我君ヲ愛ス、 ふわりと、夏の始まりを告げる風が窓を潜り抜ける。 放課後の図書室の静けさは、心が落ち着いて居心地がよいものだということを、図書委員になってはじめて知り得た。 とはいっても、時たま、本から顔を上げて、共に図書委員を担当している彼女の姿を目で追う度、この鼓動の早さを隠しきれはしないのだが。 整理している本に伏せられた睫毛が、とても長いな、とぼんやり思った。 不意に、目が合う。 「あ、幸村くん何読んでるの?」 仕事してよ、と口では言いながらも、彼女の声音は明るいものだった。 躍り狂う心臓の音が、この静けさに相乗して、聞こえてしまうのでは、と本気で思う。 「な、夏目漱石殿の書物を…。何気なく目についたもので。」 「夏目漱石かあ、いいよね。読んでるとついつい真剣になっちゃう。」 「お好きなのでござるか?」 「うん。でも最近は読んでないな。今度また読もうかな。」 ゆるりと笑む彼女は、とても楽しそうに話す。改めて、よほど本が好きなのだなと、つい此方まで口許が緩んだ。 彼女の好きなものを自分も好きになると、小さな喜びが湧く。故に、もっと知りたくなる。なんて、独占欲のようなものを感じる自分が、少し情けなくなった。誰にも聞こえないくらいの溜め息を吐いて、開いていた本を閉じ、棚に戻す。あ、と声を漏らした彼女は、今戻したばかりの本を、背伸びをしながら手に取って、俺に渡した。 「これ、おすすめだから、ちゃんと読んで。」 手元へと帰ってきたそれに目を落とす。承知いたした、と呟いて、下唇をゆるく噛んだ。油断したら、口角が上がってしまいそうだ。誤魔化すように、次は此方から口を開いた。 「雅殿は、いつ頃から読書をたしなんでおられるので?」 「うーん…、物心ついたときには、既に片手に本を持ってたかな。小学校からずっと、放課後に図書室で本を読むのは、日課みたいになってる。」 「左様で。」 「あ、幸村くんをはじめて見たのも、たしか図書室だったなあ。窓から、部活中の幸村くんが見えたの。」 「え、」 思いがけない言葉に、自分の目が大きく見開いたのが分かった。 「誰よりも大きな声出してて、すごい熱い人だなあって思ったんだよ。真剣で、一生懸命で、すごくキラキラしてた。」 「で、では、雅殿は、ずいぶん前から某のことを知っておられたのでござるか?」 「うん。今年同じクラスになれて、嬉しかった。」 「も、勿体なきお言葉にござる…!」 「あはは、幸村くん、顔真っ赤。」 その指摘に、勢いよく右の手の甲を頬に当てる。確かに、そこは熱をもっていた。恥ずかしい。穴があったら入りたいとは、正にこのことだと思う。 「そのときに読んでたのが、ちょうど夏目漱石だった気がするな。さっき幸村くんに渡したやつ。」 「ああ、これを…。」 ぱらぱら、と再度ページをめくってみる。結構長い小説だ。彼女は夏目漱石の中で、特にこの本が好きだと言った。またひとつ、彼女の好きなものを知り、胸の奥が満たされた感覚がした。 早く読みたいと、だらしなく緩む頬に気付かぬままそう告げれば、彼女も嬉しそうに笑った。 「…あのね、夏目漱石には、素敵な逸話があるんだ。」 静かな図書室に、彼女の柔らかい声がよく響いた。逸話?と首をかしげる俺の瞳を見詰めて、彼女は言う。 「月が綺麗ですね。」 「……月、にござるか?」 その言葉に、窓に近づいて空を覗き込むが、そこには夕陽で薄紅に染められた雲が浮いているだけだった。 頭のなかを疑問符で埋めながら、まだ月は見当たりませぬが、と彼女に言うと、予想通りの反応だと、また小さく笑う。 「夏目漱石はね、I love you を、月が綺麗ですねって訳したんだって。」 「あ、あいらぶゆう…、」 「うん。だから……、月が綺麗ですね、幸村くん。」 暫しの間、思考が停止した後、みるみる頬が熱くなっていく。 「月が綺麗ですね、幸村くん。」 その言葉の意図を、頭では否定しながらも、心は勝手に、期待で胸を膨らませている。どくどくと騒がしい心音で、周囲の音がやけに遠く感じた。 「私ね、」 その声に、は、と顔を上げる。不思議だ。彼女の声だけは、聞き逃すことを許さぬように、しっかりと俺の鼓膜を震わす。 「幸村くんに、私の好きな本を、好きになってほしい。幸村くんの好きなものを、私も好きになりたいんだ。…この意味、分かる?」 一つ、大きく心臓が跳ねた。思わず、先程受け取った本で、ぎゅ、と左胸を押さえた。古書独特の匂いが、微かに鼻を掠める。 「そ、それは、その…、某の勘違いでなければ、」 彼女の顔も、俺に負けず劣らず赤かった。言葉に詰まる。本当に、俺の、独り善がりな思い込みではないのか。 さらりと彼女の髪を揺らす風を辿って、もう一度、淡い色をした空に目を向けた。 「つ、月が、綺麗にござる、雅殿。」 彼女の顔なんて見れないまま、声を裏返してそう告げる。一呼吸置いたあとに、彼女は、そうだね、と言って、涙を浮かべながら、笑った。 優しい薄紅が紅みを増していく。もうすぐ月が、顔を出す。 今日の空をきっと、俺は生涯忘れないのだろう。 我君ヲ愛ス、 (あの月よりも大きな愛を) |