 改めて椅子に座り、スプーンを手に取る。 「いただきます」 「どうぞ、召し上がれ」 そう応えてから正宏もスプーンを手にし、カレーを口に運ぶ。 こういう些細なことも。 何気ない会話の数々も。 毎日向かい合って食事を摂れることも。 すべてが嬉しくて、楽しくて、言葉を当てはめるのなら「幸せ」しかないんだと思う。 ひとり胸の内でそんなことを考えていたらなんだか照れくさくなって、俺はごまかすように話題を探した。 「カ、カレーって、一晩寝かせると、また美味いんだよな」 「そうだね。それもあってカレーにしたんだ」 「ん?」 「明日の朝も食べられるかな、って。明日、寝坊してもいいように」 「んん?」 それって……? 「それって、今夜のお誘いだと思ってもいいの?」 問いかけながら、胸がドキドキと高鳴る。正宏が向かい側で妖艶に微笑んだ。 「サキちゃんが、そう思いたいんなら」 ちゅっ、ちゅ、と触れるだけのキスを繰り返して、正宏の体をシーツの上へ押し倒す。 首筋に唇を寄せれば、正宏の口から熱い息が漏れた。 「ン……、サキちゃ……」 俺と違って色白で、なめらかな肌へと手を這わす。胸の突起を口に含み、一方では腰骨や腿の付け根を撫でていると、正宏が俺の頭を掻き抱いた。 「サキちゃん、焦らさないで……」 「ハハ、ごめん」 少しずつ硬度を持ち始めているものを握りこんで、先端に唇を寄せる。挨拶代わりにちゅっと音を立ててキスしてから外形をなぞるように舌を使えば、それは途端にむくむくと体積を増してきた。 「……どこまでOK?」 「サキちゃんが、明日寝坊しない程度まで」 少し考え、俺は常備してあるローションを手に取った。 手のひらに出して少し温め、正宏の窄まりに塗りつける。 ローションのぬめりを帯びた指先で、まずは円を描くように襞を撫で、それから頃合を見計らって指先を埋め込んだ。 「んっ……!」 正宏の眉間に僅かに皺が寄る。 いつも、この瞬間だけはつらそうだ。 少しでも気が紛れるようにと、舌と舌とを絡ませる濃厚な口づけを施しながら、奥まで指を埋め込み、慎重に中を広げる。 「……痛い?」 問いかければ、正宏はふるふると首を横に振った。 ぐるりとかき回すようにしながら指を出し入れし、ある程度広がったところで指を追加。三本目を入れてしばらく経った頃、正宏が俺の手首を掴んだ。 「サキちゃん、もういいよ。……入れて」 直接的な誘い文句に、思わずごくりと喉がなる。 要望に応えるべく自分のを握りこんで、いざ、と構えたら、そこでなぜかストップがかかった。 「あ、でもその前に」 「な、なに?」 「俺も、してあげる」 言葉と同時に俺のが暖かい口腔内へと迎え入れられる。丹念にしゃぶられ、鈴口に舌を差し込まれ、滲み出た体液を吸われ、ものの数分で、俺のは恥ずかしいほどに張りつめていった。 「正宏」 「うん」 今度こそ、と、先端を宛がい、ゆっくりと正宏の中へ俺のを沈める。全部を埋め込んだところで、正宏が強請るように腰を押し付けてきた。 一度口づけてから、緩く抜き差しを始める。片足を掴んで担ぎ上げ、奥へ奥へと腰を進める。 結合部が立てるいやらしい水音と、艶っぽい正宏の喘ぎが寝室を満たしていた。 「んっ……、んっ……」 腰を使いながら、鎖骨や胸元に唇を落とす。胸の突起をぺろりと舐め上げれば、正宏が俺を呼んだ。 「サキちゃ……、俺……、もう……」 言いながら、正宏の手が下肢へと伸びる。それを押し留めて、代わりに握りこむ。 そのまま絶頂へと導くように扱いてやれば、正宏が限界を訴えた。 「あ……、あ……、サキちゃ……、も、イっちゃ……」 「うん、俺も」 無意識なのか。差し伸べられた正宏の左手。指と指とを絡めるようにしてその手を握る。 触れる指輪の感触に、しみじみ思う。 結婚、したんだなぁ……。 「正宏……、愛してる……」 自然と口をついて出た言葉に、正宏は同じ言葉を添えて微笑み返してくれた。 END [戻る] |