今朝は早くから図書館に篭っていた。
明日上陸する予定の島について、どうしても事前に調べておきたいことがあったのだ。
申し訳ないと思いつつも、ナミちゃんが目覚める前に女部屋を出たのも、もう数時間前のこと。
その甲斐あって、お昼前には一応の目処をつけることができてよかったけれど……彼女は今どうしてるかしら。
さっき一度忘れ物を取りに女部屋に顔を出した時には、机に突っ伏して眠っていた。
もう今はあれから小一時間経っているし、お昼寝にしてもそろそろ起こしてもいいだろう。
オレンジジュースの注がれたグラスと、自分のためのコーヒーを持って再び女部屋へ。
「あら」
「おかえり。早かったじゃない」
「……ええ」
起きていたのね。
まあ、あの体勢ではそう長くも寝ていられないでしょうし、当然かもしれない。
ナミちゃんはソファに対して横向きに腰掛けて、ペディキュアを塗っているところだった。
私のほうを見て、「あっ」と声を上げたナミちゃん。
「ちょうど喉乾いたなーって思ってたのよ。ありがと」
「まだ途中? ここに置いておくわね」
「待って、今飲む」
「え?」
テーブルにコースターを置いたところで、手を止める。
「続き塗ってよ、ロビン」
そう言ってナミちゃんは両手に持っていたボトルとハケ付きのキャップを私に差し出した。
それらを受け取る代わりにグラスを手渡して、コースターの上には私のカップを置いた。
「はい、ここ」
伸ばしていた両脚を引き寄せてソファにスペースを作ってくれたので、わたしもそこへ腰かける。
すると片膝は立てられたまま、ペディキュアが塗りかけになっている右脚だけが少し伸びてきて、ちょうど私の腿の上につま先が来るようそっと下ろされた。
「私は構わないけれど、きっとあなたのほうが上手でしょう?」
「いーの! 散々放っぽっといて、これくらいしてくれたっていいでしょうが」
ナミちゃんは唇を尖らせて、あからさまに不機嫌そうにする。
くす、と笑うと「なによ」とさらにむっとした顔で睨まれた。
「……動かないでね」
足の裏から手を添えてそう言うと、やっとナミちゃんの表情が緩んだ。
ボトルはソファに咲かせたハナの手に持たせて、右手に持ったキャップのハケを静かに沈めて引き上げる。
ボトルの口で何度かこそいで、量を調節。
まだ塗られていないのは、親指、人差し指、中指。
手前の親指からそうっと色をつけていく。
シャンパンゴールド、というのかしら。光の加減によってはシルバーが強くも見える、複雑な色。
ナミちゃんはグラスを手に持ったまま本当に微動だにせず、じっと私の手元を見つめている。
動かないでとお願いしたとはいえ、こうもじっくり見られているとなんだかやりづらい。
おそらく彼女からしたら特にそういう意図はなく、単に手持ち無沙汰を持て余しての行動なのだろうけれど。
「……ありがと。充分きれいに塗れてるじゃない」
「どういたしまして」
「まあ、ロビン、手先は器用なほうだもんね」
「そうかしらね」
ナミちゃんが動かずにいてくれたものだから、幸いにもはみ出したりすることもなく塗り終えることができた。
きつすぎない程度にキャップを締めてボトルを返す。
すると彼女は、今しがた受け取ったばかりのそれを揺らして示しながら「ロビンにも塗ったげようか?」と言った。
「手でも足でもいいわよ」
「……じゃあ、足にお願いしようかしら」
私は少し考えてからそう答えた。
自分は手を使うことが人より多いために、そちらだときっとすぐに剥げてしまうような気がして。
「ん。じゃ、場所交代」
そうして今度はナミちゃんの膝の上に私が脚を横たわらせる。
「あ、つけてくれてるんだ」
不意にそう口にしたナミちゃんが「これ」と示す先には、先日彼女にもらったばかりのアンクレット。
馴染んでいたからすっかり忘れていたけれど、そういえば今日もつけていたんだった。
「ええ。気に入ってるのよ」
「そっか。へへ、よかった」
足にお願い、と言った理由……もしかすると、これをアピールするためと思われてしまったかしら。
覗きこむようにナミちゃんの表情を窺うと、純粋に嬉しそうな様子。
そんな彼女を見ていると、自然と笑みがこぼれてしまう。些細なことだけれど、私はこの子のこういうところが好きなのだと、あらためて感じた。
その間にも、私のつま先は慣れた手つきでスムーズに彩られていく。
右足は既に塗り終えられ、先ほど私がナミちゃんに塗ったのと同じ複雑な輝きを放っていた。
「お揃いね。うれしい」
「え、なになに、珍しく素直にかわいいこと言うじゃないの、ロビン」
「ナミちゃんの真似をしてみたのよ」
「それはいい心がけね」
やがて両足の爪全てにペディキュアが施されると、ナミちゃんは「はい、終わり」と私の足首のあたりをぽんぽんと叩いた。
アンクレットが、チャリと音を立てて揺れる。
「ありがとう」
お礼を言って脚を下ろそうと動かしかけたものの、それは脛をおさえるナミちゃんの手に妨げられた。
「なあに?」
「いいじゃない、乾くまでこのままでいれば」
塗りやすいよう折り曲げていた膝の裏に手を差し入れられて、伸ばすように促される。
「重いでしょう」
「こーんなほっそい脚して何言ってんの」
素肌の脛をぺしんと叩かれ、その手はそのまま私の脚を滑って膝を通り過ぎ、太腿のあたりで止まる。
やわやわと撫で回す手のひらの温度と挑発的な視線に思うところはあったけれど、手に持つカップに半分ほど残っているコーヒーの液面が揺れるのをぼんやりと見つめてやり過ごした。
「ロビン、ジュース取って」
「ええ」
テーブルに手を咲かせて、ナミちゃんのグラスを取る。
私にペディキュアを塗ってくれている間ずっと置いたままにしてあったために、ずいぶんと汗をかいている。
「待って、拭くわ」
「いいよ、ありがと」
そう言うならとそのままグラスを手渡した。
ナミちゃんは、いつもとても美味しそうにオレンジジュースを飲む。
ついさっきまで私の太腿に触れていたときとはうって変わって、今グラスを傾けている彼女の横顔は無邪気な子供のよう。
前者をギラギラと形容するなら、後者はキラキラといったところかしら。
と、その時だった。
「っあ……」
突然、脛にひやっとした感覚。
ナミちゃんのグラスの結露が、滴って落ちたのだった。
「え? ……ああ、ごめんごめん」
「いえ、」
少しびっくりしただけよ、そう続けようとしたけれど、にやりと口の端を歪めたナミちゃんに嫌な予感がして言葉を切った。
「……ちょっ、と、」
次の瞬間、彼女は私のふくらはぎを持ち上げて、水滴の跡を辿るように脛を一舐め。
「もう……」
「へっへーん」
油断も隙もあったものじゃないわ。
咎めるような視線を送ってみても、ナミちゃんはそんなこと意に介しもしない。
「下ろしてちょうだい。攣っちゃうわ」
「はいはい」
これには素直に従ってくれたけれど、彼女の瞳の奥に灯ったギラギラがまだ火種を残していることは明らかに見て取れる。
おふざけのような気もするし、本当に本気のような気もする。まだお昼にもなっていないのだけど……。
念のため、また何かの拍子で炎上する前に釘を刺しておこうと口を開いた。
「ナミちゃん」
「何?」
「いたずら、しないでね」
「……それは、フリと受け取っていいの?」
「だってまだ乾いていないもの。せっかくナミちゃんが塗ってくれたのに、台無しにしたくないの。あなたに触れられると、じっとしてはいられないから……」
ちょっとあざとすぎたかも。
でも、そう思っているのはちゃんと本当。
あえてこんな恥ずかしいことを口に出してみたのは、狙っての行動だけれど。
「……」
押し黙ったところを、これでとどめとばかりに上目で見遣る。
ちなみにこういうお願いの仕方も、あなたの真似よ。
「ロビン……!」
ナミちゃんは手の甲を口元に押し当て、目を真ん丸にして私を見つめている。
これは、勝ったわ。
「お願いね?」
「うん……うん! わかった、おとなしくしてる!」
けれど、その言葉に安堵したのも束の間のことだった。
「あー早く乾かないかな。今度からは速乾性のにしよっと」
「……えっ?」
あの、ちょっと待って。
「えっ、て……え? いや、乾くまで待ってってことでしょ?」
「いえ、そうではなくて、」
「あ、気が変わった? ──っていうかさ、」
予想外の展開に困惑している私の隙をついて、ナミちゃんが再びつま先を捕える。
さっと爪の表面を撫でて「なんだ、もう乾いてるじゃない」と言ったかと思うと、あっという間にソファに横たえられてしまった。
私が口を挟むより先に、まるで硝子細工でも扱っているかのような繊細さをもった指先がそっと頬を滑っていく。
さっきまではほとんどからかうような誘い方ばかりしていたくせに、こんなのってずるいわ。
「……ロビン」
三日月形に細められた両の眼の琥珀色に私が映って、ぼんやりと像を結んでいる。
たったこれだけで言いようのない幸せを感じる。
「好きだよ、ロビン」
だって、声色も表情も、何もかもが優しい。
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