ヒプノシスマイク | ナノ



パチパチと、火花が散る音がする。
夕暮れなど当に過ぎ、宵闇が山中に深く影を落とす。
その中で、焚き火の明かりがぼんやりと、大柄な男の姿を映し出していた。
迷彩服に身を包んだ男は、焚き火の前に設置した小さな折り畳み式の椅子に腰を下ろし、静かに目を閉じている。
左手に握られたステンレス製のマグカップからは、緩やかに淡い湯気を立ち上らせ、周囲にコーヒーの薫りを漂わせていた。

ざわりと、木々がざわめく。
不意に訪れた風に合わせて、焚き火の火花が踊り、明かりが揺れる。
ぱちんと、一際強く火花が弾けた。
その瞬間、座っていた男──理鶯は、空いている右腕を目にも留まらぬ速さで動かし、唐突に右側から襲い来るそれを掴んだ。

掴まれたそれは逃げ出そうと瞬時に身を引くも、理鶯はそれを許さない。
圧倒的な力で持ってそれを止め、右腕を自身の左前へと強く引けば、掴まれたそれはあっさりと眼前に引き摺り出された。
想定していたよりも軽い重量に内心意外に思いつつ、理鶯はそれを掴んだまま、地面に本体を叩きつける。
手元にあったコーヒーなど構わず、持っていたカップをその場に投げ出すと、空いた左手も駆使して即座に本体の背から伸し掛かかった。
慣れた手つきで右手で掴んでいたそれを、本体の背後へと捻り上げる。
投げ出したカップが地面に転がり止まる頃には、襲いかかってきたそれは完全に四肢の動きを奪われていた。

理鶯はじっと、眼下のそれを見下ろす。
焚き火の明かりに照らされ、浮き彫りになったそれは、見紛うことなく人間だった。

小柄な身体つきから察するに、少年だろうか。
相手の下半身の動きを抑えるために降ろした腰下からは、鍛え上げられた屈強な筋肉も肉付きの良さも、然程感じなかった。
寧ろ腰は細く平で、肩幅からしても伸びる背中は見るからに華奢だ。
背中へと捻り上げられている右腕も、左手で地面に縫い付けた相手の左腕も、それは今にも折れそうなほどに細い。
まるで枯れ枝でも握っているのではないかと錯覚しそうになるほどだ。

だがそれを理由に理鶯が手を緩めることはない。
元軍人の彼には、相手の外見など関係は無い。

「武力抗争を禁止された現在の世で、まさか物理で襲撃に合うとは驚いた」

理鶯は捻り上げている相手の右手を見つめて呟く。
その手元には、鋭利なナイフが握られていた。

そう、目前で押さえつけている少年は、敵対者だった。
刃物を持って、座している相手の背後から音も無く近づいては、その喉元を掻き切るように襲ってきたのだ。
しかし先に気配を気取られてしまったが故に、襲撃は阻止されてしまった。

「───!」

少年は痛みに苦悶の声を上げる。
捻り上げた腕に、更なる付加が掛かったからだ。
それは音を立てるかの如く、ぎりぎりと締め上げては相手に痛みを与えた。

なんとか拘束から逃れようと、少年は足掻く。
しかし理鶯の鍛え上げられた屈強な身体には無駄な足掻きで、逃れることなど出来ようはずもない。
故に与えられ続ける痛みに到頭耐えかねた右腕は、ナイフを手放した。

カラン、とナイフが甲高い音を立て地を転がる。
本来ならば即座に転がったナイフを奪い去るか、遠くへと弾くのが定跡だろうに、理鶯はそれを気にも留めずに少年を見下ろす。

「どうして小官を狙った?」

理鶯は淡々と問う。
しかし少年は答えない。

ぎりっと、更なる軋みが聞こえそうなほど腕を捻り上げる。
このまま捻り続ければ、脱臼か骨折のどちらかは免れないだろう。
相当の痛みが少年に与えられているはずだが、苦痛に耐える声は聞こえど返答は帰って来ない。

この方法では吐かせるのは無理だろうか。
少年の反応を見て、理鶯は思案する。

武力による抗争が禁止されてから、殺人も物理的なものを利用することが少なくなった。
絶対ではないが、昔に比べれば減ったことだろう。
暗殺など、もっての外だ。

それなのに、この少年はその手段を取った。
しかも少年の所作は、決して素人のものではない。
気配を殺して理鶯の下に近づくことも、その背後を取ることも、容易なことではないからだ。
何時もならばもっと早い段階で気づけただろうに、あまりの気配の無さに、少年が背後の木陰から姿を現すまで、全く気配を悟れなかった。

そしてまた、標的に近づき暗殺する動作に、一切の無駄がなかった。
音も無く近づいて、その急所を的確に突いてくる動きには、躊躇いすらも無かった。
ここまでの所作を身につけるには、一年やそこらの訓練では不可能だ。
つまりそれをやってのけたと言うことは、相当な訓練が積まれている。
少年の成りをしているが、戦闘訓練はさて置き、暗殺訓練には相当長いこと身を置いているに違いない。
故に、この少年の暗殺は衝動的にとった行動ではないことを推察する。

ならばと、理鶯は地に縫い付けていた左腕を開放し、自身の上半身を軽く浮かせると、少年の捻り上げる腕を緩めると同時に、空いた左手を使って強制的に相手の身体をぐるりと反転させた。
少年が振り向き様、驚きに目を見開くのを視界に入れながら、即座に両の手首を拘束し、その場に立ち上がる。
力任せに掴んだ両腕を引き上げれば、その身体は驚くほど簡単に持ち上がった。

ぶらりと、少年の身体が吊るされる。
190cmを超える大男に腕を上げられたまま吊り下げられれば、高さは有に2mを超える。
対して少年の身長は理鶯の四分の三ほどにしか無く、完全に身体は宙に浮いていた。

理鶯は左手で少年の両腕を吊るし上げながら、右手で少年の首を掴む。
その首は手首同様に折れそうなほど細く、理鶯の片手だけで掴みきれてしまいそうだ。
首を掴んだ手の親指と人差し指で、下顎骨と首の付根辺りを押し上げる。
そうすれば俯いてた少年の顔が強制的に持ち上がり、その容貌がはっきりと見えるようになった。

少年は驚くほど美しい容貌をしていた。
面立ちは幼いが、しかし目鼻立ちは通り、均等が取れている。
幼さを残すような大きな目は何処か凛とした印象があり、引き結ばれた小さな唇は淡い桜色が見て取れた。
肩口で切り揃えられた黒髪は、正に緑の黒髪と形容しするに相応しく艷やかで、そこから覗く肌は陶磁器のように白い。
身に纏う迷彩服がその白さをより浮き彫りにし、焚き火の明かりに照らされ反射する様は、場にそぐわず幻想的に見せていた。

そんな容貌を見て、少女のようだなと、理鶯はぼんやりと思う。
普段相手の容姿など気にも留めないが、ここまで容姿が整った幼い者が敵対者だったことはない。
改めて全体的に少年の姿を観察してみれば、吊るし上げられ重力に沿って伸びた肢体はその華奢さをより浮き彫りにし、小柄な姿も相まって、まるで精巧に作られたビスクドールかのような錯覚さえ起こさせた。
何故こんな幼子が暗殺など試みたのかと理鶯は思案していると、ふと違和感を覚える。

違和感を払拭すべく、少年の胸元をよく見てみれば、己が勘違いをしていたことに気がついた。
何故なら、理鶯の手によって襟元が開いた衣服の隙間から、僅かだが双丘が見て取れたからだ。
少女らしい面立ちをした少年は確かに居るが、襟元から覗く胸元の膨らみは、明らかに女のそれだった。

ずっと少年だと思っていた相手は、実は少女であった。
容貌の印象と体格に納得するのと同時に、この現状が如何に不自然であることか認識する。
女性優位になったこの世界で、少女が武力を身に付けているだけに飽きたらず、暗殺を試みている。
それはどう考えても今の世では不自然だ。

理鶯は暫し思考し、気を引き締める。

「再度問おう。何の目的で小官を狙った?」

少女の瞳をじっと見据え、首を捉えている手に力を込める。
ぎりりとそのか細い首が締め上がり、少女は苦しげに顔を顰めた。

首を絞めてしまえば、答えれるものも答えられない。
問い掛けと行為が合致しない現状は、非常に矛盾している。
故に、これはこのまま答える意思がなければ殺す、ということを示唆する脅しだった。

音とも取れぬか細い苦悶の声が、その小さな唇から僅かに漏れる。
しかしそれは問いかけに答えるための声ではなく、ただ痛みと苦しさに苦悶しているだけなのが理解できた。
これは理鶯の意図していることが伝わっていないのか、それとも少女はそれを理解した上で、答えないことを望んでいるのか。
それを探るために、理鶯はその瞳の中を覗き込む。

少女の黒曜石のような瞳からは、憎しみや敵意は感じられない。
対象を殺しに掛かっているにも拘らず、それを前にしても少女には殺意すら感じない。
しかも、現状命を脅かしている相手を前にしてでもである。
これは対象に自身の感情が乗っていないことを示している。
ならばこれは誰かからの差金だと理鶯は考える。

「誰からの命令だ?」

そう問えば、少女の顳が僅かにだが反応を示した。
そこに理鶯は確信を得る。
この少女は私怨でここに居る訳ではないと。
しかし少女はそれ以外の反応を示さず、息苦しさに顔を顰めるだけだった。

「・・・答えないか。ならば拷問も已む無しだ。武力による制裁は禁止されているが、ヒプノシスマイクを利用すれば拷問をすることも、殺すことも容易だ。それでもお前は沈黙を守るのか?」

そう問えば、少女の瞳には何処か安堵した様子が見て取れた。
それを見て、理鶯は少しばかり驚く。

拷問による苦痛や死の危険性があるというのに、それに恐怖や敵意を向けるでもなく、それらとは相反する安堵を感じるとは、普通ではない。
これは演技か、本心か。
それを見定めるために、理鶯は問い掛ける。

「お前は拷問を受けて喜ぶ変態なのか?それとも───死にたいのか?」

死にたいのか。
そう問われた瞬間、少女の身体が小さく跳ねた。
その瞳には、僅かだが焦りが見て取れる。

ぎりぎりと、肉が締まり、筋肉が収縮する感触が、触れた皮膚から伝わる。
血液の流れが動脈を伝い、皮膚の下が脈打つ。
あともう少し力を込めれば、窒息させるどころか、首をへし折ることなど容易に出来るだろう。
その喉から、出来もしないのに唾を嚥下する動きを掌越しに感じた。

「───答えるならば、殺してやってもいい」

そう告げれば、少女は目を見開いた。
その瞳には、何処か救いを見たような光を宿して。

そこで理鶯は悟る。
この少女は死にたいのだと。
“死ぬために、ここに居るのだ”と。

理鶯は暫し少女の瞳を見つめながら思案する。
すると何を思ったか、唐突に少女を拘束する全て手放した。
途端、少女の身体は宙を浮遊する。
少女は驚きに目を見開けば、身体は直ぐ様地へと崩れ落ちた。

どさりと、少女の身体が地へと落下する。
それに体勢を整えるも、反射的に酸素を欲した身体は急な呼吸をし、突如雪崩れ込んできた酸素に驚いた肺が拒絶反応を起こす。
その場で咳き込みながらもなんとか酸素を取り込めば、徐々に息苦しさは緩和され、安堵の息を吐くまでになった。

そんな少女を一瞥しながら、漸く理鶯は地面に転がったナイフを回収する。
そのまま少女に背を向ければ、少女は喉元に軽く手を当てながら、静かに口を開いた。

「・・・どうして、開放したのですか」

理鶯が転がった椅子を立て直す様を見つめながら、少女は問い掛ける。
その声は少しばかり掠れていたが、宵闇に通る様な、透き通った響きがあった。

「ほう、喋れたのか」

あまりにも答えないから口が利けないのかと思ったぞ、と理鶯が皮肉を返せば、少女は口を噤む。
理鶯は立て直した椅子を後にし、転がったマグカップを回収しながら設置してあるテーブルに向かうと、ナイフと泥まみれになってしまった先ほどのマグカップを置く。
机上にあった新しいマグカップを用意すれば、そのままポットを掴んで先程入れていたコーヒーを注ぎ始めた。

とぷとぷと、コーヒーがカップに注がれていく音がする。
ぱちんと、焚き火が火花を散らす音が響いた。
それ以外は、微かに風にそよぐ葉の音しか聞こえない。
ただただ襲撃前と同じ穏やかな空気を取り戻した現状に、少女は戸惑った。

少女が持っている情報によれば、理鶯と言う男は敵と見做した相手に容赦しない。
圧倒的な力で追い詰め、完膚なきまでに叩き潰すと聞いている。
それなのに、現状では相手に制裁を加えるでもなく、拷問を与えるでもなく、拘束するわけでもない。
ましてや五体満足の状態で開放している。
しかもその状態で、自身の命を狙って来た相手を前に、悠然とコーヒーを注ぎ始めているのだ。
目の前の男が何を考えているのかが分からず、最早少女は戸惑うしか無かった。

「・・・どうして、なにもしないんですか?」

少女は怪訝そうに理鶯を窺う。
理鶯はその問いかけに振り向くと、入れ終わったコーヒーを片手に、少女と対面した形でテーブルへと凭れ掛かる。
その場で軽く目を閉じながら一口コーヒーを飲み下だせば、ゆっくりと瞳を開き、波紋を浮かべるコーヒーを見つめながら答えた。

「このままお前を拷問しても、メリットが無いと判断した。暗殺の所作と先程の問答で、お前が口を割ることは無いだろうと直感的に分かった。だから脅したところでただの徒労で終わるだろう」

意味の無いことをするつもりはないと、再び理鶯はコーヒーを啜る。
それを飲み下せば、少女の瞳をひたと見据え、それに、と続けた。

「───死にたがっている奴の願いを叶えてやる義理は無い」

その言葉に、少女は驚愕の表情を見せる。
息を呑むのが、遠目にでも分かった。

「どう、して・・・私が死を望んでいると、分かったの」

少女は戸惑いの色を見せ、理鶯をじっと見つめる。
敬語を使うことも忘れ、素で返しているように見えた少女には、歳相応の幼さが見えた。
まるで迷子の子供のような、そんな幼さが。

もしかしたら理鶯が想定している年齢よりも、この少女は幼いのかもしれない。
ならばこの幼さで、女性が有利に立ったこの世界で、この少女が死を望む程の境遇とは一体どんなものなのだろうか。
暗殺の所作を身につけなければならない境遇とは、一体どんなものなのだろうか。
誰が己を狙っているのかよりも、この少女の境遇の方が余程気になった。
不謹慎だと理解しながらも、理鶯はこの少女に興味が湧いた。

この少女から情報を引き出すにはどうしたらいいのだろうか。
この少女の過去を、現在を知るには、どうしたらいいのだろうか。
ヒプノシスマイクを使って自白させても良いが、理鶯の経験上、操作系の能力はあまり得意ではないことを自認している。
とすれば、強要は裏目に出るのは明らかなので、諦めた方が良いだろう。

理鶯は他に手段が無いだろうかと、模索しながらコーヒーを再び口にする。
ただコーヒーを啜るだけで、少女の問には答えず無言が続く現状に、少女は困惑気味に唇を引き結んだ。

もう理鶯は少女を警戒していない。
それは敵に背後を見せるどころか、重心を机に傾けてから目を瞑るという動作を見るからに明らかだ。
少女が逃げても良いと思っているのか、それとも逃げようとしても必ず捉えることが出来ると自負しているのか。
はたまた、少女が死を望んでいることを悟ったからか。
何れかは分からないが、既に警戒対象から除外されていることは確かだ。

この男は先程の僅かな問答で少女の能力を理解し、少女の望みを察した。
なによりも、殺してやろうと言う言葉に、少女は一瞬でも希望を見出してしまった。
それがこの少女の落ち度で、この良く分からない現状を作り上げてしまった原因だ。

主の命令どころか、自身の望みすら叶えられない。
更には、敵にすら敵と見なされない。
なんという体たらくで、無能なのか。
このままでは自身の存在価値すら無くなってしまう。

少女は自身の無様さに、歯を噛みしめる。

「・・・このまま、私を開放する気ですか」

少女はじっと理鶯を見つめ、問い掛けた。
しかし理鶯はカップに口を付けながら、ただそれを見つめ返すだけだ。
それは肯定を意味しているのと同義であり、少女は更に奥歯を噛みしめる。

「このまま野放しにするなら、私はまた貴方を狙いますよ?」

そう悔しそうな表情で少女が睨みつければ、そこで理鶯は漸くカップから口を離した。
何か妙案でも思いつたのだろうか。
少女を見据えて、不敵に笑う。

「殺したいのならば何度でも殺しに来ればいい。まあ、君如きでは小官を殺すことなど一生出来はしないだろうが。それでも構わないと言うならば、何度でも挑んでくればいい。その志が折れるまで、付き合ってやろう」

まるで嘲るようなその言葉に、少女は悔しそうにぎゅっと自身の手首を掴む。
途端、走った痛みに眉を顰めて腕を見れば、その細い両腕には痛々しい痣が浮き上がっていた。
それは先程理鶯に拘束されていた両腕で、力の差は歴然だと少女に知らしめる。
少女の目には見えないが、きっと喉元にも同様の痣が浮かんでいると認識した。

少女はそれに悔しげに顔を顰める。
痛みを伴うと分かっていながらも、その腕を握りしめた。

「───必ず貴方を殺してみせます」

そう俯きながら苦しげに呟けば、理鶯は楽しそうに小さく笑ったのだった。




















な二人のはじまり


2019,3,12