▼ コトハ、言ノ葉、雨ノ音
ザアザアと降り続ける雨の中、一人の男の声が響く。
「卿はもう、何者でも無い、何も無い」
「何もかも失った卿に私は興味を無くしてしまったよ」
「何者でもない、何も無い卿がこれからどうなろうと私の知るところではないな」
「まぁ、精々残りの余生を死んだように生きるがいい」
男は己の足元でうずくまり、虚ろな眼をして呻く男に向けて小さな笑みを向けると、顔を上げてこの場を取り囲む木々の一つに視線を移した。
「そこに隠れているのは“明智光秀だった”この男の忍びかな?‥‥‥卿の主はもう卿の知る男では無くなったよ。
さぁ、卿はこの後どうする?報酬の払えなくなった主を捨て置くか、はたまた忠誠を貫き主の仇をとるのか‥‥‥‥」
返事は無かった。
だが、男はそれで満足したように口角を上げると踵を返して元来た道を歩き始めた。
「私が飽きることが無いよう、卿らには期待しているよ」
やはり返事は無かった。
暫くすると男の姿は深い森の中にまるで溶けるように消えていった。
男の気配が完全に消えると、先程まで男が話し掛けていた木から音もなく一つの影が現れた。
それは倒れている男の元まで歩いて行くと、少し距離を置いて止まった。
男が起き上がったのだ。
起き上がった男はそのままフラフラと歩いていく。
影は静かに後ろに続く。
「あは、あははははははっ!!!
私は、私は‥‥‥!!」
カッと稲光が走った。
影は足を止めると男を見据える。
「私は、天海っ!!」
天へと向けて高らかと叫んだ男───天海の嗤いが辺りに響き渡った。
「主、さま‥‥‥」
影の言葉は嗤いと雨にかき消されてしまった。
届かない。
届けられない。
影の言葉は何時だって男に届かない。
×××
「────と周辺諸国の動向につく報告は以上となります」
「分かりました、御苦労様です」
「勿体無き御言葉‥‥‥」
是にて失礼致します、と一言残し忍びが席を立とうとしたその時、それは主である天海によって制せられた。
「あちらの件はどうなっていますか?」
「順調に集まっております」
「そうですか‥‥‥ふふふ、楽しみですねぇ、玖雨さん」
「‥‥‥是」
深く頭を垂れた“玖雨”と呼ばれた忍びに天海は愉しそうに笑うと行っていいですよ、と声をかけた。
対する玖雨は更に頭を下げてから数枚の羽根を残して姿を消した。
天海はその羽根をつまみ上げるとくるくると指で弄びながら目を細めた。
「信長公‥‥‥‥もう一度貴方と合間見えるのはあと僅か‥‥‥!!」
×××
その呟きを天井裏で聴いていた玖雨は眉間に皺を寄せた。
「‥‥‥‥」
天海───否、明智光秀に仕えていた忍び、それが玖雨であった。
本能寺の変にて彼の総てであった織田信長が死に、彼を探しさ迷う主を影から守り、天海となった今でも忠誠を持って付き従うただ1人の影。
かの第六天魔王織田信長を明智光秀が討ち取った時も傍に控え、何時も彼と共にあった彼女は心の臓を鷲掴みにされたような心苦しさを感じていた。
松永久秀に名を奪われたあの雨の日、玖雨は松永久秀を殺そうと思えば殺せた。が、彼女は出来なかった。
“もしかしたら、これがきっかけで主さまが魔王から解放されるかもしれない”
そう思った瞬間、身体が動かなくなってしまったのだ。
光秀が光秀になる以前、桃丸の頃より彼の父の命で彼に仕えてきた玖雨は魔王に魅せられ変わってしまった光秀を、魔王と出逢う前の彼に戻したかった。
そのためだけに動いてきた玖雨は光秀が魔王を討てば昔の主が戻ってきてくれると信じていたが、それは夢物語で終わってしまった。
死んだ魔王を求めるように、彼は壊れた。
駄目だったのか。
空虚に包まれた、そんな彼女の唯一の救いは天海が彼女の事を忘れていたことだった。
「おや、貴女は‥‥‥‥?」
「私は貴方様の影、玖雨に御座います」
「私の、影‥‥‥?‥‥‥そうですか‥‥‥では、玖雨さん。一つ訊ねたいことが」
「‥‥‥何なりと」
初めからやり直せばいい、そう希望が見えた彼女だったが、現実は更に追い討ちをかける。
「‥‥‥‥信長公を知りませんか?」
彼の中には未だ魔王が巣くっていた。
あぁ、何処まで魔王は私を苦しめるのか。
私がどれほど魔王が憎らしかったことか。どれほど殺したかったことか。
どれだけ影が主に尽くしても、焦がれても、彼の全ては魔王に捧げられる。
「‥‥‥魔王、信長は‥‥‥‥」
そこまでで玖雨は過去を頭の片隅に追いやった。ふるふると頭を振って、忘れろ、と己自信に言い含める。
嗚呼、雨が止まない。
何をしていてもザアザアと激しく彼女の中で雨は降り続ける。
あの日から、否、もっとそれ以上前から彼女の心は晴れることはない。
「‥‥‥‥主さま」
何時になったらこの雨は止んでくれるのだろうか。
ぱんっ、という音で思考が遮られた。手を一度叩き合わせるのは天海からの合図。
この時間に呼びつけられるのは今まで無かったことで、不思議に思いながらもひらりと控えていた天井裏から舞い降りた。
「何で御座いましょう」
「‥‥‥‥玖雨さん、」
間。
だが、それは居心地の悪いものではなかった。
玖雨は言葉を止めた天海の続きを静かに待つ。
たっぷりと時間を置いてから天海はぽつりと零した。
「‥‥‥暫くの間、ここに居てください」
その言葉に顔を伏せたまま玖雨は目を見開いた。
この、この言葉は‥‥‥ッッ
「何時までも、この玖雨、貴方様のお側に‥‥!!」
桃丸から光秀になっても掛けられていた言葉。
天海の中には未だ、求め続ける主さまが残っている!
背を向けた天海の後ろに座って彼を見つめた。
「玖雨さん、これからも私の為に働いてくださいね」
「御意に御座います‥‥‥!!」
主さまはまだ生きている。
貴方様がどれだけ魔王に取り憑かれていても、桃丸様が残っているのなら、
主さま、主さま、主さま主さま主さま主さまアルジサマ主さま主さま主さまあるじさま主さま主さま主サま主さま主さま主さマ主さま主さま主さま主さまアルジさま主さま主さま主さま主さま
何処までも、何時までも、
最期まで、貴方様と共に。
「‥‥‥どうやら面白い方向に事が進んでくれたようだ‥‥‥」
「だが、まだだ‥‥‥まだ早い」
「その狂気を摘み取るにはまだ早い‥‥‥」
「願わくば、少しでも長く私の退屈しのぎにならんことを─────」
──────嗚呼、雨が煩い
───────────────
お待たせしてしまってすみません!!
天海さまなのでちょっと狂った感じにしたいなーと書き始め、気付いたときには全然甘く無いっっ!!!?という事態に。そして松永さんが妙に出しゃばるという。
すすすすみませんんんん!
ですが、喜んでもらえれば幸いです!
この小説は玖雨さまに捧げます。
玖雨さまのみお持ち帰り可です。
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