「俺さ、一番の愛情表現って食べることだと思うんだよね」


ふとした一言だった。ヒロトの横顔は幸せに満ち満ちていた。
お日さま園の縁側に座っていた私達は顔を見合わせる。ヒロトはにこりと微笑んだ。私にはヒロトの笑顔に何か計り知れないものが潜んでいるように感じられた。しかし今は気にしないふりをした。


「どういうこと?可愛いから名前を食べちゃうぞーみたいな?」
「自分で言うそれ?まあ可愛いけどさ」
「やめてよ、照れる」
「・・・・・・・・・」


ヒロトに呆れられるというのはなかなか珍しい。少し恥ずかしくなる。私はうつむいて二つ並んでいる自分の足を眺めた。サンダルから覗く足の甲に赤くポツンと蚊にさされがあった。夏も終わりだというのに蚊は未だ健在だ。


「ねぇ名前、名前のこと食べていい?」
「ヒロトにならいいかもね」


冗談めいて言ったにも関わらず、ヒロトは間髪入れずに私の肩口にかじりついてきた。痛みが衝撃となって身体中に走る。
反射的に手が出た。私はヒロトの頬にビンタを一発かましていた。正当防衛というやつだ。


「な、なにすんの!」
「ごめん」


私の左肩にはくっきりとした歯形があった。ヒロトの右頬も赤くなっていた。
二人ともども痛みを感じていることと思う。私の胸は痛んだ。ヒロトはどうなんだ、と思いヒロトの目を見た。その目はゆらゆら泳いでいて慌てていた。悪気が全くないわけではないとわかって安堵した。


「本当にごめん」


ヒロトは申し訳なさそうに言う。やはり悪気はあったようだ。なら噛まなきゃよかったのに、と心の中でヒロトを責めた。というより、なんで噛んだんだ。食べたいってエロい意味じゃなくて、本当の意味の食べたいってことなのだろうか。いや、それはないだろう。


「名前を痛くしちゃだめだよね」


そうだ。痛いのはだめだ、嫌いだ。好きな人なんて一部の特殊な人達だけだ。
ヒロトはまだ痛みの引いていない私の肩の歯形を指でなぞった。「痛かったよね」なんて言って悲しそうにその歯形を見つめていた。まるで他人事である。頭にきたが、「お前がつけたんだぞコノヤロウ」とは言えなかった。謎の威圧感が今日のヒロトにはあった。


「ごめんね」


耳元でそんなか細い声が聞こえて、それから肩にぬるりとした感触がした。生暖かく湿っている。ヒロトが私の肩の歯形を舐めていたのだ。傷を癒やしているつもりなんだろうけど、それはまるで毛繕いをする猫のようだった。その舌の赤に惑わされ、私はただただ私の肩をペロペロ舐めるヒロトを見ていた。
ヒロトの腕が私の右肩に回り肩を抱かれた時には、完全に私はヒロトの掌中にあった。されるがままに、目を瞑って左肩に感じるなんとも言えぬくすぐったさに耐えていた。
しかし、さりげなくヒロトが私のオレンジ色したキャミソールの肩紐を、するりとずらし落としたのには、流石の私も悲鳴を上げた。あまりのことに、結構大きな声を発してしまった。私はヒロトの手をすぐさま払いのけて、そそくさと下ろされた肩紐を直した。
ヒロトは目を丸くして驚いていた。驚いたのはこっちだ、と言ってやりたい。と言ってもやはりそんな勇気は出ないので、ヒロトに抗議の眼差しを送った。
するとどうだ。今度はヒロトが私に抱きついてきた。今日のヒロトは何をしでかすか予測不能である。恐ろしいったらない。「どうしたの」とできるだけ優しい声で問うと「嫌いにならないで」とこれまた情けない声で応えられた。その言葉に胸の奥がなんだかしめつけられたのを感じながら「嫌いになんかなるわけないよ」と言ってヒロトの背中をポンポン叩いた。ヒロトは安心したように「よかった」と小さく囁くような声で言うのだった。そうして私の首筋に顔を埋め、ぎゅっと力を込めて私を抱きしめた。首筋にかかる規則的な息はなんともこそばゆく、身体中があつくなった。ヒロトの一連の行為と残暑が相まって汗が肌にはりついていた。
暑いから離れてほしい、と言えたらどんなにいいか。もう腹を括って言ってしまおうかと思う自分もいた。けれどもヒロトのつむじを見たら、なぜかそれにいとおしさとせつなさを感じて、私は無意識の内にヒロトの頭を撫でていた。ヒロトの髪はとてもやわらかかった。
その直後、後方からものすごい足音が聞こえた。何かと思い振り返ると、部屋の襖がまるでゴングのような音を立てて思い切り開けられた。そこに立っていたのは晴矢と風介だった。


「大丈夫か名前!ってヒロトといちゃついてるだけかよ!」
「ということは原因はヒロトというわけか」
「そ、そうか!ヒロト!てめえ名前に何したんだ!」


どうやら、晴矢と風介の二人は先程の私の悲鳴を聞きつけてやってきたようだった。依然として私にすがりついているヒロトが気の毒に思えて私は口からでまかせを言った。


「ちがうちがう、さっきここらへんにムカデが出たんだよ」
「なんだ、そんなことであんなでっけー悲鳴あげんじゃねーよ!心配して損した」


口を尖らせて腕を組んだ晴矢の肩を風介が叩いた。そして諭すように「まあ、そうかっかするな」と言った。何秒か後に機嫌を直した晴矢は「じゃあ、いっしょにサッカーしたら許してやってもいいぜ!」とニッと笑い、風介とボールを連れて去っていった。
きっと庭で待っているだろう。私はヒロトに「行こ」と促した。顔を上げたヒロトは「ありがとう」と目を伏せて言った。何のことやらと戸惑ったが、すぐに私がヒロトを擁護したことだとわかって、「べつにいいよ」と言った。
ヒロトが離れようとしている時に、ちょうど首筋に一筋の汗が伝った。その時、ヒロトの目の色が変わったのを私はこの目で確と見た。ヒロトはまた私の首筋に顔を埋めて、首筋に舌を這わせた。一瞬の出来事だったから、その感触を感じ取った後にはもう私の目の前にヒロトの笑みがあった。首筋に手を当ててみると汗とはちがうべたつきが確かに感じられた。


「やっぱり足りないよ」


そんな声が縁側の前に立ったヒロトの背中からしたような気がした。カナカナカナ・・・・・・、とヒグラシが切なげに鳴いていた。
私は呆然とその背中を見ていた。振り返ったヒロトの爛々とした瞳に私は恐怖を覚えた。


「はやく行こう」


私の手を引いたヒロトはいつもと変わらぬ笑顔だった。たった今感じていた恐怖もどこかに消えていた。あのただならぬ雰囲気のヒロトは忘れたことにしなくてはならない気が知らぬ間に私の中にあったようだった。
私はみんなとボールを追いかけながら、今日の記憶を無理にでも薄れさせていった。


それから一週間ほど経ったある日、ヒロトは自室に私を招いた。なにやら私にごはんを作ってくれたようで、「名前のためにステーキを焼いたんだ!」と目を輝かせながら言っていた。というわけで、今日のお昼はヒロト特製ランチ。
何故突然ごはんなんて作ってくれたんだろう?この間、テレビで料理のできる男はモテるとか言っていたからだろうか。でもヒロトにはあまりそういうミーハーなところはないと思っていたので、意外だった。というよりは、ただ素直にヒロトの私への好意と捉えた方が正しいだろう。そう、私はヒロトが私のために普段やらない料理をしてくれたことがとても嬉しかったのだった。照れつつもヒロトの部屋のドアを開ければ、香ばしいお肉の匂いがぷうんと薫ってきた。食欲がどんどん湧いてくるいい匂いだ。


「待ってたよ」


エプロン姿のヒロトがはやくおいでと手招きしている。小さな折り畳み式のテーブルには、お茶碗に盛られたほかほかのご飯と色とりどりの野菜サラダ(このプチトマトは先日お日さま園の畑で収穫したものだろう)が入った透明の小鉢があった。そして真っ白の丸い皿にはメインディッシュのステーキが、・・・・・・・・・。
私は確かにヒロトがステーキを焼いたと聞いた。しかしそれは、ステーキというにはいささか小さすぎるし薄すぎる。皿に乗っている肉はせいぜい焼肉二切れか三切れ分ほどの大きさだ。ポツン、と効果音が付きそうなくらい白い皿に対してそれは寂しげに見えた。
ヒロトは私を期待させるためにステーキだと豪語したのだろうか。一体それに何のメリットがあるのか。私を落胆させるだけである。そもそもヒロトはそういうことはしないし、嘘なんてつくものか。これはきっとヒロトの精一杯のステーキなんだ。そう思うと胸があたたかくなった。


「ありがとう」
「いいんだよ、お礼なんて。でも嬉しいな。俺、頑張ったから」


「さ、名前もこっちきて、座って」そう促したヒロトがポンポンと座布団の上を叩く。その時、初めてヒロトの腕に包帯が巻かれているのに気がついた。それは肘の少し上から15センチくらいに渡って窮屈そうに巻かれていた。


「どうしたの、それ。怪我?」
「うん。ちょっと。転んだ時に花壇に擦っちゃってさ」
「うわあ、痛そう・・・・・・。大丈夫なの?」
「こんなの全然痛くなかったよ。だから心配しないで」
「はやく治るといいね」


私にはとても軽いとは言えない怪我のように見えたが、ヒロトの元気そうな笑顔に私はほっと胸を撫で下ろした。
私は座布団の上に正座した。隣でヒロトも膝を正して正座している。座布団の上では正座が鉄板なのか、はたまた緊張しているのか。私は前者であるが、ヒロトはどちらであるだろう。
ヒロトは「はい」と私に紅い塗り箸を寄越した。いつも使っているものだ。私は感謝の気持ちを込めて手を合わせた。


「いただきます」
「めしあがれ」


私の手にある箸は早速ステーキへと向かった。箸で切ろうとしてみると、その肉はなかなか固く箸を弾き返されてしまった。仕方なく、ステーキをそのまま口に持っていった。そして、一口。
まったりとした旨味が口いっぱいにひろがる。その味わいに舌鼓を打っているとヒロトがすかさず言う。「美味しい?」「美味しいよ」私のその一言にヒロトの表情はぱあっと一気に明るくなって大きくガッツポーズをした。


「やった!」


子供のように喜ぶヒロトを横目で見ながら私の箸はどんどん進む。こんなヒロトはなかなかレアだな、と私も顔をほころばせる。
白いご飯とステーキの相性は最高だった。ちょうどステーキを食べ終えてしまった時だっただろうか、ヒロトがまたも声にならない声をあげてなにやら頬を高潮させて嬉しがっていた。その様子は恍惚ともいえるような姿だった。私としてはご飯のお供がいなくなってしまった悲しみで、どうにもヒロトのそのテンションについていけなかった。
シャキシャキとレタスをかじる。プチトマトをコロコロ口の中で転がしてプツンとかみくだく。
あと一口、このご飯を口にもっていって喉を通れば完食というところで、私はヒロトにあらぬ質問をしてしまった。いや、その時はただなんとなく気になっただけで、ごくごく一般的な質問であった。


「ねえ、これ何の肉だったの?」


すでに何もない白い皿を指さして私は言った。ひとまず私の見解をきいてもらうと、たぶん牛。見た目も硬さも焼肉のそれと似ていた。しかしながら、ほんの少しクセがあったような気がしたのだ。それは臭みというか酸味というか何とも形容しがたいものだったが、しっかりと味のアクセントにはなっていた。先ほど言ったように確かに美味しかった。もしかしたら、まだ私が食べたことのなかった羊とか鴨とかかもしれない。そんな好奇心に似たものもあって、訊いただけだ。ただそれだけのことだったはずなのに、ヒロトはどうしてか口を噤んでいる。早く牛とか豚とか鶏とか、一言だけ言えばいいはずなのに、右上の虚空を目を泳がしながら見ていた。
そんなヒロトを疑いの眼差しで見ないわけにはいかなかった。じっとヒロトの全体像を一通り舐めるように見回した。すると私は気づいてしまった。気づいてはいけないことに気がついてしまった。
私は隣のヒロトの真っ白い綺麗な膝に手のひらで静かに触れた。


「転んだら、ふつう、ここ擦りむくよね。なんで」


そこで口はヒロトの冷たい手のひらによって塞がれた。無傷の膝と不自然に傷を負った肘を交互に見つめて浮上してきた私の考察に蓋をするように。ヒロトの伏せられた目がこちらに向けられた時、ついにヒロトの口が開いた。ヒロトの目は、悲哀か焦燥か何かでひどく濡れ揺れていた。


「どうしてかな。適当にお茶濁せばそれで終わったのにね。名前に嘘は吐けなかったや。この肉、俺」



「この肉、俺」その言葉を私の脳が理解するまで、随分時間を要した。やっと脳がそれを認知すると、急激な吐き気が込み上げてきた。私はヒロトの手のひらなんかお構いなしに、両手をついてえずいた。畳の伊草が何か得体の知れないものに見えてくる。
人の肉を私は食べてしまったのだ。口に入れ味わいながら咀嚼して胃袋に入れたのだ。気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い。ひたすら胃袋の中に居座っているだろう物を吐瀉したい一心で私はえずいた。


「ごめんね、ごめんね。でも拒まないで。それ、やめてよ」


ヒロトは私の上下する背中を撫でて言う。涙声であった。
そして私をすくい上げるようにしてぎゅっと抱きしめるのだった。


「受け入れて、お願い」


濡れた睫毛と翡翠の瞳が私に迫る。そうして攀じのぼってくる嘔吐感を文字通り口止めした。その時、ヒロトへの怒りがおさまったような気がした。いや、最初からそんなものは抱いていなかったのかもしれない。だって、本気で怒っていたら、こんなキスだけで許そうとは思わないよ。ヒロトだけじゃなく、私も正気ではなかったのだろう。
おそるおそる唇と身体を離したヒロトに私は言う。


「だいじょうぶ。ちゃんと受け止めたから」


驚いたようなヒロトの瞬きがスローモーションで私の目に映る。瞬間、ヒロトの目からに溜まりに溜まった涙が零れた。その刹那、私はヒロトを自分が出せる精一杯の力で抱きとめた。耳元でヒロトの嗚咽が聞こえる。ヒロトは私の肩口をやんわりと濡らしていく。
私はヒロトの頭を成る丈優しく撫でながら、自らの思いをゆっくりと述懐していった。


「でも、ヒロトが痛いのもだめだよ。からだを故意に傷つけるなんて無意味だよ。もっと平和的に人を愛する方法があってもおかしくないよ。きっとあるから。ほら、さっきヒロトが私にしてくれたこと。それが、そうだよ」


ヒロトがこくりこくりと頷く。さらさらと赤い髪が揺れた。その時私の心はひどく安らいだ。
そして耳に唇が触れそうなほど近くで、ヒロトは私に言う。


「ごめんね、名前、ありがとう」


丸みを帯びた優しい、それでいて芯の強い声だった。またヒロトは少し申し訳なさそうにして「もう少しだけこうしてもらってていいかな」と囁いた。快諾して力強く抱きしめると、ヒロトは私の腕をそっと掴んだ。私はそれがとてもいとおしく感じてやまなかった。
私たちの愛のかたちは永遠に定まらず、日々そのかたちを変え、成長していくのだ。












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