「請求書……?」

朝、ポストを開けると、見慣れた連盟の封筒が入っていた。しかしいつもと違うのは、その表書きに赤い字で『請求書在中』と書かれていることだ。一体何を請求されているのかと首を傾げながら中に戻り恐る恐る開封して、血の気が引いた。

書いてある内容を要約すれば、先日の名人戦で使った旅館の部屋の壁を故意に破損したのでその費用を払えということらしいが、一体何のことなのか。箱根から帰ってきて結構な日数が経つが、そんなことがあったとはただの一度も聞いたことがない。故意にということは、つまり彼がわざとやったということだ。部屋の中で椅子でも投げたのだろうか。いやそれならば椅子の費用も請求されるはず。ならば飲み物でもぶちまけたのか。謎は深まるばかりだ。

しかし仮に夫が宿泊先で迷惑をかけたのならばきちんと方々に頭を下げて回るのが筋というものだし、そこまでする必要がないにしてもこの請求額は彼の懐から出すには明らかに大きすぎる額なのだから、どちらにせよ私に何の報告もなしというのは見過ごせない。

とはいえ、彼には彼なりの言い分があるはず。なにせ四度目の挑戦だったのだ。それも今回は七局目までもつれこみ、本当に後もう少しで宗谷名人からその座を奪えるというところで、誰も予想しないあっけない幕切れを迎えてしまった。それに一番ショックを受けているのは紛れもない当人のはず。何もかも私に打ち明けるには、まだ日が浅すぎるのかもしれない。

「どうするべきか……」

隈倉健吾は礼儀のなっていない粗暴な人間だと世間様に思われるのは嫌だ。けれど彼の傷口に塩をすり込むような真似をするのはもっと嫌だ。妻として私はどう立ち回るべきなのか。つっかけのまま玄関で項垂れていると、当の本人が現れた。

「かなえ、何かあったのか。」

今まさにあなたのせいで悩んでいましたとも言えず、かといって今を逃せば後はないような気がして、思い切って家に上がり彼の目前に紙を掲げた。

「……ああ。」

ああということは、身に覚えがあるということ。一体何をやらかしたのと目で訴えれば、彼は紙を手に取り背を向けた。

「腹が減った。」

マイペースすぎる一言に思わずため息をつく。こうなったらこの人は、ご飯を食べるまでテコでも動かないのは経験済みだ。まあいい。腹が減ってはなんとやらというのはこちらも同じこと。

「……そうですね、まずはご飯にしましょう。」

作っておいた味噌汁をあたためて、塩鯖を焼く。香の物と、あまりもののおひたしも少し。炊飯器を開けると炊きたてのお米の香りが食欲をそそる。両手で持たなければ落としてしまいそうな男茶碗に山盛りご飯をよそって、自分の方はちょっと控えめにした。

「「いただきます。」」

いつ見ても豪快な食べっぷりに感動すら覚える。もともと朝ごはんは食べない人間だったけれど、彼と一緒になってから食べるのが苦ではなくなった。早起きも苦手だったけど、彼の朝ごはんを作るためなら不思議と起きられるのだ。

「で、一体何があったんですか。」
「……旅館の壁を蹴ったら壁が崩れた。」
「は?」
「宗谷に負けて、悔しさが抑えきれなかった。」
「……それで、蹴ったの?壁を?」
「ああ。」

普通、蹴ったくらいで壁は壊れない。あまりに彼が当たり前のように言うものだから、段々おかしくなってきて、ついに堪えきれず笑い出してしまった。そしたらどんどんおかしくなってきて、腹を抱えて泣きながら笑う私を、彼は気でも狂ったのかと言うような目で見た。

「そっか。」

本当は、悔しいからって物に当たるなと説教するべきなのかもしれない。けれど私は普段彼がどれだけ自分の感情をコントロールすることに長けているかを知っている。その彼が衝動的にそんなことをしてまうくらい、悔しかったのだ。それがわかるから、言うのをやめた。

感情を表に出さないということは棋士としては誇るべきことなのかもしれないが、彼の行き過ぎとも思えるまでのストイックさは時に恐ろしく映る。怒りも、悔しさも、悲しさも、全て閉じ込めているうちに、彼の心が壊れてしまうのではないかと、負けて帰ってくる度いつも不安で不安で仕方がなかった。だからこうして彼が、方法は褒められたものでないにせよ、感情を爆発させる術を持っていたことに少なからず安堵したのだ。

「お金は準備しておきますから。」
「ああ。」
「きちんと謝りに行きましょうね。私も一緒に謝りますから。」
「……」
「ね。」
「……ああ。」

正直なところ、いくら不屈の精神を持った彼でも、今回ばかりは立ち直れないくらい落ち込んで、あるいは荒れて帰ってくるのではないかと覚悟していた。けれど実際帰ってきた彼はいつもと変わらないどころか、妙に吹っ切れたような晴れやかな顔をしていて、肩透かしを食らった気分になったのを覚えてる。その顛末がこれとは流石に驚いたけれど。

「何がおかしい。」
「ううん。なんでもない。」

壊れたのが壁でよかったなんて、旅館の人には口が裂けても言えないなと思いながら、急須のお茶をそそいだ。
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