*ロク* 


「やっぱり、辞めるか」
「はい。大変ながらく、お世話になりました」
「そうか……じゃあ、具体的にいつ頃に行くとか日程が決まったら教えてくれるか?
引継ぎ業務は初めてもらって構わない。相棒が一番理解してるから、引き継ぎ宜しく」
「了解です」


冷やかされるかと思ったのに、思ったよりも淡々と報告が終わった事に内心ビックリしつつ自分のデスクへと戻る。
こっそりと様子を伺うと、遠目に見てもしゅんっとしている上司。

「ねえ、どうしたのアレ。調子が出ないんだけど」
「さあ?多分、寂しいんじゃねーの。あの人が直接指導した部下で今もこの部署に残ってるの俺たちだけだし」
「確かに皆別の部署行ったり、転勤したね」
「まさかお前から引き継ぐことになろうとは」
「ほんとまさかだよ。フォローいっぱいしてくれたもんねぇ〜」
「不本意な事がほとんどだけどなぁ」
「ごめんて!」


「なあ、しおり」
「ん?」
「結婚、おめでとう」
「ありがと……でも皆、気が早くないか?私まだもうちょっといるよ?」
「それでも、だよ」

無言で仕事を始める同僚と上司を交互に見た後、小さく溜息を漏らす。

「煩い人たちが静かにしてると、逆になんか気持ち悪いんだけど。寒気がする、うぇ」
「「おい、聞こえてんぞ!」」
「うわ、地獄耳。キモ」

そのあといつものように繰り広げられた応酬に、皆がホッとするのも束の間
いつも通りドッと笑いが起こり、その中心でへらっと笑みが零れた。

その次の日から早速引継ぎ業務を始めると、何故か人が入れ替わり立ち代わり私の方へとやって来るようになった。
初めの数日は構わなかったが、だんだん日が経つ事にその人数と回数が増えていった。


「しおりさん、これはどうすれば」
「ええっとね……確かバックアップデータがそっちのUSBに」
「しおりさん、この書類なんですけど。数値が違ってて」
「それは、昨日○○さんが仕上げやってくれてた筈だから原本持ってた!14時には外回りから帰って来るから確認してね」

深々と頭を下げて去っていく後輩を見送ると、ふうと小さく溜息を漏らす。

「おつー」
「おつおつ。あのさ、何でみんな私に訊きに来るのかねぇ」
「そら、なあ…。元々お前面倒見良いから。あと、お前が関わってたプロジェクト結構多いし」
「確かに……メインは私じゃないけど、掛け持ち多いかも」
「お前が担当してるお得意さんも多いし。
いっそ辞めていく前にマニュアル作っていった方がいいんじゃねーの?」

そう言って楽しそうに笑う同僚を前に、「へいへい」と軽く口を叩いてからぼんやりと自分のデスクを見渡す。
初めの頃は覚える事が多すぎでフセンやメモ書きだらけだった机。
今もそれなりにフセンなども張られているが、前は「内線と外線での電話の挨拶表」とかのテンプレートを聴いて、覚える為に机に貼ってた。

それが自然と出来るようになった今は、そのメモ書きはない。
気が付けば、いつの間にか色々出来るようになったことは多い。


後輩たちは私が辿って来た道を、一から地道に昇っているのだろう。
前は私も試行錯誤しながら、先輩に怒られながらもやっていた。

それが今度は「そっちじゃなく、こっちだよ」と後輩を正しい道に呼んであげる先輩の立場になっていた。


でも、辞める今となっては後輩たちを残していかなければいけない。
まあ、私なんかが足元にも及ばない上司達がまた厳しく、優しく後輩たちを指導していくだろうから心配はしていないけれど…。


辞めたら、私が今までやって来たことは全部他の人がやっていく。
それが、正しい、ありのままの会社の姿だ。

けれど、この会社には長く居た。愛着もある。


(何か、皆の役に立つような事を残していきたいな…)


「ちょっと検討しようかな…」
「何?やっぱ結婚やめんの?」
「違うわ、馬鹿野郎!マニュアル制作だよ!」
「……ほうー、まあ頑張りたまえ」
「うっわ、腹たつ〜〜」


仕事をしてる同僚の脇腹をボールペンの先でつっついていると、バタバタと事務の制服を着た女の子が血相を変えてやって来るなり、私の方へと真っ直ぐ進んでくる。

よく私の期限ぎりぎりの書類を笑顔で処理してくれる、優秀ッ子だー。

「久しぶりー、っていっても一昨日ぶりくらいだけれどさ。どうしたの〜?」
「あの、今ちょっと良いですか?外に…」
「相談とか?…じゃなさそうだねぇ、此処でいいよ〜。こいつのせいで書類が終わらないからさー」
「おれのせいかよ」
「っ、今病院を通してご家族から電話がありまして。しおりさんの、お父様が倒れられたって」


カシャンっと音を立てて、握っていたボールペンが床に落ちてそのまま転がっていく。
それを見送る事もできず、おどおどしている事務の女の子を呆然と見つめた。


「…え…」


やっと出て来たのは、そんなマヌケな気の抜けた声だった。




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