小説 | ナノ






        優しい瞳、帰るべき場所



  

抜けるような空を遮るように、蝉時雨が降り続けている。

「今年も暑いねえ、お母さん。」

返ってくるはずもない返事を期待して、仏壇に声をかける。しん、と静寂が鳴り響く部屋には、どうしても慣れることが出来ずにいた。
縁側に座って、一面緑色の田園をぼんやりと眺めると、流れるように日々が過ぎる都会にはないこんな時間が、とても大切なもののように感じた。毎年お盆にだけ帰る実家は、やはり心が落ち着く。

「雅殿?」

突如聞こえた、私の名を呼ぶ声に顔をあげる。驚いた様子で庭に立つ青年が、そこにはいた。

「幸村…、久しぶり。」
「久しぶりにござるな。帰っていらしたのでござるか。」
「うん。昨日新幹線で帰ったとこ。」
「左様で…。」

お変わりないようで安心致した、と微笑む彼は、幼馴染みの真田幸村。手に抱える花束は、母が好きだった百合だ。

「毎年ありがとね。お母さんも喜んでるよ、絶対。」
「…幼き頃より、世話になった故。」
「…上がりなよ。お茶くらい出すから。」
「うむ、失礼致す。」

からから、と慣れたように引き戸を開き、静かに彼は敷居を跨いだ。それを確認してから、台所でコップに氷とお茶を注ぎ、盆にのせて仏間へ運ぶ。
真っ直ぐとした背筋で、仏壇に手を合わす幸村の姿に、何故だか鼻の奥がツンとした。
線香の香りが風に乗って漂う。

「今年はいつ、東京へ戻られるので?」

隣に座ると、彼はゆっくりと口を開いて、私に訊ねた。

「明後日くらいには帰ろうと思ってる。仕事あるし、ね。」
「明後日に、ござるか…、」

俯く幸村の表情は、こちらからは窺えなかった。それに苦笑して私も少し俯く。
からりと、お茶の中で氷の溶ける音がした。

「…雅殿、少し歩きましょうぞ。」
「え、暑いじゃん。」
「たまには良いでござろう。昔のように、畦道を散歩でも。さあ、」

手を引かれたので、渋々立ち上がる。適当なサンダルを履いて、一歩外に出れば、じり、とした暑さが肌を灼いた。それに少しげんなりしたが、私の手を掴んだままの彼は、ずんずんと先を進んでいく。凛とした背中も、さらりと揺れる髪も、控えめなようで強引なところも、変わらない。変わらず、此所に在ってくれる。

「雅殿は、変わりませぬな。」

どきりとした。声色は、切なさを含んでいるようだった。

「昔と変わらず、意地っ張りにござる。」
「…どういうこと?」
「そのままの意味にござる。」

振り向いて、彼は悪戯っぽく笑った。

「意地なんて、張ってないよ。」

小さく呟く。幸村に聞こえるか聞こえないかくらいの声で。
昔歩いた畦道は、幾分か狭くなったように感じる。大きいと思っていた桜の木すらも、小さく見える。目の前の幸村は、とうに私の背丈を超している。気付けば、こんなにも時は経っていた。

「……帰って来たら良いではないか、」
「…え、」
「そのような顔をするくらいならば、帰ってきてくだされ。」

繋いだ手を、さらに強く握られる。彼の眼は、真っ直ぐに、私を捕らえて、離さない。

懐かしい匂いがする。土と草と、水の匂い。胸が詰まる。苦しい。

「……今さら帰れないよ。だって、」
「言い訳は要りませぬ。雅殿は、帰省する度に、哀しそうな顔をしておられる。今だって。」
「………っ、」

でも、だけど、だって、
早く自立したくて、高校卒業と同時に、飛び出すように故郷を離れた。ろくに連絡も入れずに、むこうで就職を決め、生活を始めた。お母さんが倒れたときも、仕事が忙しくて、駆けつけることが出来なかった。今さら、どんな顔して帰ればいいの。

いくらでも出てくる"言い訳"。

「雅殿、某は知っておりまする。」
「…え?」
「雅殿が此所を離れたのは、母上殿のお身体を治すためにござろう?都会で稼いで、貯めたお金は、全て母上殿の治療費にあてるつもりだった…違いまするか?」
「…な、んで…?」

幸村がゆるりと笑む。全て見透かすような眼。幸村は変わらない。昔も、今も、私のことは、なんでも分かってしまう。

「私、お母さんに、元気になってほしくて、迷惑かけたくなくて、此所を出たのに…、結局、治療費が貯まる前にお母さんは死んじゃった…。最後まで迷惑かけたまま、心配かけたまま…!」

一粒、私の眼から涙が落ちた。この期に及んでもまだ、幸村に泣き顔を見られたくなくて俯く私は、幸村の言う通り、とんだ意地っ張りだ。そんな私に、幸村が小さく息を吐いたのが聞こえて、また涙腺を刺激される。それから幸村は、よく通る声で私に告げた。

「母上殿も、もちろん父上殿も、知っておられた。雅殿が、どうして此所を出たのかも、どんな思いでいたのかも、全て、知っておられた。親とは、きっとそういうものなのでござろう。」

驚いて顔をあげると、幸村は泣きそうな顔で笑っていた。

「母上殿が仰っていた。"雅が幸せでいられる道を選んでほしい"と。幼馴染みである某に、いつもそう話してくださった。」

幸村の頬にも、涙が一筋伝った。

「雅殿、もう意地は張らなくて良いのだ。無理して、一人で頑張らなくて、良いのだ。」

その言葉に、さらに胸が詰まる。はあ、と震える息を吐いた。

「ど、して?幸村、なんで、いつも私のこと、分かっちゃうの?なんで、私にここまで、」

く、と幸村の大きな掌が、私の頭を自らの胸へ引き寄せた。少し早い幸村の鼓動が、私の鼓膜を優しく震わす。

「某は、いつだって、雅殿を見てきたのだ。昔から、ずっと。」

蝉時雨はやまない。

「帰りましょうぞ、某と、共に。」

傾き始めた夕日が、二人の影を落として伸ばした。
差し出された手を、強く握り返す。
帰ろう、一緒に。



       優しい瞳、帰るべき場所
        (泣いた私を見て、君も泣いた)