夢を、見ていた。とても懐かしい夢。私はセーラー服を着て、誰もいない教室でひとりペンを走らせていた。冬と春の境の生ぬるい風がレースのカーテンをおどらせる。いつの間にか、私の前には彼がいた。

宗谷くん、と私が声をかける。今よりいくらか幼く見えるその彼は、HBの鉛筆を一生懸命動かして、細い、薄い字でプリントの空欄を埋めていた。宗谷くん、と私がもう一度彼の名前を呼ぶ。彼はほんの少し、おかしそうに口角を上げて、委員長と私を呼んだ。

小学校の途中で転校してきた彼は、有機物の中に無機物がひとつ混じっているような異質さを感じさせる子だった。その異質さ故に、良くも悪くも周りを寄せ付けず、さりとてそれを意に介することもせず。黙々と将棋に打ち込むその姿は、まさしく孤高だった。

私は昔から、良く言えば責任感が強くて真面目で困っている人を放っておけない、悪く言えば口うるさくて堅物の、いわゆる絵に描いたような学級委員長タイプだった。それが高じてか仇になってかは判断に困るところだけれど、私は彼が転校してきたときからずっと彼の世話係だった。

最初は先生も軽い気持ちだったと思う。転校生の座席が学級委員長の隣なんてのは多分よくある話で、私も何の抵抗もなかった。けれどそれがしばらくして、事情が変わる。私以外に彼とコミュニケーションを取れる人間が全くいなかったのだ。先生も含め。

私から言わせてもらえれば、彼は確かにいつだってぼんやりしてるし、人の質問の意図を的確に把握する能力には欠けているし、かと思えば時々尋常じゃなく頑固になる時もあって、やりにくい相手であることは間違いないけれど、それでも根気強く付き合っていればそれなりに分かり合える相手だと思う。けれど周りには全くそのようには思えなかったらしい。「転校生をよろしくな」から「宗谷をよろしくな」に変わり、しまいには「お前以外宗谷を任せられるやつはおらん!」ときたものだ。その言葉の通り私は残りの期間ずっと彼と同じクラスになり、その何らかの力は中学に上がってからも働き続けた。

そして中学の途中で、彼は史上四人目の中学生プロ棋士になり、世間を大いに賑わせた。当然、彼を取り巻く環境は変わり、今まで一歩も二歩も離れたところにいたクラスメイトたちはこぞって彼の周りに集まるようになった。けれど彼自身は驚くほど変わらなかった。新聞に載り、テレビにも出ているのに、驕り高ぶることはなく、私はその時になってようやく彼の器の違いに気付いたのだった。

中学を卒業して、彼は将棋の道に専念することになった。私は女子高に進学し、ふたりの道は別れた。きっともうこの先、彼と人生が交わることはないんだろうという予感があった。彼は、私なんかには到底辿り着けない、いや、想像すら出来ない高みに上り詰めるだろう。その時彼が独りではないことだけを願っていた。

「かなえ、」

夢か現かわからなかった。目の前にいる彼はあの頃から全くと言っていいほど変わっていない。私は、いくつかのものを失って、それ以上にたくさんのものを得て、今ここにいる。最近になってとても心配性になってしまった彼の目が私を包み込んだ。

「ありがとう。お布団かけてくれたんだ。」
「しんどい?」
「ううん、ただ眠いだけ。」
「そう。じゃあもう少し、寝てたらいい。」

そう言って彼は静かに手を潜り込ませ、慈しむように私のお腹を擦った。大きく丸みを帯びたそこには、小さな命が宿っている。こんな日が来るなんて、露ほどにも思っていなかった。

「冬司くん、ありがとう。」

十六歳の誕生日、彼はなんの前触れもなく私の家にやってきて、そして私が久しぶりの再会を喜ぶより前に「結婚しよう」と口にした。彼は本当に、私の想像すら出来ないことをやってのける人だ。けれど私もまた、時に私自身の想像を超えることがある。この時私は、何一つ迷うことなく「はい」と応え、そうして彼が十八歳になり、私が高校を卒業したその日に、私たちは晴れて夫婦となった。

そんな相手と結婚したら、要らぬ苦労を背負うことになるとは、数え切れないくらいたくさんの人から言われた言葉だったし、実際そうだと思う。けれど私は今幸せで、結局それが全てなのだろう。

心地よい駒の音を聞きながら、私は再び夢の世界へと落ちていく。季節は再び、春を迎えようとしていた。
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