夜も更けきった頃、ひとりの部屋を抜け出して一度だけ訪れたことのあるバーに飛び込んだ。どう見たってワケアリな女を年老いたマスターは優しく受け入れてくれた。

どこか神秘的にも思える美しい黄緑のカクテルに口を付けながら、数時間前に見た光景を思い出す。HL版メシュランで一つ星を獲った新進気鋭のイタリアンでグラス片手にうっとりと見つめ合う一組の男女。きっと彼らを見た誰もがお似合いねと囁いたことだろう。

黒い髪を耳から顎下まで前下りに切り揃え真っ赤なルージュを引いた如何にもわがままで気の強そうな猫目の女と、そんな女の言うことを困ったなあなんて言いながらなんでも聞いてくれそうな柔らかいまなじりを持つ癖の強いブルネットの男。ちなみに男の左の頬には大きな傷があり、首筋に走る真っ赤なタトゥーと相まって危うい魅力を醸し出している。

実際私がただの観衆なら、『映画に出てきそうな二人ね』なんて呑気に言っていただろう。けれど残念ながら私はキャストの1人、もちろん演じるのは二人の愛を深めるための当て馬役。なけなしのプライドがなければその場で座り込んで泣き叫んだっておかしくなかった。だって本来彼の向かいにいるのは私だったから。

急な仕事でデートが立ち消えになるのは日常茶飯事だった。取引先の接待と称して彼が他の女と私とは決してしないような甘ったるいやりとりを公然としているのを見たのも、一度や二度じゃない。それでも今回みたいにドタキャンの挙げ句、行くはずだった店に他の女を連れこんでるのを見たのは初めてだった。いや、多分、今までにだって何度もやってたのだと思う。だって彼は毎回こうなる度に、私に彼の家で待つよう言うのだ。今夜は特別外は危険だからとか、好きな人が家で待ってると思うと頑張れるからとか、おかえりって出迎えてほしいだとか、もっともらしい聞き触りのいい言葉で。

彼が裏で何をやってるのか気付きもしないで、従順に言いつけを守る姿はさぞかし滑稽だったろう。まるで道化師じゃないと笑いながらグラスを傾ければ、ライムの甘酸っぱさが喉を焼いた。

「いらっしゃいませ」

どうやら新しい客が入ってきたみたいだ。一人静かに飲んでいたい気分なのだからどうか構ってくれるなよと俯き加減にグラスで遊んでいると、やたら耳につく靴音が近付いてきた。

「こんばんはお嬢さん、もしよろしければ隣に座っても?」
「悪いけれど恋人を待ってるの。そこに座るのはよして頂戴」
「へえ、こんな時間にうら若い女性を1人で待たせるなんて……一体どんな男なんだい」
「……優しくって誠実で、仕事を理由に約束を平気で破ったりせず、私だけを愛してくれる人よ」
「まるで聖人君子だ」
「普通のことよ」
「そうかな」

冬でもないのに寒々しい息を吐きながら「ニコラシカ」と言った彼は、きっちり一人分の隙間を開けて隣に座る。ふと耳に流れ込んだ私を見てlook at meの歌声に、なんていう曲だったかしらと頭をひねり、記憶の海に潜ろうとしたけれど、綺麗な長い指がレモンの帽子をつまみ上げたのに気をとられ結局わからずじまいだった。

「……帰るわ」

彼に続いてほんのひと口分残っていたギムレットを呷り床に足を下ろす。細いルイヒールがぐらつかないようにゆっくりと立ち上がろうとすれば、すかさず伸びてきた手が私の小指を絡め取り引き止めた。

「まだ恋人は来ていないけど?」
「……貴方には関係のない話だわ」
「もう一杯だけ付き合ってくれ」

ほんの少し力を込めれば容易に振りほどけるのにそれをしようと思わなかったのは、私を見つめる眼差しがいつになく真剣だったからかもしれない。根負けした私が再び腰を下ろすのを見届けて、彼はようやく強張っていた口元を緩めた。

「僕はモヒート、彼女にはヴァイオレットフィズを」
「ちょっと」
「いいだろ、ご馳走するよ」

そこにはすぐには帰さないという意思が如実に表れていて、さっき無理矢理にでも振りほどけばよかったと後悔してももう遅い。流れるような手付きで組み立てられたカクテルはあっという間に目の前に運ばれ、隣から傾けられたトールグラスが有無を言わさず私のゴブレットにキスをした。

「ごめん」
「……それは何に対して?」
「君を傷つけたこと」
「やったことに対してじゃないのね」
「それについては悪いとは思ってるさ。でもそうせざるを得ないシチュエーションだったからそうしたんだ。それについて謝るのは違うと思ってる」
「言い訳もしてくれないの」

グラスに口を付けて、嫌な人、という言葉を飲み込んだ。甘ったるいニオイが鼻について仕方ない。

「嫌いになったかい?僕のこと」
「……わからないわ」

私の言葉にシャリシャリと氷を踊らせて彼は「それだけわかれば十分さ」と笑う。妙に嬉しそうな声色が癇に触って「どうしてそんなに嬉しそうなの」と吐き捨てれば彼は更に笑みを深め「これを言うと絶対に君は怒るだろうけど」と前置きを入れた。

「君が僕のことで怒ったり悲しんだりしているのを見ると、すごく嬉しくなるんだ」
「……人間性を疑うわ」
「よく言われる」

悪びれもせず平然と言い放たれたその言葉に唖然としていれば彼は再び「嫌いになったかい?」と私に問いかけた。嫌い。大嫌い。そう言ってグラスの中身をぶちまければそれで終わる話。なのに私の喉はヒューヒューと空気を通すばかりで一向に震えてはくれない。あまりの情けなさにぼやけはじめた視界の端で、彼がゆっくりと足を組み替えるのが見えた。

「泣いてもいいよ、慰めるから」

頭が真っ白になるというのはこういうことか。店内に響いた乾いた音で我に返ると、目の前の彼の頬がうっすらと赤く染まっていた。

このシリアスなシーンにはあまりに不釣り合いな微笑みにも似た笑みを浮かべる彼は、宙ぶらりんになった私の手を掬い上げじんじんと痛む掌にキスをする。指の隙間から私を捉えて離さない赤錆色の目が愉快そうにすっと細められた。

「君は少し物分りがよすぎる。僕がどれだけ君をぞんざいに扱ってもいつだって平気そうな顔をして、それが気にいらなかった」
「怒らせるためにやったの」
「まさか。今日のことも、これまでのことも、仕事のために致し方なくやっていることさ。本当だよ。けど君がそうやって平気なふりをする度、少し寂しかった。実は僕のことなんてこれっぽっちも好きじゃなかったのかなって」

そう言った彼の瞳には言葉通りの寂しさが滲んでいて、初めて見る表情に心がさざめき立つ。どうして、今まで寂しいなんて、ただの一度だって言ったことなかったじゃない。なんで今そんなことを言うの。なんで。

「でもそんなわけなかったね。今やっとわかったよ。怒るのも悲しむのも、僕のことを本当に好きでなければ出来ない事だ」

そうだろう?と言いながらごく自然に距離を詰めたスティーブンは捕らえたままの私の手に自分の指を絡め、ぐっと引き寄せた。息が触れ合うような近さに思わず顔を反らすけれど、もう一方の手でやんわりと引き戻され、仕方なく彼の口元に視線をやる。結んで開いて、また結んで。躊躇いがちな仕草が演技なのかどうか私にはわからない。

「僕は……優しくもなければ誠実でもないし、仕事と恋人なら絶対に仕事を取るような人間だ」
「自分で言うのね」
「けれど、君のことだけを愛してる。この気持ちは君の『恋人』にも負けない自信があるよ」
「…………信じられないわ」
「だろうね」

あっけらかんと言い放つその清々しさに思いつめていた自分が馬鹿らしくなって、掴まれていた手を振りほどいてグラスを傾ける。その様子を可笑しそうに見ながら追いかけるように中身を飲み干した彼は酒のコマーシャルと見間違うかのような洗練された仕草で肘に顎を乗せ、「でも、君は知らないだろうけど、僕が家に招き入れるのも、こうして真夜中に街中探して回るのも、君ひとりだけなんだぜ」と囁いた。ああもうお手上げだ。

「ところで恋人はまだ来ないの?」
「……もうとっくに来てたみたい」
「へえ、そう。気付かなかったなあ。一体どんなやつ?」
「……意地悪で不誠実で、仕事のためって言って平気で約束をすっぽかす最低な恋人よ……けど」
「けど?」
「焦ってシャツのボタンを掛け違えたまま出てくるくらいには私のこと好きみたいだから、私だけ愛してるって言葉、信じてみようと思うわ」

自分の胸元を見てすぐさま天を仰いだスティーブンが、深い溜め息と共に絞り出すような声で「うん……それがいいと僕も思うよ」と吐き出した。

とことんらしくない今夜の彼は気を取り直したように「よし」と呟き、素早く数枚の札を机に置く。

「……それじゃあ、帰ってボタンを掛け直そうか。まだ夜明けまで時間はある」
「今日も仕事でしょう?」
「そんなもの何とでもなるさ。いや、してやる」

そう宣言するなり彼は私の鞄を人質にとり、風のような早さで出口へと向かう。私はほんの少し残るグラスの中身に後ろ髪引かれつつ、そっと立ち上がった。

「またのお越しをお待ちしております」

一層穏やかな笑みを以て見送られ扉を開けば生ぬるい空気が頬を撫ぜる。数メートル先を見れば早速キャブを捕まえた彼がまだかと言わんばかりにこちらを振り返った。

彼の家に辿り着いたなら真っ先に聞いてみよう、あのすみれ色の意味を。そんな決意を胸に秘め、私は軽やかな足取りで夜を駆けた。
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