麗らかな昼下がり。いつものように公園で小銭稼ぎをしたあと客のひとりに教えてもらった最近出来たばかりというカップケーキの専門店に足を運び、ツェッドは家路についた。

執務室には立ち寄らず、自分の部屋にそのまま向かう。荷物はトランクと小さな紙袋ひとつだけだったが、両方を片手で持つにはこの手は不向きだったので、一旦トランクを床に置きゆっくりと扉を開けた。

「おかえり、遅かったね」

そうしてもう一度トランクを持ち上げ足を踏み入れようとした瞬間聞こえてきた声に盛大な溜め息を漏らす。顔を上げればそこには、勝手知ったるなんとやらとばかりに水槽の縁に腰掛けこちらを見下ろすカナエの姿があった。

「貴方はまた勝手に部屋に入って……」
「待ってたの……ツェッドのこと」
「用があるならまずはアポイントメントを取るのがマナーでしょう」
「それじゃあ意味ないの」
「全く……で、一体何の用で」

溜め息混じりの言葉を遮ったのはドボンとはじける水の音。見事なバックスクロールエントリーでプールに落ちていく恋人の姿をただ呆然と見守っていたツェッドは、水底まで沈んだ彼女があぶくを吐き出すばかりで一向に浮上してこないことに気付くやいなや手にした荷物を全て放り投げ何もかも吹き飛ばす勢いで水槽へと走った。

脇の下に腕を差し込みとにかく1秒でも早くと水面を目指す。またたく間に引き上げられたカナエはさして呼吸を乱すこともなく大人しくツェッドの腕に抱かれていた。

「貴方は一体何を考えてるんですか!!」

明らかな故意に心配よりも腹立たしさが勝り勢いでそう叫んではみたものの、ぼんやりと宙を見るカナエには何一つ響いていそうにない。再び大きな溜め息を吐いて、兎にも角にもまずは彼女をこの冷たい水の中から出すことが先決だと手摺に手を伸ばせば、それを拒むかのように彼女の腕が首に巻き付いた。

「カナエ?」

試しにもう一度手摺を引っ張れば、今度は膝のあたりに細い足が絡みつく。そういえばちょうど数日前、スーパーでこんな風に泣きわめく子どもを見たのを思い出しながら、ツェッドは天井を仰ぎ見た。

「……カナエ、言いたいことはきちんと言葉にしないとわかりませんよ」

抱きつかれていた母親が困り顔で言っていた言葉をそのまま拝借すれば、カナエの肩が小さく揺れる。ほら、と促すように背中を擦るのはいつものことだった。

「笑わない?」
「さあ、それは約束できませんね」
「じゃあ言わない……」
「冗談ですよ。笑いませんから」

このやりとりも最早何度繰り返したかわからない。そもそもツェッドは覚えている限りただの一度だってカナエの言うことを一笑に付したことはない。

「こうしてほしかったの」

答え合わせにしては些か抽象的過ぎる台詞にすかさず「こうとは?」と補足を求めた。しかしカナエはそれ以上はうんともすんとも言わず、故にツェッドは自らの乏しい想像力を以てその真意を推測するしかなかった。

このシチュエーションで導き出される答えはツェッドの中では一つだけだが、正直自信はない。彼女の生きる世界は自身のそれとは余りにかけ離れているのだ。それでもこの状況から脱するために口にせざるを得なかった。

「……もしかして、抱きしめて欲しかったんですか?」

時計の秒針が数回音を響かせた後、濡れ鼠のようになった頭が縦に動き、ツェッドは脱力した。それこそ彼女の鼻先が再び水に浸かりそうになるほど盛大に。

何だそんなことかとは口が裂けても言わない。何がそうさせるのかは知らないが何かにつけて自らの愛情を試してくるカナエへの、それが精一杯の仕返しだった。

「カナエ、そういう時は素直に抱きしめてって言えば僕の寿命は縮まずに済むし貴方もずぶ濡れにならずに済むんです」
「うん」
「ほら、わかったら上がりますよ。貴方のためにカップケーキを買ってきたんです。ちょっと見た目はアレなことになってるでしょうけど……胃に収まれば同じです」
「うん……ツェッド」
「何ですか」
「キスして?」

生きている年数だけで言えば彼女は遥かに歳上である。にも関わらず、どっちが子どもかわからない振る舞いをするカナエを持て余していないといえば嘘になる。『よくそんな面倒くさい女と付き合ってられるな』とはこういったやり取りを目撃する度兄弟子から投げられる言葉で、『カナエさんに付き合えるのはツェッドさんくらいですね』というレオ君の言葉が褒め言葉でもなんでもないのはわかっていた。

「好きですよ、カナエ」
「ありがとうツェッド」

未だかつてツェッドは彼女の口から好きという一言を聞いたことがない。かといって別段聞きたいとも思わない。彼女が自らを求めているという事実のみが彼にとっての全てなのだ。結局のところギブアンドテイク。それをわかっているスティーブンだけが口にする『お似合いだよ』の言葉を思い出しながら、自らにはない柔らかな口唇にそっと口付けた。


お題:サンタナインの街角で さま
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