街のある島への上陸は、本当に久しぶりだった。
 サニー号を停めてある入り江の波止場から少し歩き、まずたどり着いたのは港にほど近い海辺のマーケット。そこは、船の上から見るよりもずっと栄えていた。お客を呼び込む威勢のいい声が至る所で飛び交い、思い思いに街を行く人の賑わいがその活気にますますの彩りを加えている。
 夏島の夏でありながらもさほど厳しくない暑さとからりとした爽やかな空気は、今日の一日を絶好のお出かけ日和にしてくれそうだ。
「へー、こんなに大きな街だったのね」
「ええ、とても素敵。見て、メインストリートもかなり向こうのほうまで続いているわ」
 辺りを見渡し感嘆の声をあげたナミの肩を叩いて、マーケットの奥を示す。ナミは「どれどれ」と片手を目元でひさしのようにして背伸びをした。
「わ、ほんとだ。じゃあとりあえず行きはざっと抜けつつお店見てみて、戻りながら色々買おっか」
「それがいいわね」

 まずはマーケットの露店をひととおり覗いてから、二人並んで賑やかな通りを進む。
 今朝早く食材を仕入れるために朝市に出向いていたサンジから、街の目立つところに手配書が貼られている様子はないと聞いていた。市街地は比較的治安もよく、「レディーだけでのショッピングも問題なさそうだよ」とも。
 そう言いながらも、紳士な彼は例によって荷物持ちを買って出てくれたのだけど、それはナミによって丁重に断られてしまっていた。
 肩を落とすサンジに申し訳ない気持ちもありつつ、久しぶりにナミと二人きりで出かけられることに心が弾んでいたのは否定できない。さらにそこへ、「だって今日はデートだもんね」と耳元で私にだけ付け加えられて、みんなも居るダイニングなのにしばらく頬が熱かったのを覚えている。

「──って思ってたけど、浮かれてばっかでもいられないのよねー……」
 そうぼやくナミの手には、下船前に書き出してみた私たち二人の買い物リスト。ため息混じりのナミの言葉には私も全く同意見で、そこに挙げられた品々の数を改めて見て、思わず苦笑が漏れた。買い物らしい買い物はしばらくできていなくて消耗品の類にも不足が生じていたところだったから、こればかりは仕方がないのだけど。
「これだけたくさんのお店があると、目移りしてしまいそうになるわね」
「そうなのよ。ていうかむしろ色々見たいからこそ、買い出しは効率よく漏れがないようにしないとね」
「ふふ、頼もしいわ」
 気を取り直してリストを一緒に確認しながら、お店の場所をチェックしていく。
 港に近い区画では生鮮食品を取り扱うお店が数多く軒を連ねていたけれど、少し歩けばグローサリーやブティック、古書店なども充実している。こんなに種々様々なお店を巡ることができるのは、魚人島以来かもしれない。

 やがてメインストリートの行き当たりまで来たので、この辺りで有名らしいレストランで昼食を頂くことに。
 ここまでにお店の目星はつけてあるから、あとは船への道を戻りながらそれらに立ち寄ってお買い物を済ませればいい。
 さすがにナミのお店選びは完璧だった。それに加えてお得意の値切り交渉も冴え渡り、買い出しはとてもスムーズに進んでいった。せっかくこんなに大きな街だからということで、いつにも増して張り切ってくれたみたい。その分お洋服やアクセサリーを探す時にはゆったりできたし、何軒か立ち寄った本屋さんでも興味深い書籍を見つけることができた。
 ちょっとお金を使いすぎてしまった気もするけれど、いえ、ここは使いどきだったはずだわと自らに言い聞かせておく。
「とりあえず必要なものは全部買えたけど、まだ日が暮れるまで結構あるわね。喉渇いたし、お茶でもしない?」
「そうね、……あら」
 そんな話をしていたら、同じくお買い物中のウソップとフランキーに出くわした。
 訊くと、すぐそこの金物屋さんで工具を補充した二人は、それが最後の用事だったそう。彼らはもう船に戻るらしく、まだぶらつくなら私たちの荷物も一緒に持って帰ってくれると言う。せっかくなので、お言葉に甘えさせてもらうことにした。

 身軽になった私たちは先ほどの会話を思い出し、少し歩いて見つけた喫茶店に入った。店内はあまり混み合っておらず、窓際の広々としたボックス席に通される。
 注文を取りに来た店員さんに尋ねると、特産の果実を使ったフレッシュジュースがおすすめとのこと。ナミはそれにして、私はその葉を使ったアイスティーを頼んだ。
 美味しいお茶を頂きながら、ナミとたわいないお喋りを楽しむ。今日買ったお洋服の合わせ方だとか、サービスでついてきたパート・ド・フリュイが美味しいから今度サンジにも作ってもらおう、とか。
 ふと、話の流れでこの後はどうするかを尋ねてみたら、「それなんだけど」とやや低めた声でナミが囁いた。
「ね、たまにはああいうとこ入ってみない?」
「ああいうとこ?」
 復唱して首を傾げると、ナミは器用に片眉を上げつつグラスの氷を揺らしていた手を止めた。
 ストローを摘む指で示す先には、通りの反対側の路地にひっそりと立つ小さなホテル。とはいえその佇まいは瀟洒で、なんというか、その、ナミが考えているような場所ではないのではという気がする。
 どうしたものかと言い淀んでいたら、向かいから伸びてきた手が私の頬を撫で、そのままうなじへ降りていった。そこは、今朝も触れられた場所。ネックレスをつけようとしていたら、私がやるわとナミが手伝ってくれたから。でもその文脈は、あの時と今とでは全く違う。
 人目を避けたほんの一瞬のことだったけれど、動揺が手からグラスに伝わり、その中で絶妙なバランスを保っていた氷の塔をがらんと崩した。
「あの、ナミ」
「見て」
「え?」
 ちょうどその時、窓の外を一組の若い男女が横切った。仲睦まじく肩を寄せ合って、件のホテルに吸い込まれていく。旅行者の風体ではない。私もそこでようやく心得た。
 再び視線を正面に戻す。
「ロビン」
 最後の一口を飲み干したナミが、頬杖をついて私の答えを待っている。
「……いい、けど、」
「けど何?」
「お小遣い、まだ残ってたかしらと思って」
 そう言うや否や、ずこっと音が聞こえそうな勢いでナミが頬杖からずり落ちた。
「大丈夫?」
「あのね、もーちょっとスマートに誘われてくれない?」
「あらごめんなさい」
 あながち冗談のつもりでもなかったのだけどね。だって、船に戻れば二人きりになれる場所があるのに、倹約家のナミにしては珍しいお誘いだったから。
 でも、ナミの言うとおり、たまにはこういうのもいいかもしれない。ここには、風も波も届かないもの。

 部屋の扉を閉めた瞬間、やにわに背後から抱きしめられた。室内は涼しすぎるくらいに空調がよく効いていたから、ナミの身体の温かさになんだかほっとした。
 だけどそれにのんびり浸っている場合ではなくて、ナミはそのまま、アップにしている髪の下に潜るようにして首の付け根のあたりに顔を埋めてくる。
「あ、待って、そんないきなり」
 腰に回された手も、今にも動き出しそう。それを抑えつつ、先にシャワーを浴びさせてほしいとお願いした。さすがに少し汗もかいているし。
 私の反応はナミも承知の上だったようで、「やっぱり?」と苦笑しながらその手を緩め解放してくれた。

 シャワーはいつもより手短に。
 肌触りの良いタオル、バスローブ。清掃やアメニティの手入れも行き届いており、等閑なところのない良いホテルだと思った。ホテル代はナミが出してくれたから、チップは私が置いておきましょう。
 シャワールームを出ると、普段であればベッドの上で待っているナミが、傍らのスツールに腰掛けていた。
 ナミが私に気がついて、「おかえり」と立ち上がる。私も「ただいま」と言おうとしたら、抱き寄せられて、倒された。
「まっさらなシーツの上にロビンを寝かすの、なんか興奮する」
 膝立ちで私に跨るナミは、比喩でなく、本当に舌舐めずりをしている。
 もしかして、そのためにベッドにしわを作らず待っていたの?
 そういう趣向がお好みだとは今まで知らなかった。
「……船でも最初にベッドメイキングする?」
「いいわよ、多分待てないし」
 言い終わるより先に、バスローブの前身頃を開かれた。
 素肌を晒すと、程よい涼しさが気持ちいい。この部屋に入った時は少し肌寒く感じたのに、なぜだか今は快適な気がする。シャワーを浴びたから? 温まるほどの長湯ではなかったと思うけど。
「あ、そういえばさっき空調弱めいといたんだけど、どう? まだ寒い?」
 まるで頭の中を見透かされているかのようなタイミングでそう問われて驚いた。えっと思って空調の操作盤を見ると、確かにつまみが絞られている。
「ちょっと冷房効きすぎだったじゃない? 汗冷えるとよくないでしょ」
「そう……そうね。ありがとう、ちょうどいいわ」
「そ? ならよかった」
 なんでもないことのように笑うその顔に、私の鼓動はとくとくと音を立てて走り出す。「じゃあ続きね」と横腹を伝って脇の下に潜り込んで来た手は、その逸りを感じただろうか。
 片腕ずつ、ゆっくりと袖から抜かれていく。背中に差し入れられた手がそっと私の上体を浮かし、残ったバスローブを引き抜いた。

 そこに至るまでがどんなに性急でも、ナミの愛し方はいつも丁寧で優しい。
 まだそのギャップに慣れない頃、もっとナミのしたいようにしてくれていいのに、なんて言ってみたこともあった。
 不満があったのではなくむしろその逆で、私ばかりが満たされている気がしていたから。また、今になって顧みれば、当時はかつての破滅的な思考が抜けきっていなかったようにも思う。
 でもナミとしては特に自分を律しているような意識はないらしく、『そんなに難しく考えないで。私、美味しいものはじっくり味わって食べたいタイプなの』だそう。
 その時はそういうものなのかしらと腑に落ちていなかったけど、今ならなんとなくわかる気がする。そこにあるのはきっと、ナミの真心、それから献身。
 やおら視線を持ち上げると、ナミがブラウスを脱いでいるところだった。私にしてくれる時とは違って、潔い脱ぎっぷり。
 先刻の空調の件しかり、こういう些細なことで甘やかされているのを実感して、面映い気持ちになる。
 私も年上らしく何か気の利いたことができればいいのだけど。
 そう思っていくつか手を咲かせ、ナミがスツールにぽいっと放ったブラウスを畳んでみたり、服を脱ぐのに巻き込んだ髪を整えてみたりしたら、「急にそわそわしてどうしたの」とむしろ不審がられてしまった。
「私もあなたのことを甘やかしてみたいなと思って」
「……なんか話がかなり端折られてる気がする」
「だめ?」
「ううん。ま、いいわ。じゃあ甘えちゃおっ」
 言うが早いか、がばっと抱きしめられて、胸元に顔を埋められた。
 ナミったら、なんだかじゃれつく子犬みたい。よしよしと頭を撫でてあげる。
 思い描いていた雰囲気とは違ってしまったけれど、ナミは嬉しそうだしこれはこれでいいのかしら。
 じっとしていたのは、二、三度ゆったりと瞬きをする程度の間。
 顔を上げたナミの瞳の色に、少し空気が変わるのを感じた。
 そっと降りてくる唇を、瞼を閉じて受け止める。何度か触れ合って、段々深くかみ合っていく。
「……甘えるのは、もういいの?」
「うん、ありがと。ここからは、こっち」
 胸から首筋にかけて散りばめられるキスは、緩やかな始まりの合図。ひとつ、またひとつとこの身に小さな火が灯されていった。

 気がつけば緩んでいた膝は事もなく割られ、しなやかな指に追い詰められる。いいところだけを、寄せては引いていく波のような緩急で。
 胸の先に甘く歯を立てられて、咄嗟にシーツを掴もうとした。それはいつものくせだけど、ここはいつもの女部屋じゃない。馴染みのない滑らかなサテンの生地をつま先が引っ掻き、あえなくするりと逃げられる。
 海でもがいて、水面に縋ろうとしているような錯覚を覚えた。心許なさから、覆い被さる背中にそっと手を伸ばす。華奢で、柔らかくて、でもこんなに頼もしい。
 大丈夫。だって、ここは陸の上。この手を剥がし、ナミを連れて行くものは何もないのだから。

 やがてそんな思考も、徐々にもやが立ち込めて朧げになっていく。
 揺すられて、言葉にならない声が喉から押し出される。息をしたくて半開きになった口の端から唾液が溢れて、それに気づいた時にはもう舐め取られていて。反射的に口をつきかけたお礼の言葉は、そのままキスで塞がれた。
 今この状況では興を削ぐだけでしょうし、それでよかったのかもしれない。でも、ナミなら笑って「どういたしまして」と言ってくれる気もする。
 結局のところ、私はそれがナミならなんだって嬉しいのだから、もう何も考えることなんてないのだと思う。
「ねえ、ロビン」
 甘やかな音色で名前を呼ばれ、その時が近づいてくる。
「っん、な、に」
「今日はちゃんとぎゅってしてくれてるね」
「えっ、あ……気づいて、たの」
 何を、とは言われなくてもすぐにわかった。力がこもり、熱が集まる。ナミの背中に縋り付く指先に。
「気づくわよ、当然じゃない」
 切羽詰まったまなざしで、なのにこの頬に触れる手のひらはこんなにもやさしくて。
「ロビン、私がどれだけあんたのこと好きだと思ってんの?」
 ああ、そんなの、だめ。
 一際強く押し寄せた波に攫われて、瞼の裏で無数の泡が弾けて消えた。

 すっかり心地よい温もりを持ったシーツの海で、お互い無言のまま、名残惜しさに揺蕩っていた。
 やがて落ち着いたような気がして、先ほどのナミの言葉を思い出してはまた心を逸らせる、ということをもう何度か繰り返している。
「……嬉しかったのよ、私。ロビンがぎゅってしてくれてたの」
 だから唐突にナミにそう言われた時には、触れ合う素肌を通じて心の中が筒抜けになっているような気さえした。
 咄嗟にうまく受け答えることができずにいると、
「いつもは私が言わないとシーツ掴んでることのほうが多いでしょ」
 そう続けられ、そこまで見透かされているのなら私ももう素直にならざるを得ない気がして、静かにそれを打ち明ける。
「……ナミ、今はどこにも行かないから」
「え?」
「船では、いざと言うとき邪魔になってしまうでしょう」
「……ああ、なるほどね。邪魔だなんて思わないけど、心苦しいのは確かね」
 思い当たることがあるのか、ナミは苦笑まじりにそう答えた。
 2年前にも増して新世界の海は厳しく、海域によっては昼夜問わず船上を駆け回るナミの姿を見るのも珍しくはないし、時には彼女にさえ予兆を掴めない突然の大時化に見舞われることもある。
 女部屋で二人きりの時間を過ごしている時、にわかにばつが悪そうな顔に変わり私の元から離れて部屋を出るナミを見送ることにはもう慣れていたつもりだったけれど、そんなこともなかったみたい。
「私としては普段からそうしてくれてもいいんだけど、置いてかれるロビンのほうは寂しいだろうから、それはまああんたの好きにしてもらっていいわ。でもこういうときには、思う存分ぎゅーってしてくれていいわよ?」
 豊かな笑みと共にくれるその言葉が、抱き寄せてくれるその腕が、こんなにも心強くあたたかく感じられるのはきっとそういうことなんでしょう。
 はめ殺しの採光窓から降り注ぐ陽の明るさに、まだじゅうぶん日は高いことを知り、安らかな気持ちで私もナミを抱きしめ返す。
 海よりも広く深い彼女の慈しみに、今日はもう少しこの身を浸していたい。



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