破滅の国のアリス | ナノ



白い世界。
どこまでも真っ白で、果ての無い場所。

その白い世界に、きらり。
美しくも悲しげな色をした雫が落ちる。

ぽたり、ぽたり。
それは止まることを知らず、地に落ちては砕ける。

とても美しい透明な雫。
けれどどこまでも悲しげな雫。

どうして。
どうして。
どうして泣いているの────



「───姉さん」



そう呟けば、座り込んでいる姉さんが振り向いた。

美しい人。
誰よりも気高くて、誰よりも凛々しくて。
そして誰よりも秀才で非情で優しい、私の大好きな人。

そんな姉さんが、泣いている。
愁いを帯びた表情で。
絶望とも悲嘆とも取れるその表情で。
ただ静かに、声も無く泣いている。

ああ、美しい。
姉さんは泣いても、憂いても。
哀しんでも、絶望しても、美しい。

それでも姉さんの哀しむ姿は見たくなかった。

だって姉さんは笑っている時が一番綺麗だから。
そして姉さんが嬉しいと思うと、私も嬉しいのだ。

姉さんが喜び、笑ってくれるなら、私はそれだけでどんなことでも出来る。
そう、どんなことでも。



「姉さん、泣かないで」



姉さんが望むことは私が何でもやってあげる。
姉さんが望むことは私が何でも叶えてあげる。
それが例え世界に背く行為だとしても、姉さんがそれを望むなら、私はどんなことをしてでも叶えてあげる。

だから姉さん、泣かないで。
それがどんなに美しくて、どんなに可憐で、どんなに見惚れてしまいそうなほど素敵な姿だとしても。
それでも姉さんの哀しむ姿なんて、見たくないわ。



「なにがそんなに哀しいの?」



哀しいことがあるなら、それを私が無くしてあげる。
姉さんが苦しむことがあるなら、その理由を消してあげる。
だから私にそれを教えて欲しい。
教えてくれたなら、私はすぐにでもそれを排除してあげるから。



「姉さん、教えて?」



私は美しい雫を流す姉さんに近づいて、問い掛けた。
姉さんはそんな私を見上げて、増々悲しそうな顔をする。
愁いを帯びた表情で、哀しくも小さく笑った。



「アリスには、無理よ」



姉さんは言う。
私には無理だと。

どうして。
どうしてそんなことを言うの。

私はどんなことがあっても、姉さんに応えてあげるのに。
それがどんな無理難題であっても、私は絶対に応えてあげるのに。
それなのに、どうして無理だと言うの。



「そんなこと、無いわ。私は絶対に姉さんの望みを叶えてあげるんだから」



だから無理だなんて言わないで。
そう縋るように姉さんを見下ろせば、やはり姉さんは悲しそうに笑って口を開いた。



「無理よ、アリスには」



二度目の否定。
それが私には哀しくて、俯きながら呟いた。



「・・・そんなこと、ないわ」



姉さんはそれを聞くと、泣きながらも優しく笑う。
なら私の願いを叶えてと。



「私を───殺して?」



それに私は目を見開いた。

姉さんは殺せと言う。
姉さん自身を、私のこの手で。
殺せと言う。

それに私は絶望した。

別に姉さんがそんなことを命令したことに絶望したわけじゃない。
姉さんを殺さなければいけないことに絶望したわけじゃない。
姉さんが死ぬことを望んでいることに絶望したわけじゃない。

私が絶望したのは、姉さんが私に姉さんを殺すことが出来ないと思われていたことだ。

私は姉さんのためならなんだってやる。
それが例え人を拷問しろと言われても。
それが例え大切な人を殺せと言われても。
それが例え死ねと言われても。
それが姉さんの望みなら、私はそれを躊躇いも無く実行してみせる。
だから当然、姉さん自身を殺すよう言われても、私はそれに躊躇いなど見せるはずが無いのだ。

死ぬこと。
それが望みなら、私は喜んでそれを叶えてあげる。
そこに悲しみも憂いも悲嘆も、そして絶望など抱こうはずも無い。
姉さんがそれを望むなら、私はそれに躊躇いも無く喜んで叶えられるのだ。

それなのに。
それなのに、姉さんはそれを私には出来ないと思っていただなんて。
哀しくて哀しくて、苦しかった。



「私は、姉さんに応えられないような子だと思われていたのね」



淋しいわ。
そう私は呟きながらも、右手を姉さんの前へと翳す。
そうすれば体内の血流が急激に流動し、ひとりでに掌が裂ける。
同時に足下の影が蠢き、その手から溢れ出た血と絡まって───赤黒い巨大な鎌を作り上げた。

私はそれを姉さんの首に掛けるように手を翳す。



「姉さんが死を望むなら、それに躊躇いなど私には出来ないわ」



だから叶えてあげる。
姉さんが望む死を。



「私は姉さんが望むことを叶えるためだけにいるのだから」



だから私は躊躇いもせず、目の前の鎌を振り上げて───姉さんのその華奢な美しい首を、刈った。



「───!?」



私は目を見開く。
驚きに唖然とするしかない。

何故。
どうして。
なんで。

姉さんの首は、刈られていないの。



「だから言ったでしょう?」



アリスには無理だって。
そう言って姉さんは哀しそうに微笑む。



「どうして。そんな、そんな・・・!」



私には躊躇いなど無かった。
私には悲しみも苦しみも、当然未練すらなかった。
私はただ、姉さんの最も叶えて欲しい望みを叶えられる───それに喜んでいたのに。

それなのに、どうして。
私の手は、その首の前で身動きしないの。



「私・・・私、無意識に姉さんを殺したくないと思っているの・・・?」



そんなわけは無い。
そんなはずが無いのだ。
私は姉さんの願いを叶えることだけを生き甲斐にして生きて来た。
だから最大の望みを叶えてあげたくないだなんて思っているわけがない。

それなのに、どうして。
目の前に起きているこの事実はなんだ。

私は愕然とした事象に、目眩を覚える。
そうして呆然と立っていれば、姉さんはそっと首に掛かっているその鎌に触れた。



「これは、アリスのせいじゃないわ」

「え・・・?」



私は呆然と姉さんの顔を見る。
そうすれば姉さんは、その鎌をとても愛しいそうに、けれども哀しそうに見つめた。



「これはね、呪いなの」

「・・・呪い?」

「そう、呪い。私を手放すまいとした世界の、醜い、呪い。だから私はこの世界の誰にも殺すことは出来ないし、そして自ら死ぬことも出来ない。世界が私の死を否定するから」



だからアリスが私を殺せるわけが無いのよ。
そう言って姉さんは淋しく微笑んだ。

ああ、嗚呼。
まさかこんな形で私が姉さんの願いを叶えることが出来なくなるなんて思ってもみなかった。
誰かにそれを阻まれているのではなくて、世界に阻まれているなんて。
事象を壊すことが出来なければ、姉さんの願いを叶えることが出来ないだなんて。

そんなの、そんな。
世界を壊さなければ、姉さんを殺せないではないか。



「だからね、アリス。あなたには───無理なのよ」



そう言って微笑んだ姉さんは、もう泣いてはいなくて。
ただ絶望で濁った眼をして、壊れたように笑っていた。































「───っ!!」



がばり、と私はその場から身を起こした。

背筋が凍るような悪寒が全身を支配する。
体中から嫌な汗が吹き出ていた。
まるで全力疾走をしたあとかのように、心臓が脈打つ。
呼吸もままならず、浅い息を幾度と繰り返す。

なんだ、今のは。
悪い夢でも見たかのように、絶望感に苛まれている。
いや、事実今のは悪い夢なのだろう。
現実であるわけが無かった。



「っ・・・はぁっ、はぁっ、」



息が整わない。
普段から体力だけは無駄に有り余っているはずなのに、それなのにこんなにも疲弊した気分は久しぶりだった。
ただ寝ていただけなのに、この疲弊具合はなんなのだろうか。

そう私は身を起こしたまま額に手を当てると、かちゃり、と陶器の音が聞こえた。



「お目覚めかしら、お姫様?」



そう言ってくすくすと笑う声がする。
その方向に慌てて顔を向ければ、椅子に座った姉さんが私を見つめておかしそうに笑っていた。

それで私は安堵する。

ここは現実。
先のは夢。
目の前で優雅に紅茶を飲んでいるのは紛れもなくいつもの姉さんで、この場所は紛れもなくいつもの応接室。
ここは本当に、いつもの、現。

ふぅ、と私は息を吐く。
そうすれば呼吸が整って、身体が少し軽くなる。
姉さんの姿を見て、漸く本当に悪い夢から覚めたような気がした。

ふと、周りを見渡す。
そうすれば、部屋には私と姉さんの二人しかいないことに気づいた。
つい先ほどまでは姉さんの部下が報告だか何だかで、この場に居たはずだった。
しかし、今はどこを見渡してもその姿は見受けられない。
姉さんとその部下が話をしていたのを、私は遠くにあるこの窓辺のソファーに座って聞いていたはずだったのに、どうやら私はその間に転寝をしてしまったらしい。

ふらり。
現状を理解した私はその場から立ち上がる。
そうすれば少し頭の端が痛みを訴えた。

珍しく風邪でも引いたのだろうか。
そうぼんやりと思うが、しかし私に関してはその可能性は殆ど無いだろう。
ならばきっと、これは夢見が悪かったせいだ。

そう結論付けると、私は姉さんの元へと近づいて行った。



「ねえ、さん・・・」



少しばかり覚束ない足取りで姉さんの前まで辿り着くと、私はその場で跪く。
そしてドレスが覆う柔らかな膝へと頭を乗せれば、姉さんの身に纏う淡いバラの香りが鼻孔をくすぐった。

私は目を細めて実感する。

この姉さんは“本物”だと。
先ほどの夢の中のような姉さんではないと。
そう、絶望した姉さんではないのだと。

そう、実感する。
それだけで私の胸は安堵して、頭の痛みが引いて行った。



「どうしたの、アリス?」



姉さんは優しく問う。
私の頭を優しく撫でながら。



「・・・悪い夢を、見たわ」



そう言えば、姉さんは珍しいわねと、小さく笑った。



「それはどんな夢なのかしら?」



姉さんは優しく問う。
私の髪を優しく梳きながら。



「・・・姉さんが、絶望している夢」



そう呟けば、姉さんは楽しそうに笑った。

私は先の夢のことを全て話す。
あれは夢の出来事なのだと、現実ではないのだと、自分で納得するために。
そして姉さんに、それは夢なのだと肯定してもらうために。
寸分の狂いも無く、話した。

そうすれば姉さんはやはり楽しそうに笑って。



「それは本当に悪い夢ね」



まるで楽しい夢だったかのように、微笑んだ。



「・・・冷たいのね」



私は拗ねるように姉さんを見上げて呟く。
姉さんはそれを優しい微笑みで見下ろして、髪を梳く手を私の頬へと翳した。



「アリス、あなたは『夢知らせ』って言葉、知ってるかしら?」

「『夢知らせ』・・・確か、遠方で起こったことや、これから起こるべきことについて、夢で知らせがあるって言うやつ?」

「そうよ」



良く出来ました、と言うように、姉さんは私の目尻を優しく指先で撫でる。
それが少しくすぐったくて、でも心地良くて、私は瞳を細めてその手に頬を寄せる。
そうすれば姉さんは微笑んで、謳うように続けた。



「夢は夢を結ぶという。『夢路』という言葉が存在し、『夢枕に立つ』という事象が存在するように、夢は他者と結ぶ道と成る。そして夢は自己の鏡。時にそれは欲望を映し、また時にそれは無意識の自己を映し出す。正反対の自分を映し出す」

「じゃあこの夢は私の望みで、そしてこれから起こることを予期しているってこと・・・?」



そう少し眉を顰めて問い掛ければ、姉さんは首を横に振った。



「アリス。あなたの見た夢は、あなたと良く似ていて、それでもあなたとは正反対の人が見ているものよ」

「正反対の・・・?」

「そう。あなたと良く似た心を持っていて、あなたと良く似た考えを持っている人。それでも確実に、あなたとは正反対の存在。最後の最後での結論が、全く異なる思考を持つ存在。だから良く似ていて、でも全くの正反対の存在なのよ」



あなたなら、この言葉の意味が判るでしょう?
そう姉さんは私の瞳を見据えて、意味深に微笑んだ。

それに私は目を一瞬点にする。
しかしふと考えて、すぐにその言葉の意味が判った。

何故なら夢の中の私は、世界が姉さんの死を望まず事象ごと否定するから、姉さんの望みを叶えることが出来ない、そう言って絶望していたのだ。
そして、そこで結論が出て終わってしまった。

だが、私は違う。
私はそこで終わりはしないし、絶望したりなどもしない。

もし仮に、世界が本当に姉さんの死を事象ごと否定し望まない世界だとしても、私はそれに絶望したりしない。
だって世界が認めないなら、そんな世界を私が壊してしまえばいいのだから。
世界を破壊し、消してしまえば、そんな事象自体無くなる。
そうすれば、姉さんの願いを叶えることが出来る。

だから私は絶望したりしない。
姉さんの願いを叶えるその時まで、絶望という言葉なぞ私にとって無縁なのだから。

だから、この夢の中の私は私ではないのだ。

私に良く似た、もう一人の誰か。
その誰かが見ている夢。

それを、私は見たのだ。



「判ったみたいね」

「ええ、だって私は絶望したりなんてしないもの」



そう断言すれば、姉さんは嬉しそうに微笑む。



「そうね。だってあなたは、私の願いをどんなことをしても叶えてくれるものね」

「当然よ」



私にとって、姉さんの望みが全てなのだから。
だから私はどんなことが起こっても、必ず姉さんの願いを叶えてみせる。

そう強い意志で姉さんを見つめると、姉さんはまた笑って、口を開いた。



「もうひとつ、教えてあげる。その夢の中のあなたにとって、その夢は現実よ」

「え?」

「だって、“正反対の存在であるあなたが、夢として見た”のだから」



だからもう一人の存在にとって、その夢は現実なのよ。
そう姉さんは言って、ゆっくりと目を瞑った。

ああ、姉さんはきっと何かを知っている。
私が見たこの夢のことも、そしてこれから起ころうとしていることも。

姉さんは聡明で、怜悧で。
英邁な人だから。
そう、私には想像も出来ないことを、沢山知っているのだ。

本当に、なんて素晴らしい人だろうか。

美しく可憐で妖艶で。
博識で秀逸で優秀で。
優しくて大らかで非情で冷酷。
そして誰よりも、残酷な人。

何者にもこの人を超えることは出来ず、また超えられるはずも無い。
だってこの人はこの世の全てを知っているのだから。
この人以上に素晴らしい人なんて、いるわけが無いのだ。

姉さんは静かに目を閉じている。
優しい微笑みを浮かべて、何かを思い馳せるように。
そしてゆっくりと、口を開いた。



「・・・きっと、夢の中の私は、あなたに救われると思うわ」



ふと、姉さんはそう呟いた。
それに私が目を点にしていると、姉さんは瞼をゆっくりと開いて、優しく微笑む。



「だってあなたは、“私の望みを叶える子”だもの」



だから、救われるわ。
そう言って、姉さんは私の額に口付けた。










───ああ、幸せだと思う。

姉さんにこうして願いを叶える存在として認めてもらえることに。
その願いを叶えさせてもらえることに。
そして、愛情を与えてもらえることに。

この上も無く、幸福だと。

だから私はゆっくりと瞼を閉じて、これからのことに思いを馳せる。
姉さんの望みを叶える、その時を。

夢に見ながら。



















───夢 に 見 た


2012,1,16