「くしゅんっ」

妙に静かな部屋に控えめなくしゃみの音が響き渡った。

「……窓閉めるか?」
「いえ……そこまでじゃあ……」
「じゃあ、ほれ」
「ありがとうございます」

くたびれた自分のカーディガンを手渡せば、かなえはずびっと鼻を鳴らしながら袖を通す。俺が着ればジジ臭いそれも、かなえが着ると途端に華やいで見える気がするのは気のせいじゃないと思う。例えばそう、似たような色でも小豆色と呼ぶかボルドーと呼ぶかで全然違う、みたいな。

「カフェオレ淹れてきます。島田さんも飲みますか?」
「ん、頼む」

あいたたた、と痺れた足をぎこちなく動かしながら出ていくかなえの姿を見送って、背伸びする。4月も後半に差し掛かり外は初夏の陽気だが、吹き込む風はまだまだ冷たい。

「ん?4月後半?」

自分で言ったことに引っかかって、カレンダーを見て首を傾げた。そう、もうじき5月だ。

「ただいま。ん?どうかしたんですか?」
「なあ……大学の春休みって、いつまでなんだ?」

薄く湯気を立てたマグカップを受け取りながら不意に湧き出た疑問を言葉にすると、かなえは俺と同じように首を傾けしばし思案した後、「もうとっくに終わってますけど?」と腰を下ろした。その目が「なぜ?」と語っている。

「いや、ここんとこ毎日家にいるなあと思って」
「もう授業は行かなくていいんですよ。必要な単位は全部取り終えてるので。あとは卒論さえちゃんと書ければ卒業できます!」
「へえー……俺は、大学についてはイマイチよくわかっていないんだが、毎日授業に行かなくてもいいもんなんだな」
「まあ……そうですね。大抵の人は4年生になったらこんな感じだと思いますよ。一部の人は留年がかかってるので必死の形相で授業に出てますけどね」
「……ハハハ、なるほどな。まあなんにせよ、大丈夫そうで安心した」

元からさして心配していたわけではないけれど、とひとりごちて、薄く膜の張ったミルクコーヒーを口に含んだ。

「あとは……」
「ん、」
「就活ですかね、やることと言えば」

なんの気負いもなく呟かれた言葉に一瞬息が詰まる。シュウカツ、しゅうかつ……咀嚼するように口に含んでごくんと飲み込めば、こってりとした甘みが広がってむせそうだ。

「就職活動、か。そうだよな……」

そう、ごく当たり前の自然な流れだ。大学を卒業して会社に就職するというのは。恐らく大半の学生が辿る道だ。そうでなくては親のスネかじりなんてイヤミを言われてしまうし、労働人口の減少ってタイトルのニュースが増えてしまう。

そんななんの突飛さもない普通の話なのにひどく動揺してしまったのは、多分自分自身がそのごく普通の流れとは少しばかり違う道を歩んできたせいだろう。

「島田さんは、棋士じゃなかったらなんになってましたか?」
「……進路迷ってるのか?」
「なんかいまいち、やりたいことがなくって……」
「そうだなぁ」

棋士じゃなかった自分なんて今更想像もつかないことだけれど、けれどほんの少しでも油断してしまえばあっという間に棋士以外の何かにならざるを得なくなる己の宿命についてはよくわかっている。

「まあ多分……そのまんま山形で農業やってたんじゃないかな。もしくは東京の大学出て普通にサラリーマンコース。か、地元に戻って公務員」
「ど定番って感じですね」

そういって机に肘をついて唸りだしたかなえは、しばらくして諦めたように畳に体を投げ出し大きなため息をついた。何にだってなれるというのは、それはそれで大変なのだろう。

「とりあえず、やりたいことがないにしても、ある程度潰しのきく仕事にしといたほうがいいと思うぞ」
「島田さんが言うと重みが違いますね……」

なにがどうとは流石に言わないでおいたのに、若干可哀想なものを見るような目で見られたことには気づかないふりをしておく。

「なんかこう、夢とか、ないんか?やりたいこととか」
「うーん……ないわけじゃあ、ないんですけど……」
「けど?」

濁されると余計気になるのが人の性というもので、顔を覗き込むように見下ろせば、かなえはまたひとしきり唸った後「内緒です!」と背を向けた。

「……ま、ゆっくり悩めばいいさ。時間はまだあるんだろ?」
「まあ……」
「力になれることがあれば、言えよ」

色んなところのツテとか、ないわけじゃないし……と言おうとして口をつぐむ。おもむろに振り返り、俺を見上げるその顔があまりに綺麗で、そのまんま何も言えなくなってしまった。

「今の言葉、忘れませんからね」

その台詞とともに浮かべられたいたずらっぽい笑顔が眩しい。

ほんの一瞬でもドキッとさせられたのが悔しくて、紛らすために軽い力でデコピンしたらかなえは「ぎゃっ」と叫んで再び畳に沈んだ。
×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -