小説 | ナノ






        君と繋がる糸が欲しい



   
 今宵がきっと、その時だと呟いて、彼女は静かに目を伏せた。

二度目の春が、もうすぐ終わる。 

あの日、すでに緑が目立ち始めたこの桜の木の下で、彼女と出逢った。
ずっと目を背けてきた冷たい現実が、まるで俺の心臓を抉り取るかのように、鋭く突き刺さる。

「……本当に、帰ってしまわれるので御座るか、」

情けないほどに、声を震わせて尋ねた俺に、彼女は無言で頷く。

奈落の底へと、突き落とされた気分だ。

自嘲気味にこぼれたのは、乾いた笑いだった。
 
彼女は違う世界に住む御方。結ばれることはおろか、いつまでも共にいることなど、叶わない話なのだ。
それを、たとえ二人が望んだとしても、決して。
分かっていたはずだった。
それでも、その時が永遠に来なければいいなどと、有りもしないことを期待した。

なんて、滑稽な。


「…某は…、貴殿を、お慕いしておりまする。誰よりも、何よりも…。」

絞り出した言葉は、懇願のようだと思った。
無意識に、下唇を噛む。
 
行かないで、ほしい。

それが言えたら、どんなに楽か。

「……ねえ、幸村さん」

やっと発した彼女の声は、ひどく掠れていた。

「幸村さんは、赤い糸…って、ご存知ですか?」
「あかい…いと…?」

存じ上げませぬ、と首をひねると、彼女はゆるりと笑んだ。

「赤い糸というのは、自分の小指と、運命の人の小指とを繋ぐ、あかい色をした糸のことなんです。勿論、目には見えない、架空の話ですが。」

そう言って、彼女は、自らの小指を、静かに俺の前へと差し出した。

あかいいと…か。

「それは、誠に、素敵な話に御座りまするな。」

その小さな手をとって、彼女の目を見つめる。
今、彼女の瞳には、しかと俺の姿が映っている。
そして、俺の瞳にも同様に。
そんなことが、どうしようもなく嬉しくて、胸が締め付けられた。
 
「…好きです、幸村さん…、」
「雅殿…」

刹那、彼女の瞳が揺らめく。
直後には、あとからあとから、大きな雫が、彼女の頬を濡らした。

「っ、ごめんなさい…っ」

何故、謝られるのか。
そなたが謝ることなど、何一つとてないはず。

頭上の桜が、残り少ない小さな花びらを、ひらひらと落とす。
それはまるで、最後の力を、振り絞るかのよう。

刻一刻と、残酷にも、時は迫っていた。

「………なれば、雅殿、」

おもむろに口を開いた俺に、彼女は、ゆっくりと顔を上げる。

「某とそなたは、あかいいとで、結ばれておりまする。」
「……幸村…さん…、」
「目に見えぬ故、信じられないと言うのであれば、こう致しましょうぞ。」

しゅるりと、紅色の額あてをほどき、しっかりと互いの小指へと結びつける。

気休めだとは分かっていた。
けれど、こんなことしか思い付かないのだ。
彼女を、繋ぎ止める術が、もしもあるとするならば、どうか教えて欲しい。

彼女は、しばらく目を丸くしながらその様子を見ていたが、すぐに、ふ、と笑みを浮かべた。

「これなら、離れませんね。」
「離れませぬ、決して。」

二人で小さく笑いあって、どちらからともなく口付けを交わす。
一生分の、想いを込めて。

「幸村さん…、大好きです。必ず、必ずまた、あなたの傍へと帰ってきます。だから…、」
「待っておりまする。貴殿が帰られるその日まで、」

ぶわりと風が吹く。
春の欠片が、二人を包み込んだ。
最後の花びらと共に、彼女はこの世界から姿を消した。
繋いでいたはずの、紅色を靡かせて。




          君と繋がる糸が欲しい

     (何時だって、手繰り寄せられるような)