狂ってる
『名前、入れてくれるかい?』
仕事も終えて帰宅し、部屋着に着替えてやっと一息ついた頃に来訪者を告げるチャイムが鳴り、けだるげに人物を確認した瞬間名前は持っていた缶ビールを落とした。
まだ開けていなかった冷えた缶ビールがフローリングを転がる中、名前は扉を蹴破る勢いで玄関口へと駆け込む。
「……聖護ッ!!」
「やあ、元気にしていたかい?」
物理的に施錠された扉の先には、手術服のような衣服を纏った槙島聖護が立っており、昔と変わらぬ笑みを浮かべていた。
ふと何気なく見下ろした足元は裸足であり、いくら彼がアナログを愛していたとしてもそんな格好で出歩く人間ではないと知っていた為辺りに警戒して彼を招き入れて厳重に扉にロックをかけた。
「君と最後に会ったのはいつだったかな」
「さあ……?四ヶ月くらいじゃない?それより、どうしたのその格好」
「少しヘマをして公安局に捕まってしまったんだ」
「じゃあ今、公安局に追われてるわけ?」
「ああ、君の家が近くにあったのを思い出した。遠くに逃げるにも街頭のカメラが厄介なんだ。匿って欲しい」
彼が振り返った時、ギシッと床板が音を立て電灯が一瞬瞬いた。
「勿論断ってもいい。それで恨んだりはしない、君の自由だ」
「………どうせ、断ると思ってないから来たんでしょうが」
「……、フフ」
返事代わりに微笑んだ相手にバスタオルを渡し、早々に浴室へと押し込む。
彼は知り合いの家に転がり込んで生活している為、この家にも数着置いてあった。
きっと、その着替えを捨ててない事さえも想定内なのだろうと思うと、相手の手の平で良いように転がされてる気がして釈然としない。
彼……槙島聖護と出会ったのは三年前くらいだ。
その時、名前はまだ女学生で私立桜霜学園の生徒で、生徒の学習がタブレット化した授業の中、ただ一人手書きでノートを取っていた稀有な生徒だった。
シビラシステムという安全だと謡われた機械やホロでは味わう事が出来ぬアナログならではの良さに、名前はどうしようもなく惹かれた。
わざわざ手間をかける事を好む異常な考えは、一般人には理解出来なかっただろう。
しかしそうしていてもサイコパスは濁る事はなく、純粋にそう考えていれば濁らないのだ、として日々を過ごした。
視覚や聴覚等、私という人間が肌で感じる事が出来る全てを、私は愛していたのだ。
そんな異端児だった私は、ある日彼を見つけた。
分厚い本を手に、皆肌が焼ける事を嫌って人が寄り付かない裏庭のベンチへ向かうと、先約がいた。
見たことのない銀にも見える綺麗な白髪と、ベンチに腰掛けて優雅に赤い本をめくる青年。
今時タブレットじゃない本を読んでいるのは自分くらいだと思っていたがまだ他にも居たのか、と好奇心のままに観察していた時突然振り返った彼は柔らかく微笑んだ。
『すまない。此処は君の特等席だったのかな』
そう言った彼は当時藤間先生の友人と名乗った。
その日から彼とは密かに連絡を取り合うようになり、学園を卒業して彼が良くない事をしていると知った今でも、時折会っていた。
犯罪者である彼と"イケナイ"事をしても、私のサイコパスは濁らなかった。
だって、人が同じ温もりを欲するのはごく自然の事だから。
同じ事を白い腕の中で告げると、その通りだと彼は笑った。
「『無意識の哲学』……フロイトか。相変わらず良い趣味をしてる」
「っ!」
ソファーに座って缶ビールを片手に本を読んでいた時、突然後ろから手元を覗き込んできた彼のせいでビールが零れて腕に垂れた。
「あー、もう……ビックリさせないでよ」
拭き取ろうとしたが白い腕が伸びてきてその腕を取り、零れた滴を舐めとった。
きっと風呂上がりのせいだろう、その色香を纏った妖艶な美しさに思わず息を呑んだ。
バスローブから覗く鎖骨がとてつもなく色っぽい。
「その服もホロではない。……機械嫌いも変わってない、か」
今や生の服は高級品だ。
しかし、半ば意地になって名前は全て布の服を着ていた。
洗濯はお手の物だ。
「アナログ製品は高いし時折面倒だと思うけど、やっぱり落ち着くから。それに今は良い給料貰ってるしね」
「確か、シビラに逆らって今の仕事選んだと言っていたね」
「唯一E判定なんかくれたから、俄然やる気出たの。負けてたまるかって」
「……そして今はナンバー2にまでのし上がった」
「ざまあみろってね。所詮機械になんて人の限界は計れないんだから」
本を閉じてビールを一気に飲み干し、隣に居た聖護の顎を捕らえて口づけた。
さすがに一瞬身を強張らせたが、受容するそぶりを見せた為そのまま勢いで押し倒して馬乗りになる。
「酔っているね」
「酔いたい気分なの」
そう言って綺麗な鎖骨に噛み付くと、少し表情を崩した彼が熱い息を漏らす。
「これは誘惑されていると、とって良いのかな?」
「ええ、誘惑してる」
「据え膳食わなば男の恥。と云う言葉は言うまでもない、か」
「これ以上、言葉がいると思う?」
互いに笑みを零すと、グイッと引かれて下に引き倒され「最後に一つ」と前屈みになって耳元で囁いて来た。
「君は相変わらず愚かしい」
「お互い様。それに、今更でしょそんなの」
他人から見れば、誰しも何処か歪んでいるものだ。
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