アリス。
アリス。
嗚呼、アリス。
気付きたくなかったよ、君が唯一の人だってことに。
君が、好意以上の感情を向けている人だってことに。
君を、唯一愛している存在だと言うことに。
気づきたく、なかった。
君が愛を告げなければこんな最期にはならなかったのに、
「アリス」
名を呼ぶ。
けれども君は、応えない。
その胸に大輪の花を咲かせて、ただ静かに微笑んでいる。
「アリス」
再度、名を呼んだ。
でも君はやっぱり応えてくれなくて。
オレはそれに淋しさを感じて、その白を通り越した青白い手に指を絡めた。
手袋越しに感じる体温。
けれどもそれは肌を重ねた時のような温かさは無くて、寒さにかじかんだ手を掴むよりも冷たい。
ぴくりとも反応を示さないその冷めた体温の指に己の指を絡めて、握る。
「・・・・・」
オレは暫しその手をじっと見つめる。
自身の手に覆われた、細く美しい手を。
それを見て、オレは思う。
「アリス・・・・・君の手って、こんなに小さかったんだね」
そうぽつり、呟いた。
今まで気付かなかったように、呟いた。
今までアリスとは何度も触れ合っている。
肌を重ね、手を合わせ、互いの熱に酔った回数など数えることも出来ない程に。
だからオレは彼女の手の大きさを知っている。
自分の手よりも小さく、儚く、脆く、弱いことを。
そして、美しいことを。
けれどもオレは今程にアリスの手が小さいと言うことを意識したことは無かった気がした。
「アリス」
また、名を呼ぶ。
温かかった時は桜色に染まっていた愛らしい唇も、今は紫色に染まったその唇からは何の音も紡がれない。
音だけではなく、吐息すらも。
何も、発しない。
そんな冷たいアリスをオレは見つめる。
全てを視界に映して、思う。
「やっぱりアリスは・・・・小さかったんだね」
オレは淋しそうに呟いた。
彼女は細くて、小さくて、脆くて、美しい。
でもただ綺麗で儚いだけの存在ではなくて、醜い所も汚い所も沢山持っている。
だからこそ、美しいと思う。
そんなアリスはオレにとっては何故かそこに絶対にあるもののように感じた。
殺そうと思ったらいつでも殺せるだけの無力で非力な存在であるのは知っているが、それでも何故か彼女の存在は消えない気がした。
それは脆い反面強い所も持ち合わせていたからだと思う。
だから、彼女を必要以上に大きく感じていたのかもしれない。
けれど実際はそうではない。
今目の前で動かなくなってしまった彼女は、オレたちの存在とは確かに違いはするものの、それでもやはり呆気なく死んでしまう、そんな脆い存在だ。
それ故に、オレは今漸く気付いたのかもしれない。
もう彼女が動くことが無いからこそ、気付いたのかもしれない。
彼女はとても小さい存在であると言うことを。
こんなにか細い手の持ち主が、こんなにもか弱い身体の持ち主が、今まで自分を受け止めていた。
その事実を考えると、余計に小さく感じる。
そしてそれと同時に思う。
こんなに小さな手を持っている存在が、オレの愛を生を持って受け止めきれる訳が無いのだと言うことを。
だからその結果が今目の前にあるのだと言うことを。
オレは、納得した。
しかしそれが今は無償に哀しく感じた。
アリスはオレの想いを受け止めて、笑顔でその命を差し出した。
怯えた風でもなく、否定する訳でも拒絶する訳でもなく。
ただ受け入れて、受け止めてくれた。
生ある受け止め方は出来ないが、死ある受け止め方はしてくれた。
そんなアリスが愛しくて、恋しくて、憎い。
彼女の存在が唯一であることが気持ち悪い。
でも、彼女を愛しいと思うことはこの上も無く嬉しく思う。
そして彼女の存在が無くなったことで唯一の存在がいなくなった安堵感と、愛しい存在がいなくなってしまった喪失感が壊れた胸の中を支配する。
「アリス」
名を呼ぶ。
もう何も反応を示してくれない優しい微笑みを浮かべた、真っ赤な君を見つめて。
「アリス」
名を呼び続ける。
その冷たい氷のような小さな手と身体を抱きしめて。
「アリス・・・・・オレは、君を────」
その先の言葉をオレは彼女への想いを込めて、そっと彼女に近づく。
そして、静かに。
冷たい口付けを、交わした。
途端、冷たいものが頬を伝った。
オレはそれに眼を見開く。
すると目の前のアリスが涙を流していた。
いや、違う。
彼女が流している訳ではない。
では何故彼女の頬は濡れている?
オレの頬は、濡れている?
オレは疑問を抱いて彼女の身体から僅かに離れて己の頬を確認してみる。
何が触れているのかを知る為に。
そっとそれに触れてみれば、それはすぅ、と白い手袋に吸い込まれていった。
冷たいものの軌跡を辿って手袋にそれを吸い込ませ見つめてみれば、そこには水滴を吸い込んだ跡が。
それをオレは暫く見つめてなんだろうと首を傾げてみれば、それは再びオレの頬を伝い落ちる。
ぽたり、
彼女の頬がまた濡れた。
それをじっと見つめる。
そして漸く理解した。
それは、冷たい雫だと。
それは、己の流した涙であると。
それが頬を伝い、彼女の頬へと幾つも滴り落ちる。
「っ、ははっ・・・」
オレは乾いた笑みを浮かべながら自分の片目を手で覆う。
「まさか、このオレが涙を流す時が来るなんて・・・・な」
馬鹿にするかのように、自嘲した。
自分が泣くことなど無いと思っていた。
泣くようなそんな心優しさも苦痛に思う感情も、自分は持ち合わせていないと思っていたから。
けれど、今は違う。
自分が涙を流している。
その涙を流している理由は嬉しさからか、哀しさからか。
そんなもの今の自分では判断出来ないが、それでも涙を流している。
「・・・・オレは到頭、壊れたのかな」
元々壊れているのに、これ以上壊れることなど無い筈なのに。
それでも、彼女を失ったことで何かが壊れたのかもしれない。
「アリス・・・アリス、アリスっ」
彼女の名を何度も呼ぶ。
応えてくれない冷たい身体の彼女を視界から隠して、両の手で己の顔を覆って。
その伝い溢れる雫で手袋に染みを作って。
彼女を失った喪失に、涙を。
嗚呼、気付きたくなかった。
彼女がが唯一の人だってことに。
彼女が、好意以上の感情を向けている人だってことに。
彼女を、唯一愛している存在だと言うことに。
そうすれば、こんな感情を知る必要なんてなかったんだ。
こんな感情に涙することなんてなかったんだ。
こんな風に、まるで“普通の存在”のように自分が壊れることなんて、無かったのに。
だからアリス、気付きたくなかったよ。
君を愛していると。
君が愛しいと。
君が、恋しいと。
そんな感情に、気付きたくなかったよ。
そして、君がいなくて淋しくて哀しくて苦しくて辛い、だなんて。
そんな感情にも、気付きたくなかった。
目の前の君はオレと同じように真っ赤に染まっている。
オレの身に纏う赤なんかよりもずっと鮮明で、ずっと美しい、鮮血の赤に。
そんな愛しい君の名を呼びながら、オレはただ只管に泣いた。
馬鹿な程、哀れな程、君を想って。
ただ、壊れたように。
君の思惑のままに、咽び泣く。
そこにはきっと、哀れで愚かな淋しい男がいたに違いない。
君の言葉が
僕の全てを
狂わせた
2009,10,16