中学校生活に今日、終わりを告げた。
涙まじりで別れの歌を歌い、在校生に見送られて体育館を後にしたことが、もう既に通りすぎた過去となっていた。
私は中学校を卒業した。校舎を背に、三年間の思い出の風が私の体を貫いた。
そこかしこで別れを惜しむ声、泣きながら抱き合う生徒達。私も例外ではなく、友人一人ひとりと言葉を交わしあっていた。
そんな中、私の胸の中にはひとつ心残りがあった。
皆は最後の通学路を踏みしめ、歩き出した。これからは一人ひとり違う道を選び進んでいくのだ。
私達は中学校の思い出に浸り、下校していた。友人達とこうして並んで歩くことももうないと思うと胸が切なくなった。私が無意識に隣の友人の手を握ってしまうと、「やっと涙止まったのに」と友人は泣き出してしまった。それを見た皆は口々に「卒業したくないよ」と言い、声を上げ泣いていた。
それほど、学校生活を私達は愛していた。親しい友人と離れたくなかった。
しかし、卒業は受け入れなくてはならない。いつまでも変わらないものなんてないのだ。時間と成長に私達は縛られ、始まりがあり、終わりがある。
私は卒業を受け入れた。受け入れなければ先へも進めない。そこにあるのは別れの寂しさだけか、というとそれは違った。
卒業をするには、足りないものがあった。いつも一緒だったのに、突然目の前から姿をくらましたものだ。私はそれに対する怒りと悲しみが入り交じった複雑な思いを抱えていたのだった。だから、本当は受け入れたくなかった。否、心の根底では未だ受け入れてはいなかったのだ。あいつのいない卒業を。
どこからだっただろう。第一声はとある男子のものであった気がする。それを皮切りに女子の黄色い声も聞こえ出した。友人達も次々にその人の名前を呼んだ。


「南沢!!」


私の抱えていた思いが胸の中でピシャンと音を立てて弾け飛んだ。
皆の輪の真ん中に、ちらりと紫色の頭が見えた。そこからは「久しぶりだな!」だとか「南沢くん第二ボタン誰にあげちゃったの!」だとかいろいろな言葉が聞こえてきた。「卒業おめでとう!」という言葉もだ。卒業することをあんなに嫌がっていたはずの彼らは平気でそんなことを言うのだ。皆は意外にも卒業することが嬉しいのかもしれない。どうやら本気で卒業するのが嫌だった奴は私だけのようだった。裏切られたような苦い気持ちが胸に広がる。だが、こんなもの見当違いもいいところである。彼らにとって卒業はただの通過点であり、私がこんなにも卒業に固執しているのは、それと同じようにあいつに対する執着心に溺れ苦しんでいるからであるのだろう。胸が燃えるように熱くなった。そのあいつがこの人の壁を越えると、そこに立って歩いて息をして生きているのだから。
歩みを進めていくうちに、だんだんと皆はそれぞれの帰る道へと消えていった。ひとりふたりとどんどんいなくなると、あんなにも大勢だった私達が両指でたりるくらいに少なくなっていった。
私が皆にさよならを告げ、帰る道には必然的にあいつの背中が先にあった。見晴らしの良いこの河川敷が私にとって世界の中心だった。今は、電車のけたたましく走り去る音、子供たちの戯れの声、そんな周りにあるはずの喧騒は何一つ聞こえなかった。
しかしなんとも言い知れぬ距離がそこにあった。あと数センチとも、何億光年先にいるとも思えるほどに不確かな私とあいつの距離だった。雷門の学ランより黒っぽいそれがその不安をさらに助長させた。
何か私に言うことはないのだろうか。その背中は何一つ語らない。
私には言いたいことがありすぎて心が潰れそうだ。たくさんの気持ちが飽和して爆発しそうだ。あんたはどうなんだ


「南沢」


世界の何もかもが止まったような気さえした。あいつの名前を口にした唇が苦い。しっかり発音できたのかも危うい。
紫の頭が振り返る映像がスローモーションで再生される。
南沢の目がまっすぐ私に向けられている。どうしてそんな目で私を見れるのだ。私は南沢の顔さえ直視できない。
早くこの怒りをぶちまけてしまいたい。この思いを打ち明けてしまいたい。それは一種の義務感にも似ていた。しかし、そんなもの吐露してしまえば、南沢と私の関係世界が一瞬にして崩れ去るような気がした。私は臆病な奴だった。今にも巨大なフラストレーションに押し潰されそうだった。


「泣くな」


死んだ言の葉は涙となって頬に流れ落ちていた。
あいつの声帯が震えて、なつかしく私の鼓膜まで届いてきた。その声はすこしも変わっておらず、私の心の壁をわずかに溶かした。
南沢は私の手首を掴み早足で歩き出した。手首が焼けるように熱い。私は左手で目元を覆いながら、南沢の力強い動力に従って必死に足を動かした。路地裏に入り町からはどんどん離れていく。緑生い茂る道を通り抜け石段を上ると少し色褪せた鳥居がそこに堂々と立っていた。なぜだろう、不思議と安心感はあった。いつまでも止まらないように感じた嗚咽が和らいで涙が乾いていく。そうだ、ここは


「覚えてるか」
「あんたこそ」
「おいおい、誰が連れてきてやったんだ?誰が」


いつかの夏祭りの日にきた神社だ。
相変わらずの口調の南沢は私の手首から手を離すと、前髪をかきあげた。額は少しばかり汗に濡れていた。
私はあの夏の日の南沢を思い出した。
それは一年生のころだった。夏祭りの人ごみの中で友人達とはぐれた私は、出店の立ち並ぶ混雑した通りを抜けて、閑散とした道に心細げに立っていた。あのころはまだ携帯電話というものを持っておらず友人達と連絡をとる術がなかった。途方にくれていると誰かに肩を叩かれた。おそるおそる振り返ると同じクラスの南沢がいたというわけだ。そのころの南沢と私の関係はというと、ただのクラスメイトでしかなかった。しかし、いつもの制服ではなく、紺色の渋い浴衣を着ていたから、その姿を私は淡く覚えている。かっこいいと思ったのがそれが始めてだった。南沢はまさにさきほどのように強引に私の手首を掴みどこかへと足早に私を引っ張っていくのだった。そして着いたのが、ここの神社。石段の最上部に座り遠のいたざわめきを背に南沢と二人で花火を見た。どうしてそんなことになったのか、今考えてもよくわからないが、成り行きという名の運命の巡りあわせだっただろうと私は思っている。その時交わした他愛の無い会話も今となっては宝物だ。しばらくして、友人達がやって来て私は無事再会できた。南沢は私が友人達に囲まれている間か、その前か、知らぬ間にどこかに消えていた。
その日からはサッカーをしている姿だとか、授業中に頬杖ついているときだとか、廊下ですれ違ったときだとか、まっすぐ地に足をつけて立っている姿だとか、近くで息遣いが聞こえたときだとか、私の隣で目を細めて笑っている姿だとか、とにかく南沢の何もかもがかっこいいと思い始めていったのだ。どうやらこれが恋らしいと頭の中の南沢を思うスペースが急激に膨張していく中で実感した。
あの時なんでどこかに行ってしまったのかと聞くと南沢はいつもうやむやにして話をそらした。だから何か事情があるのかと思い私も聞かないようにしていたが、頭の中ではしっかりと私を助けてくれた南沢のことをいつも思っていた。
だからこそ、あのいきなりすぎた転校は私の心に大きな傷をつくった。祭りの翌日、南沢はいつもの席に座っていた。南沢が大切な人のひとりに変わっていく最中、ある日南沢はなにも言わずに消えたのだ。
境内に入ると空気が変わった気がした。穏やかに時が流れ、私と南沢の距離が縮まった気がした。それがたまらなく嬉しくて鼻の奥がつうんと痛くなった。また泣きそうだ。ぐっと堪えて目頭までに留めてやった。
南沢は本殿の前の数段ほどある石段に腰を下ろした。私も少し距離をあけ隣に座った。境内には私と南沢の二人だけしかいない。あまりの静けさに、この世に私と南沢の二人だけしかいないのかと錯覚してしまうほどだった。それが錯覚というよりは理想なのだろうか、と思い至った時にはとうとう私は自分さえもが怖くなった。果たして南沢はこの愛を受け止めきれるのだろうか。私は膝を抱いて俯きかげんで南沢の横顔をちらりと見た。
そして、募る思いをぐっと堪えて、全てを覚られないよう事も無げに私は口を開いた。


「どうして帰ってきたの」


南沢はほんの一瞬、目を見開き戸惑いの表情を見せたが、すぐに「雷門サッカー部の奴等にあいさつしたくてな」と目を細めた。そして南沢の口から出てきたのは、サッカー部の近況や後輩の成長、同学年と感慨に浸ったことだった。
私のことなどその口から語られることはない。私の胸はひどく凍てつき痛みに震えていた。私は曖昧に相づちしながら、ひたすらに胸の内を隠した。今自分がどんな顔をしているか想像もしたくないほどに、きっとひどい顔をしているだろう。
横から渇いた笑い声がした。心をやんわりとろかすような紛れもない南沢の声だった。


「ていうか、なんだよ。その帰ってきてほしくなかったみたいな言い方は」


刺々しく言いながらも笑っている。南沢の笑顔につられて笑ってみるものの、当然ひきつってまた泣きそうになった。
帰ってきてほしくなかったわけがない。ずっと、戻ってきてほしかった。せめて、卒業する前までには。だが、それは叶わなかった。
しばらくの静寂の後、南沢は少し困った顔をして「おーい、また泣くんじゃねえぞ〜」とおどけて言った。優しい南沢はなんだか気持ちが悪かった。でもここで優しくされなかったら、生きてなかったかも。あのひどく苦しかった胸が、きつく縛られていた紐をとくかのごとく、安らいでいるのだ。私の心がほんのり熱を取り戻していった。
私はきゅっと唇を噛んだ。そうして南沢の方をちらりと見た。どくん、と心臓が大きく唸り出すのがわかった。


「南沢が帰ってきてくれるって今日まで信じてた。今、隣にいてくれることが奇跡だって思ってる。でも、私は南沢と一緒に卒業したかったんだよ」


南沢が涙で滲んで見えない。
南沢にはこの気持ちがわかるだろうか。


「南沢の頭の中に私は存在した?」


本当の気持ちが口をついて出た時、南沢は声を張り上げ言った。


「名字名前!」


何故名前を呼ばれたのかわからず、ぼんやりした視界と思考の中で戸惑う私に南沢は囁くように言うのだった。


「もう一回、俺らだけで卒業式挙げようぜ」


その言葉で私の心は一気に晴れた気がした。どんよりとした鉛色の雲がさわやかな青天に様変わりした。


「でもいったいどうやって」


にわかに声が弾んでいた。目尻が下がって涙が零れたが、それも心なしか温かかった。
南沢はすっくと立ち上がり、石段を数歩上り賽銭箱の前に立った。そうして再度いうのだ。


「名字名前!」


今度は、その瞬間に私も「はい!」と返事をして立ち上がった。そして南沢校長の前に胸を張ってまっすぐ立った。戻ってきてから初めて南沢の目をしっかりと見た。これだ。この吸い込まれそうな目。私の胸が融解されるような懐かしさだった。南沢は何かを持っているような手つきで私に両手をつきだした。でも、私には確と見える。真っ白い卒業証書が。私はそれをゆっくりとそして力強く受け取った。それから一歩下がり、深々と頭を垂れた。脳内では南沢と私を軸にした三年間の走馬灯が駆け巡っていた。顔を上げたときには、すっきりとさわやかな気持ちで心は満たされていた。嗚呼、私の思いは報われたのだ。
嬉しさのあまり、またもや涙が込み上げてきた。つう、と頬に伝うような涙でなく、どばどばと流れるほど、わんわん泣いた。「おいおい」と南沢が困った声をあげた。なんだか南沢の声が湿り気を帯びていたような気がする。いつもより鼻声だ。


「お前が校長役やってくんなきゃ俺が卒業できないだろ」


ハッとした。その時ばかりは涙が塞き止められた。
南沢も私と卒業したかったんだ。
私は二三度袖口で目元を拭いた。そして、賽銭箱の前でしゃんと胸を張った。


「南沢篤志!」


涙声が境内に轟いた。


「はい!」


南沢の凛とした声が木霊した。
私は南沢に卒業証書を渡した。その時、南沢は私の手に、何かを握らせた。小さくてまるいなにかだった。南沢がずっと握っていたせいか、温かい。なんだろう、これ。
南沢は御辞儀をした後、人一倍大人びた雰囲気を持つ彼が見違えるようなほどの、少年らしい笑顔を見せた。「手、ひらいてみろよ」そう言われて私はぎゅっと握られた掌をじんわりとひらいていった。それには、厳格な校長を演じていた私も思わず笑みが零れた。


「第二ボタンってやつ」


南沢は白い歯を零して笑った。私はやっと心から笑えた。私と南沢は、卒業を惜しむ二人の生徒になれた。悲しいのに嬉しい。その切ない甘美に私は酔いしれた。なんて幸せなことなのだろう。

帰り道の途中、私達は神社の桜が咲く頃また会おうと約束した。そのふたつ背中を三月の疾風が貫いた。私はその通り過ぎる風に瞬く光を見た。それは、私と南沢の希望の光だった。









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