うぐいすが鳴いていた。春の訪れを感じさせる声。
静寂の中でのその残響は不思議ともの悲しい気がした。うぐいすは一人で寂しくないのだろうか。大きな窓越しの世界に目をやって、この樹木のどこかにいるであろう、うぐいすに自分を重ね、思いを馳せた。すると、ザッと杪が揺れて羽音がしたかと思うと、うぐいすが二羽隣り合わせで飛んでいった。なんということだ。
私は今、うぐいすに負けたのだ。
というのも、せっかく久しぶりに遊びにきたというのに拓人にほったらかしにされているからだ。拓人は一人読書に耽りソファーに寝転がって活字を追うのに夢中になっている。なんと切ないことだろう。
今日は珍しく部活がないと聞きつけた日。そんな貴重な休日に半ば強引に約束を取りつけた私が全面的に悪いとは思っている。思ってはいるけれど、一緒にいたいのだ。うざったいことこの上ないだろう。しかしそれが女心というやつだ。
だからわかってはいても、ちょっかいを出さずにはいられなかった。私は一人掛けのソファーから立って、寝ながら読書に没頭する拓人のすぐ傍に駆け寄った。


「ねえ拓人、なに読んでるの?」
「若きウェルテルの悩み」
「面白い?」
「なかなか」


私の方には一度たりとも目もくれず、拓人はその本のページをめくった。
めげずに私は拓人と目線を合わせようとしゃがんだ。顔をずい、と近づけてみる。


「ねえ拓人、いっしょに」


おしゃべりでもしよう、という言葉は容易に遮られた。「すまないがこれを読むのに集中したい」ああそうですか、となげやりな気分になる。相まみえない拓人と私の視線に切なくなった。
しかたなく私は拓人の傍から離れ、そして立派なグランドピアノの前に立った。私が来る前に弾いていたのか、蓋が開いていた。人差し指で鍵盤に触れる。冷たいはずなのに、どこかあたたかく感じられるのはこれがきっと拓人がいつも弾いているピアノだからだろう。いいな、お前は拓人に構ってもらえて、なんてピアノにまで嫉妬する私はそろそろ本格的に末期である。
ポロンと鍵盤を押してみる。その重厚な感触と音は流石ニューヨークかどこかで購入したとかいういわゆる一級品といったところか。何気なく押したミの音が部屋に響き渡る。私が人差し指を鍵盤から離してもしばらくミは反響して余韻を残していた。
拓人の方を見るが、相変わらずだった。そんなにウェルなんとかってやつは面白いのだろうか。どうにかしてウェルなんとかに勝ちたかった私は無い知恵をふりしぼってその方法を探した。ピアノ椅子に座り腕を組んで考えを巡らせていると、ふとある子の顔が脳裏を過った。そうだ、そうしよう。その時私はウェルなんとかから拓人を勝ち取る方法を見つけた。それは少々、いや、だいぶ恥ずかしいことだが、腹をくくって言うしかない。これしか拓人の気をひくことはできないだろう。
私は拓人がちょうど上半身を起こしてテーブルに置いてあった紅茶の入ったカップに口をつけた瞬間、私の出せる限界のソプラノでそれを言った。


「しんさまぁ」
「ブフッ」


おかしなほどに拓人は紅茶を吹き出した。そして激しくむせていた。むせかえった衝撃でお腹の上に置かれていたウェルなんとかが無様に床に落ちる。そして口をパクパクとさせ、目をまんまるにして驚いている。視線は私に集中していた。
嬉しくなって私は椅子から立ち上がった。


「しんさま、今の茜ちゃんの真似なんだけど、似てた?」
「知るか」


冷たくあしらわれたが、少しも腹がたたない。単に私がマゾスティックであるというわけではなく、拓人の崩れた表情に恍惚にも似た感覚を感じていたからだ。むしろサディスティックな精神を胸に、拓人に近づいていく。


「ねえしんさま、あのねしんさま、私しんさまといっぱいおしゃべりしたいんだ」
「わかったから。その呼び方をやめろ」


拓人は目線を下へとそらして言った。その赤くなった頬を隠すように。男のくせに長い睫毛が頬に大きな影を落としていた。私がその頬を手のひらで覆い、革張りのソファに片膝をついた。よくできた顔だなぁ、なんて思いながらまじまじと拓人を見つめていたら、何を期待しているんだか、拓人は瞼をゆっくりと閉じた。その間際の強烈な熱視線が脳裏にこびりついたものの、そんな気などさらさらなかった私は拓人の柔らかい髪を撫で、両肩に手を置き耳元で囁いた。


「しんさま」


それだけ口にして、そっと拓人から離れた。拓人はとある場所一点にしか感覚が宿っていないのだろうか、全く気がついていない。きゅっと目を瞑って、ぐっと手を握って膝に置き身構えている。こみ上げてくる笑いを堪えながら私はそそくさと忍び足でピアノが置いてある方に行って椅子に座り、私が有する十本すべての指で鍵盤を思い切りたたいた。これでもかという轟音をかき鳴らせば、当然拓人は飛び起きないわけがなかった。拓人は状況がうまく飲み込めずに、呆然とした顔をして何秒間か停止した後、すべてを察したように肩を落とし頭を垂れてうなだれていた。俯いたその顔はきっと真っ赤に染まっていることだろう。
私はその様子がとてもとても可笑しくてとうとう大声をあげて笑い出した。拓人に一矢報いたのとただただ拓人が滑稽で可愛かったのとで、随分と気持ちよく笑っていた。
そんな実に愉快な時に水を差したのは、他でもない拓人だった。後ろから両肩を強く掴まれて振り向くと、拓人の口元は背筋が凍りつくような冷たい微笑みを湛えていた。それには私のゆるんでいた表情も一気に引きつった。


「た、拓人さん・・・・・・」


許しを請うように声をしぼり出すも、拓人は私の肩を半ば強引に引き寄せて耳元で囁いた。


「なんだ?もうしんさまとは呼んでくれないのか?」


骨の髄まで響くような低音に震えて、耳が熱くなる。心臓はやけに速く、うるさく聞こえてきた。シニカルに笑う拓人は何も言えない私を見て心底満悦そうだった。
右頬で揺れる拓人の柔らかな髪が首筋にあたってくすぐったい。堪らず、ぐい、と拓人の頬を手のひらで押しのけると、ひしゃげたほっぺたのせいで崩れた拓人の綺麗な顔に思わず私はプッと吹き出した。それが気に入らなかったのだろう拓人はムッとした顔をした。
いい気味だ、と内心ほくそ笑んでいると、瞬間首根に衝撃が走った。拓人の冷たい手が私の首根っこを掴んだのだ。「ひゃあ」と反射的に声をあげてしまった事を悔やみながら拓人の手を払う。予想通り、拓人は嬉しそうに嫌な含み笑いをしていた。そのせいで相当頭に血が上った私は思わず口を滑らしてしまった。


「やめてよ、もう、あっちいけ!」
「了解」
「ちょ、ちょっと待った!ちがうちがう、まちがえた!今の撤回!」


一目散に去ろうとした拓人の手首を掴む。しかし、さっと拓人に払われてしまった。チクリと胸が痛む。拓人は私の方から離れようと踵を返す。その歩みはウェルなんとかとやらの方を向いていた。ウェルなんとかになんて負けるのは嫌だ。そんな悲しい結末、嫌だ。その一心で私はまたあの奥の手を使った。


「いかないで!しんさま!」


幸い、拓人の歩みはぴたり止まる。しかし呆れ顔で振り向いたのを見るとしんさま効果もだんだん薄れていっているようだ。けれども私は両手を広げて言う。


「しんさま、おいで!」


私のめいっぱいのニコニコ笑顔とは対照的に、拓人は心底呆れ果てたようにため息なんかを吐いていた。


「しんさま、はやくー!」
「モノマネのクオリティさがってるぞ」


はいはい、と幼い子をあやすように拓人は私の背中に手をまわしてぽんぽんとたたいた。拓人の首筋からか、ふんわりゆれる髪からか、いい匂いがした。私も拓人をぎゅーっと思う存分抱きしめようかと思ったら、早々と拓人は私からはなれてしまった。力づくで引き寄せようとも、拓人は私の肩をぐっと押して、リーチの差で届かない。私は腕をじたばたさせる。しかしどうしたって届きはしないので妥協して拓人の腕にしがみついた。束の間の幸せを逃がしたくなかったのだ。拓人の腕に頬擦りすると白いシャツからせっけんみたいないい匂いがした。
拓人はそんな私をなんだか呆れをも通り越して蔑んだような目で見ていた。


「お前なぁ・・・・・・」


パッと腕が離され頭がガクンと落ちかけた。「しんさまのいじわる」ぼそり呟くとスッと拓人の手が伸びてきた。私の両頬にいつのまにかあたたまった手が充てられている。拓人の顔も近づいてきている。指先に触れられた耳が熱い。なになにどうしたの。言う前に、ほっぺたをぐるぐるとこねくりまわされた。私が少し想像してしまったような甘いロマンスはこれっぽっちもなかった。手を止めた拓人を睨む。ぶっさいくな顔を晒したことが何よりも恥ずかしかった。それなのに拓人はしみじみとした響きで言うのだった。


「可愛い」


優しく目を細め眉を下げささやかに笑っている。あたたかな光に包まれてるような自然な笑顔。
この笑顔にいったい何人もの女の子がやられてきたのだろう。まぎれもなく私もそのひとりだ。さっきから胸の高鳴りが騒がしい。
私が何も言わない、言えない状況を見て
、きょとんとした表情は自分がどれだけ魅力あふれる人なのか全くわかっていないのを物語っている。しかし、やがて私ほどではないのだろうけれど、頬を赤くさせたのを見ると、どうやら自分の発言には恥じらいを覚えたようだ。
しばらくの間沈黙が流れる。拓人の手は私の頬を包んだままだ。それこそキスでもすればいいのにと思うような距離で見つめあう。そんな空気を掻き消したかったのだろうか、ただの思いつきなのだろうか、拓人はするりと私の肩に手を置いて、恥ずかしそうに口を開いた。しかしながら、その発言は私に多大なる衝撃を与えることになる。


「そうだ。名前、ピアノ弾いてみてくれよ」
「えっ、でもしんさまのほうがどう考えてもうまいのに」
「上手いとか下手じゃないんだ。俺はただ、名前の弾くピアノが聴いてみたいだけだ」
「う、うーん」
「弾いてくれたら、そうだな・・・・・・。名前がしたいこと、何でも付き合うぞ」
「さあ!はじまりました!名字名前のスペシャルリサイタル〜!」


「はい、拍手〜!」拓人は調子の良い私に呆れながらもちょっぴり嬉しそうな顔で手をたたいてくれていた。よし、と気合いが入る。私の全力のピアノを聴け、拓人!私には天国が待っている!
黒い鍵盤に中指を置き、曲を弾き始める。私の唯一弾ける曲、『ねこふんじゃった』だ。拓人への思いをピアノにぶつける。最後の音をたたいた勢いで左手を振り上げた。「イェーイ!」拓人にハイタッチを求めて、パチンと手のひらをたたきあった。「どうだった!?」と訊くと「よかったよ」と言ってほほえみながら拓人は拍手してくれている。その時私の胸は洗われたような爽やかな気持ちで満たされた。褒められて純粋に嬉しかった。
笑顔のままの私とは対照的に、拓人のあたたかかった笑顔はどんどんと青ざめていった。どうしたのだろう、と思ったが、拓人との制約を思い出し納得した。さて、どんなふうに料理してやろうかしら、と脅かすと、面白いくらいに拓人は怯えた。
私はわざと仰々しく口を開いて言ってみせた。


「じゃあ、今度はしんさまがピアノ弾いてよ」


私の言葉に拍子抜けして気の抜けた顔の拓人。ほっと一呼吸おいて、だんだん顔色が正常に戻り、話し出した。


「そんなことでいいのか?・・・・・・ベッドに連行されるかと覚悟してたよ」
「ばっか!しないよ!」


椅子から転げ落ちそうになった。全く何考えているんだか、今度は私が呆れた。というか、そういうふうに思われているのだとわかって軽くショックだった。そりゃあ、拓人のすべてをぎゅっと抱きしめたいだとかは思う。だけど何もそこまでは考えていなかった。こいつ、綺麗な顔してしっかり男の子だ。
むっとした顔で拓人のほうに目をやると、照れくさそうに頬をかいた。そしてひきつり気味な無理やり笑顔で言った。
その笑顔に免じて許すとしよう。


「何か弾いてほしい曲はあるか?」
「んー、しんさまが弾いてくれるんならなんでもいいや」


「さ、しんさま。お願いします!」椅子から立ち、拓人に頭を下げる。拓人は「変にかしこまるなよ。緊張するから」と言って座った。そしてまた口をモゴモゴさせて言うのだった。


「それと・・・・・・、いいかげん、しんさまと呼ぶのをよせ。飽きないか?」
「ぜーんぜん!しんさまがんばって!」


拓人は納得いかんと言わんばかりに口をへの字に曲げて私をにらむ。が、私があっけらかんとした態度でいる(ただただ楽しみでわくわくしていただけ)と、拓人は大きなため息をひとつ吐いた。
今思えばそれはちんけなため息なんかではなく、心を落ち着かせるための深呼吸だったのかもしれない。
拓人が鍵盤に指をゆっくりとのせたかと思うと、一気に指先は、まるで別の生き物かとみまごうほどに躍動した。
私の心は拓人の奏でる音色にのまれた。自然と瞼は閉じられ、胸の位置で握っていた手もすっと下ろされた。魂まで拓人の演奏が響いてくる。激しく、悲しげな音色。優しく、切なげな音色。それぞれに想いを馳せる。時に、海の中できれいな熱帯魚とお喋りしたり、緑豊かな丘の上にたつ二階建てのお家の窓から朝日を眺めたり、時に、愛する人と離ればなれになったような絶望を味わったりした。そのビジョンには、いつも拓人がいた。そして最後には拓人と手を繋いでいるのだった。
演奏が終わってもしばらく心は拓人とピアノの世界の中にいた。拓人に呼びかけられ、ようやく目を明け意識を現実世界に戻した。
私は感動のあまり口をぱくつかせて(あの時の熱帯魚のように)自分でもよくわからないことを口走っていた。


「拓人と離れるなんてやだよ!」


「はぁ?」と拓人がすっとんきょうな声をあげたのも頷ける。恥ずかしくなって、「ごめん、今の聞かなかったことにして」と咳払いした。そしておかしなタイミングで拍手し出す。拓人は訝しげな顔をしていたが私には不思議と微笑んでいるように見えた。


「と、とにかく、私は感動したの!しさまが弾くピアノに心踊らされたの!」
私の熱にほだされたのか拓人も白い歯を溢した。


「そうか、そう言ってくれると俺も嬉しいよ。演奏者として本望だ」


「ありがとう」と目を優しく細めた。そのあたたかな表情になんだかノスタルジーを感じた私だった。
拓人は何か思いついたのだろうか、一瞬目をはっとしばたたかせた。


「名前に聞いてほしい曲がある」


私が何?と問おうとするより早く、拓人はおもむろに、そしてしなやかに鍵盤に出力していく。可愛らしい音色、そしてどこかなつかしい音色。目を閉じると、幼い頃の私と拓人がぼんやりと見えてきた。二人は何かして遊んでいる。原っぱでおいかけっこ?拓人の家のお庭かな。あ、私が転んだ。泣いている。拓人が私の頭を撫でて慰めている。あ、私が笑った。拓人も笑った。二人はずっと笑っていた。


「覚えているか?この曲」
「うん!拓人が、じゃない、しんさまがよく弾いてた曲、私によく聞かせてくれてた曲」
「わざわざ言い直すなよ」


「この曲好きだった」口に出してから気づいた、というか思ったが、私は拓人の弾くこの曲が好きだったのか、この曲を弾く拓人が好きだったのか。当時の私にはこの大きな違いは理解し難いだろう。今の私は後者の考えに縛られて、頬がとても熱いよ。私の目に映された拓人の笑顔がそれに追い討ちをかける。
幼い頃の純粋な記憶がとても綺麗に感じられ、また余計恥ずかしくなる。
さりげなく窓の方に目をやって、春の陽射しを浴びて頬の熱が何なのかわからないようにした。


「昔は私、しんさまのことお兄ちゃんだと思ってたからね、本当に」
「あぁ、名前は本当の妹みたいな存在だった。泣き虫で、でも同じくらいよく笑う子だった。そうだ、さっきお前の顔見てたら、昔のことを思い出したんだよ。それでこの曲を弾いたんだ」
「そうだったんだ」


拓人も、あの瞬間思い出していたのか。その言い知れぬ幸せに私の胸の奥は切なさを覚えるのだった。そんな時に、拓人がぼそり呟いた。


「今は、違うよな?」


私と拓人、二人きりの部屋にある音は風に揺れる木々のざわめきくらいだ。否、今は少なくとも私は自分の心臓の鼓動音ですべて掻き消されているが。拓人はどうだろう?私と同じ二人だけの世界にいるのだろうか。


「もちろん!大好きだよ、しんさまのこと」
「だから、しんさまと呼ぶなと何度言えば・・・」
「しんさま大好き!」
「・・・もう知らん」


あんなにいい雰囲気だったのに、何をどう間違えたらこうなるのだろう。拓人は椅子から立ち、あの憎きウェルなんとかのもとに行くではないか。惨めに床に這いつくばっていればいいものを!


「ごめん!!拓人〜!もう言わないからー!!」


拓人が例の文庫本を拾おうとしゃがみこんだ背中に、私は勢いよくしがみついて許しを乞うた。「許してよ〜!!」うわーん、なんて嘘泣きに拓人は溜め息吐いた。その背中が揺れる。拓人はこちらに目を遣り、やれやれとでも言いたげに呆れていた。「ごめん」しげしげと見下されて耐えられなった私は小さく言った。「許して」ついに拓人の目が見られなくなって目線を下ろす。拓人の首にまわしていた手も下ろした。へたりこんで、惨めに床とにらみあった。
すると、拓人の両膝がこちらに向いた。周りの空気が揺れて、ふわりいい匂いがした。拓人の匂い。
瞬間、私の乾いた唇に熱が灯った。一瞬の出来事だった。立ち上がった拓人の手にはウェルなんとかがあった。しかし、負けた気はしなかった。自然と笑みが溢れた。見上げると、拓人の照れくさそうな横顔があった。頬を赤に染め、目を反らしながら言った。


「これでおあいこな」





薄ぼんやりした視界の中で、窓から射し込む赤い光を感知した。外はすっかり夕暮れであった。どうやら私は読書する拓人を見つめているうちに微睡んでしまったらしい。このソファがふかふかで気持ちいいというのもあるけれど。
なんだかもったいなさを感じつつ、目をこすった。もっと一緒にいたかったな。あれ、拓人がいない。さっきまで拓人が寝そべっていたソファには、誰もいない。慌てて立とうと腰を上げると、毛布がかかっているのに気がついた。たぶん、拓人がかけてくれたんだろう。優しいなあ、なんて胸を温かくしていると、何者かによって背後から目隠しされた。手の温度でまた眠りに落ちてしまいそうだ。


「だーれだ」
「霧野くん」
「ハァッ!?なんで霧野なんだよ!?」
「夢にでてきたの」


目元の手が震えていた。優しくされるといじめたくなってしまうのは私の悪いくせだ。


「嘘だよ。拓人」


振り返っていたずらっぽく笑うと、拓人は脹れた表情をしていたが、まもなくして笑った。


「送るよ」


私は差し出された手をぎゅっと握って、頷いた。拓人の手は差し込む夕陽の光よりもあたたかいように感じた。
帰り道で私は梅が咲いているのを見かけて、はしゃいでいると、どこからかうぐいすの声が聞こえた。昼前に見たカップルうぐいすを思い出して、なんとなく勝ち誇った気がした私はまたいい気になって浮かれていた。不意に繋がれた手がぎゅっと力が込められたのを感じたと思ったら、拓人がなにやら得意気に、でもなんだか嬉しそうに言うのだ。


「うぐいすは春告げ鳥、梅は春告げ草っていうんだぞ」


私はいつもだったら薀蓄なんかにはうんざりするはずだった。けれど、その時はすごく納得して、へえ、なんて感嘆したのだった。それだけじゃない。漠然とした幸福感が私達を包んでいた。


今日は本当にいい日だった、とベッドの中でしみじみと思った。好きな人と向かえる春を楽しみに、その光景を思い浮かべながら、目を閉じた。









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