「あ」
 しまった、と思った時にはもう遅かった。
 私の指に弾かれて、ロビンのグラスに挿してあったストローがぽとりと床に落ちた。
「え? ……あら」
 私の声に顔を上げたロビンもそのことに気がつき、床から咲かせた手でそれを摘み上げる。
「ごめーん、手が当たっちゃった。新しいの貰ってくるわ」
「ああ、いいわよ、もう飲み終わるから」
「そう?」
「ええ、ありがとう」
 まあロビンがそう言うならと浮かせかけた腰を下ろし、そのままお互いに自分の作業に戻った。
 今日は新世界にしては珍しく安定した海域を航行中で、ロビンの読書も私の航海日誌の清書もとてもよく捗っている。お昼ごはんの後から、もうかれこれ2時間ほどはこの調子。
 ロビンはページをめくり、私はペンを走らせる。黙々と読み、黙々と書く。
 ぱらり、かりかり。
 ぱらり、かり
 ガリッ。
 不意に聞こえた異質な響きに、ちらりと視線を持ち上げる。向かいに座っているロビンが本に釘付けになったまま、ハナの手でグラスをテーブルに戻しているところだった。見ると、グラスの中にはいくつかの氷が残っているだけ。
 ああ、さっきのは氷を噛んじゃった音だ。きっと最後の一口を飲み干す時に、氷まで入ってきてしまったんだろう。やっぱり新しいストロー持ってくればよかったかな。
 心の中で詫びつつも、特に気にせず読書を続けるロビンにならい、私も再び日誌に向き直ることにした。

 それからまた少しして、視界の隅でロビンがグラスを手に取るのがわかった。
 さっきもう全部飲んじゃってたはずだけど……もしかしたら、集中しすぎて気がついてないのかも。
 一方の私は少し書き疲れていたこともあり、なんとなく手を止めてその様子を眺めていた。
 ロビンはグラスを口元に近づけたところで中身がないことを思い出したようだったけど、構わずそのままグラスを傾け、溶け残った氷をいくつか口に含んだ。一度だけ噛み砕く音が聞こえて、その後は口の中で溶かしているみたい。
 へぇ、氷食べるんだ、ロビンって。ちょっと意外に感じられて記憶を手繰り寄せてみたけれど、少なくとも私は今まで見たことがないと思う。むしろその過程で思い出されたのは、かつての私自身のことだった。
 小さい頃の私も、よくジュースの後の氷を食べていた。と言っても私の場合は食べるというかガリガリやること自体が楽しかっただけで、うるさいからやめなってよくノジコに叱られてたっけ。
 そう考えると、ロビンはほとんど噛みはせず飴を舐めるようにしてるから……なんだろ、美味しいものでもないと思うけど、冷たいのが好きなのかな。
 ペンの羽根をもてあそびながらぼんやり思考を巡らせていたら、区切りのいいところまで来たのか、ロビンが小さく息をついてからぱたんと本を閉じた。
「ナミ?」
 顔を上げた拍子に、私の視線に気がついたロビン。ペンを持つ手が止まっているのを見て「どうかしたの」と首を傾げていたから、せっかくなので訊いてみた。ごくシンプルに、「ロビンってさ、氷食べる派だったっけ?」と。
「あ……」
 するとロビンはさっと目を伏せて手元のグラスを一瞥し、なぜかどことなく恥ずかしげに首を横に振った。
「失礼、お行儀悪かったわね」
「あっ、ごめんごめん。そういうつもりじゃなかったんだけど、単に初めて見たなーって思って」
「そうね……多分、気が抜けていたんだわ」
 本当にただそれだけだったからありのままそう補足した私に対して、ロビンは表情こそ穏やかだったものの、その声色をほんの少しざらつかせていた。
 多分、本人にも自覚がないくらいの些細な違和感。でもそれが私にはどうにも引っかかってしまって、その理由を尋ねずにはいられなかった。
「いえ、大したことではないのよ」
 そう前置いて、ロビンが続ける。
「昔は食べるのに困ることも少なくなくて、その頃からの癖なの。大人になって、改めたつもりだったのだけどね」
 眉尻を下げ、どこか遠い目をして話す彼女に胸の奥がつんと痛んだ。その苦しみは、私も実感をもって知っているものだったから。
「……ごめんなさい、変な空気にしてしまったかしら」
 そんな私の心中を察してか、ロビンが申し訳なさそうに笑って言う。
「あ、ううん、聞かせてくれてありがと」
 こっちこそ気を遣わせちゃって悪かったなと思って、私は努めて明るく答えた。

 ロビンの過去について、私も全てを知ってるわけじゃない。
 エニエス・ロビーの一件で、彼女の故郷を襲った悲劇については明らかになったけれど、そこからのロビンがどんな暮らしぶりで私たちに会うまでの日々を過ごしてきたのかは、きっとそれがひどく険しい茨の道だったんだろうということしかわからない。
 そこのところを私からあえて訊くことはしてこなかったし、ロビンが自ら積極的に語ることもない。
 それでも時々こんなふうに、会話の中や日常の仕草にその名残が見え隠れすることがあり、その度に私は知りもしない幼いロビンの姿を想像して、考えてしまう。
 例えば、時間を飛び越えて私がこの子を掬い上げることができたらいいのに。なんて、夢みたいなことを。
 だけど同時に、そうやってただ感傷に浸るだけでは終われないのも私なのだ。
 過去はどうにもできないけど、だったらその分、今のロビンをめいっぱい満たしたい。この先いつか、もしまたその癖が出てしまった時に思い出すのは、ひもじかった昔の記憶じゃなくて今日の私とのことがいい。そうやって、いやな思い出は全部私が上書きしたい。
 そういうほとんど自己満足とも言える動機で、またいつものようにあれこれ考える。
 その時、ふと目に留まった時計を見て、ひとつ思い浮かんだことがあった。
「……ね、そういえばさ」
「なあに?」
「ロビン、前に言ってたじゃない、私が作った料理も食べてみたいって」
「ええ」
「それ、今日やるわ」
「え?」
「今日のロビンのおやつは、サンジ君にキッチン借りて私が作る!」
「……えっ?」
 机上の本に重ねられていたロビンの手を取って引き寄せ、両手でぎゅっと握りしめる。
 されるがままのロビンはぱちぱちと瞬きを繰り返し、何がどうしてそうなったのかと困惑気味。
 あまり押し付けがましくなるのは嫌だったから色々と端折って、「やなこと思い出させちゃったからそのお詫びで!」とだけ付け足したら。
「ナミには落ち度なんてないけれど……せっかくなら、お言葉に甘えてみようかしら」
 はにかんだ微笑みとともに返してくれたその言葉に、私も笑顔で頷いた。

***

 ロビンのリクエストに応えて作ったのは、ふわっふわのパンケーキ。もちろんサンジ君が作るのに比べたらどうしても色々と劣るけど、まあなかなかの出来だと思う。
 トッピングは、甘さ控えめのホイップクリームといちごジャム。ちなみにこのジャムは先週みんなで手作りしたものだ。作りたては翌朝早速トーストに塗って食べたんだけど、その時ロビンは、ジャムに目を輝かせていたチョッパーやよく食べるルフィに遠慮してか、自分のパンにはごくうっすらとしか塗っていなかった。だから今日は私が大サービスしてあげちゃう。こっちも糖度は低めだからどうせそれほど日持ちしないし、キッチンを借りる時にサンジ君も「食材含めて何でも自由に使っていいからね」って言ってくれてたし、ロビンになら大目に見てくれるでしょ。

「ロビン、おまたせ」
 ダイニングテーブルで待ってもらっていたロビンの前にお皿を並べて、私もその向かいの席に着く。
 ほんとなら一緒に食べられればよかったんだけど、私のほうは味見と練習を兼ねて焼いたのでお腹いっぱいになっちゃってたから、ロビンが淹れてくれたコーヒーだけで。
 さて、ひとまず見た目はいい感じでしょ? って、ロビンの反応を窺うと。
「ジャム……」
 お、やっぱり気づいてくれた。
 なんとなくテンション上がって見えるのは、きっと気のせいじゃないはず。
「こんなにたくさん、いいの?」
「もっちろん。まだまだあるから、足りなかったら言ってよね」
「……ありがとう、いただきます」
「うん、召し上がれ」
 ロビンが私の作ったパンケーキを頬張る。ナイフで一口大に切り分けて、クリームとジャムをたっぷりつけて。
 美味しいわ、って柔らかく緩んだその顔はどこかあどけなくて、もぐもぐ食べてる様子なんてもうずっと見ていられそう。なんだか私のほうが満ち足りた気持ちになってくる。
 実は、味見したとはいえロビンの口に合うかはいまいち確信が持てていなかったから、気に入ってもらえてほっと一安心。ブラックで飲んでいるコーヒーの味も、なんだか優しく感じられた。

 コーヒーを頂きながらロビンがパンケーキを食べ進めるのを眺めたり、たわいないお喋りをしたり。新世界の航海ではのんびりできるときにしておかなきゃってことで、こういう時間は結構貴重。
 そうしていると、何気なく会話が途切れたタイミングで、不意にロビンが手を止めて言った。
「ねぇ、ナミ」
「なに? ロビン」
 どこか改まったような雰囲気に、私も持ち上げかけたカップをいったん下ろして答える。
「……ありがとう」
「うん?」
「いつも、ありがとう」
「……ん、どういたしまして」
 いつも、か。
 そう言われると、なんか私の考えてること全部筒抜けみたいでちょっと照れくさくなる。
 それこそ私だって、“いつも”はもっと上手に立ち回ってるつもりなんだけど、さすがに今日のは唐突すぎちゃったか。
 とにかく、ロビンも喜んでくれてるならよかった。
 それに今回は急な思いつきだったからあまり凝ったものは作れなかったけど、たまにはこうやって手料理を振る舞うのも楽しいかもしれない。私もロビンの料理を食べてみたいし、今度一緒にサンジ君に何か教えてもらおう。
 そこまで考えたところで、そうするとこれは今後の参考にもなるかなと、さっき訊きそびれていた話題を持ち出してみた。
「ところでさ、やっぱロビンも好きだったのね、ジャム」
「……そうね、今好きになったわ」
「え、今?」
 肯定ではあるものの、ちょっと気になる言い回し。てっきり好物なのかと思ってたから、今っていうのはどういうことなんだろう。
「ふふ、なんでもない」
 あ、はぐらかされちゃった。よくわかんないけどとりあえずロビンは嬉しそうだし、ま、いっか。この顔を見ることができたのと、甘さ控えめのいちごジャムがお好みだとわかったから収穫は充分、ううん、お釣りが来るくらいだもん。
 お釣りといえば……と、女部屋を出てダイニングに向かっている時のロビンとのやりとりを思い出す。
 本気か冗談かわかりかねるトーンで「ナミの手料理は有料と聞いたことがあるけれど、おいくらほど?」と尋ねてきたから、チョップを食らわせてやったのだ。そりゃいくら私だからって、どこの世界に恋人に手料理作るのにお金取るやつがいんのよ。そう言って鼻息を荒くしたら、ロビンはくすくす笑ってた。ちょうど今みたいに、何がそんなに楽しいんだかって顔をして。
 残ったコーヒーを飲み干して、頬杖をつく。ロビンがまたひとかけらパンケーキを口に運ぶ。
 いつの間にやら、食べ終わるまであと少し。
 私がしたくてしたことだし、もちろんお代なんて要らないけど。
「……ロビン、口にジャムついてる」
「あら、どこ?」
「ここ」
 テーブルに身を乗り出して、唇の上に残ったジャムをぺろりと舐めとった。思っていたより甘かった。



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