新聞社主催のオープン戦の本戦出場を決め、会館からの帰路。持ち時間の短い対局は夕前にあっさり終わったが、そこからどっぷりと感想戦にもつれ込み、気付けば20時をとうに過ぎていた。時計を見た対戦相手が顔を青くして「……今日クリスマスだから早く帰ってこいって言われてたんだ!」と駆け足で出ていったところでようやく、今日がクリスマスだということに気付いた。いや、思い出した。

そうして電車を降りれば確かに、すれ違う人はどこか浮足立っているように見える。プレゼントを抱え足早に去っていくサラリーマン、手を繋いで笑い合う男女、ここぞとばかりに客寄せをする店員、どれも普段には見られない光景であり、自分には無縁のものだった。

対局後で腹は減っているが、スーパーで惣菜を買う気にはなれない。かと言ってこの分では馴染みの店も満員だろうか。

考えを巡らせながらゆっくり歩いていると、ざわめきの中から小さく自分を呼ぶ声が聞こえた。

どこから、と視線を動かせば、こちらに向かって手を振る人の姿が見えた。クリスマスらしく赤と白の帽子にワンピースを着た彼女は井原という名の、よく行くケーキ屋の店員だった。

「こんばんは。お仕事帰りですか?」
「ああ。」
「お疲れ様です。」

お世辞にも暖かそうとは言い難い格好で店の前に立つ彼女は、寒さを感じさせない笑顔でそう言った。彼女はいつもそうだ。口下手で愛想笑いすらろくにできず、周囲に威圧感しか与えない俺のような人間にも、怯えず気さくに話しかけてくれる。

俺は何と返そうか迷った挙句、机の上にひとつだけ置かれたケーキを見て「売れ行きは良さそうだな」といかにも無難な台詞を選んだ。

「はい。おかげさまで!隈倉さん、もしよかったらこれ、最後の一つなんです。半額にしますからいかがですか?」

6号(6〜8名樣用)と書かれたそのケーキは流石の自分にも大きすぎるように感じられた。今日明日かけて食べるにしても、冷蔵庫に入るかすら疑問だ。だがそう思いつつ、気付けば「なら、いただこうか」という言葉が出ていた。

俺はどうにも、彼女の「いかがですか」という言葉に弱い。食べたいケーキがあって店に行っても、彼女の口から違うものを勧められればそれを選んでしまう。それが何を意味するのか、わからないほど経験がないわけではない、が。

「ありがとうございます。」

わかったところでどうにもならないことなど世の中掃いて捨てるほどある。これが歳を取るということなのかはわからないが、今のしがらみを振りほどくことも、新たなしがらみを作ることも、年々出来なくなっている自分がいた。少なくとも今は、この笑顔を見られるだけで十分だと思える。

「ところで隈倉さんは、お子さん何人いらっしゃるんですか?」
「……子供?」
「いっつもたくさんケーキを買っていかれるから。いつか聞いてみたいと思ってたんです!」

彼女はそう言って何の悪意も感じられない目で俺を見上げた。思わず頭痛がしたのは寒さのせいだけではないだろう。

「……生憎、子供はいない。」
「えっそうなんですか!じゃあ奥様とお二人ですか?」

確かに若い頃からただの一度も年相応に見られた試しはないのでそういった誤解は慣れている。だが、何の面識もない相手ならばそれでもいいのかもしれないが、目の前にいる彼女に誤解されたままというのはやはり、良い気分はしない。とはいえなんと言えばいいのか。将棋に関しては頭が回る方だが、こういうことに関してはどうも得意ではなかった。

「あ、すいません人様のプライベートな話を根掘り葉掘り……失礼でしたよね。」
「いや、」
「隈倉さん、とてもかっこいいから、あんな素敵な人が旦那さんだったら羨ましいねって皆言ってて。」
「……君は、」

その皆に君は含まれているのかと聞きかけて途切れた言葉を、彼女は違う風に受け取ったらしい。いつにも増して彼女は饒舌に自身の身の上を語りだした。

「私は……今年こそは!って意気込んでたんですけど。結局何の収穫も無しでした。実は私も25なんですよ。だからこのひとつだけ残ったケーキを見るとなんだか居たたまれなくって……ほら、よく言うじゃないですか、女はクリスマスケーキと一緒で25過ぎたら売れ残りって。なんかこのケーキを見てるうちにだんだん悲しくなってきて、もし最後まで誰も買ってくれなかったら自分で買ってやけ食いしようかなと思ってたんです!だから隈倉さんが買ってくれてよかった。これ以上太らなくて済みました。」

そう言って彼女は、困ったような、呆れたような、そんな乾いた笑いをこぼしながら、「お待たせしてすいません。今日中にお召し上がりくださいね。」と袋に入れたケーキを俺に手渡した。俺は真っ白な細い指を見ながらしばらく思案する。

「君で売れ残りなら、俺は……何になるんだろうな。」
「え?」
「予想を裏切って悪いが俺も、妻も居なければ子供も居ない。侘しい独り身なものでね。」

半透明の袋がカサ、と乾いた音を立てる。彼女はこれでもかというくらい目を大きく見開いて、「ええーっ!」と叫んだ。通行人がこちらを見る。

「えっ、じゃあ、そのケーキはもしかして、おひとりで食べられるつもりなんですか?っていうか食べ切れるんですか?えっじゃあ、もしかして、いつものケーキも、おひとりで食べられてたんですか!?」
「ああ。流石にこのサイズは少し手強いなと思っていた。」
「あの、すいません私てっきり……まさかそんなこととは露知らず売りつけてしまって……あの、もしご迷惑なら……」

俺の顔とケーキを交互に見ながら慌てふためく彼女を見て、満たされていた心にほんの少しの欲が湧く。わずかでも可能性があるのなら、賭けてみたいと強く思った。

「だからもし君さえ良ければ……食べるのを手伝ってくれないか。」
「へ……」
「仕事は何時に終わる?」

俺の意図に気づいた彼女はみるみるうちに耳まで赤く染める。あ、とか、え、とか、声にならない声を上げながら、腕時計を見た彼女は消えかかりそうな声で「もう終わります……」と返事をした。
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