シャッフル! | ナノ




「お久しぶりです。真黒さん」

それはまだまだ春というには寒いと感じる、少しだけ寂しい季節のこと。春日晴日は、幾らかぶりにここーーー軍艦塔(ゴーストバベル)へと訪れていた。もちろん、もうすぐここを去ることになる主、黒神真黒に会うために。
『久しぶりに晴日ちゃんに会いたいな』

そんな風に言われてしまって断れる晴日ではない。最近は引き継ぎ資料の作成などバタバタすることも多く、ろくに談笑すらしていない恩人にこんなことを言われて、どうして断ろうか。
とにもかくにも、もうすぐ堅苦しい役職名のつかなくなる春日晴日はぎしぎしと軋む廊下を踏みしめて、その朽ちた扉と不釣り合いな空間へと足を踏み入れた。

「久しぶりだね、晴日ちゃん。こっちにでもかけててよ」

そこにいるのは、記憶と何も違わない、黒神真黒。男の癖に美しいとしか形容しようのない容姿に、パンクロックを連想させる程度のシンプルな服装。人の良さそうな笑み。
晴日は少しだけ、息をのんだ。
真黒はいつも、晴日をここへ招くときは二人きりだった。隠居していたとはいえそれなりに来客があった時期も、誰かとこの部屋で遭遇することは、無かったのだ。
それがどうした。今日は、いるではないか。
自分と真黒以外の、他人が。

「…いえ。遠慮しときます。お客さん、いるみたいだし」
「はは、つれないね。彼はそんなことを気にしないし―――それに、僕の友人を紹介させてくれよ」
「真黒さん…友達いたんですね!」
「その驚き!みたいな顔やめてくれないかな?というか、僕は君のことも友人だと思ってるんだけど……それも思い過ごしかい?晴日ちゃん」
「………」

思った以上に忙しいのかと思えば、どうやら真黒は二人を引き合わせたかったらしい。
しかし、どうも恥ずかしいことをさらっといってくれるものだと思う。絵になっているから違和感は感じないし、仰々しい言い回しにはすっかり慣れたつもりでいたが、それでもどこかむず痒くて晴日は居心地が悪かった。
密集したまつげに縁取られた切れ長の瞳が寄越す視線が、いつになく晴日を見透すような色を滲ませているからか。

「ほーら!宗像くんも黙ってないで挨拶してよ!」
「…よく言うよ。今の今まで意図的に彼女と僕を引き合わせないようにしていたくせに」
「やだなあ。人聞きの悪い。誰だって、わざわざ火に油を注ごうなんて思わないだろ」
「…。宗像形っていうんだ、よろしく」
真黒に引っ張られる形で晴日の前に立たされた男は、表情筋が仕事を放棄したかのような無表情でそっけなかったが、背筋ののびたしゃんとした立ち姿は割りとまともな分類の人間に見えた。
見えるだけで、実のところ彼は優しすぎるくらい恐ろしい異常性を持っているのだが、それはまた別のはなし。

「春日晴日です。ご卒業おめでとうございます」
「ありがとう。もう少し学生をしていたかった気もするけれど、来月からは社会人として頑張るよ」
「就職されるんですね」
「家業を継ぐんだ」

そう言えば、名字は違うものの一時期飼育委員会を手伝っていた鰐塚の兄らしい事を思いだし、晴日は結構大きそうな家だなあ、とぼんやり考える。家業。自分の家はもちろんそんなことはないし、隣でニタニタしている男も色々と自由奔放なのでしっくりこないのだ。
等と些か失礼なことを思っていたら真黒が見透かしたように「そう言えば」とあからさまに話題転換を持ち掛ける。これが、本命の。

「晴日ちゃん、百輪走辞退したんだって?」
「流石耳が早いですね」
「僕も宗像くんも出場するんだけど、どうしてまた?」
「……単刀直入にいうと、下らないプライドですよ。わたし、相当負けず嫌いみたい。負け戦に自ら飛び込む勇気がないだけです」
「まあ、めだかちゃんと拳闘して勝てるなんて、限度を超えた見当違いも甚だしい。だから君の言動は理解できるけど、回答を急がなくたっていいんじゃないかい?」
「検討してみます、としか。ここでわたしがうんと返答しても、本末転倒でしょ?」

にこり。
晴日が笑みを返すと、真黒は苦笑いしながらため息をついた。降参、の意味らしい。口八丁で晴日を言いくるめるなど真黒にとっては赤子の手を捻るのとそう変わらないだろうが、果たしてそれに意味があるのかと問われれば、彼は追及など出来るはずもなく。
一方の晴日は真黒ほどの人物を言いくるめた優越感と、未知のものへ挑む気概の無い腑抜けた自分への劣等感のない交ぜになった感情から目を背けるように下を向いた。もう必要のなくなった、ぼろぼろのゴム長靴がこちらを見ていた。
結局のところ、自分はガキなのだ。

と、その時、今までほとんど会話に入ってこなかった宗像が、動いた。音もなく近づいて、円を描くような流れるような動作で優雅に晴日へと手を伸ばす。そのまま指先が、一つに纏めた髪を掻き分けて首筋へとたどり着く。少しも表情を変えずに、視界いっぱいに近づいてくる顔。
冷たい他人の指の感覚と、紙らしき固い感触に、晴日は反射的に身をよじろうとすれば、それすら反対の手に肩を掴まれ止められる。

「そのまま動かないで」
「ちょ、」
「……………………………………………………はい、これで少しは気分が良くなるんじゃないかな。汚い場所はそれだけ悪い気も溜まりやすい」

10秒ほどだろうか。何やらぶつぶつと日本語でない言語を呟いて離れていく宗像の右手の人差し指と中指の間に挟まれていたのはお札だった。墨で滑らかに描かれたそれは漢字のように見えるが常用漢字ではないのだろう。全く読めず、何かがのたくったような薄い灰色の濃淡はかなりおどろおどろしい。
目を白黒させる晴日とは対照的に宗像は涼しげな顔で胸ポケットを探っている。

「これ名刺。ご入り用の際は是非御連絡を」
「ふ、祓魔師 宗像形…?」
「言ったろ。卒業したら、宗像家の家業を継ぐんだ。」
「………かぎょう」
「久方ぶりに楽しかったよ。じゃあ、今度は卒業式で。春日さん」

そう言って片手を上げて去っていく只の人間が大好きなだけの臆病者の青年は、何者でもない宗像形であった。

「真黒さんの友達って、やっぱり変わってますね」
「だろう?僕の自慢の友達さ」

そう機嫌が良さそうに笑う理詰めの魔術師(チェックメイトマジシャン)ーーーいや、友人の黒神真黒に、春日晴日は小さくご馳走さまでした、と呟いた。

おいてけぼりのよわむし
(未来は動き出している)


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