ヒプノシスマイク | ナノ


ああ、疲れた。
今日も今日とて残業で、しかし日付が変わる前には家に着けたことだけがこれ幸いだと、玄関前で溜息を付く。
明日は漸く休日で、休日出勤が無いことが更に幸運かもしれない。
まあ、ほぼ毎日労働時間が十二時間を軽く超えている時点で、ただただ不運でしか無いだろうが。

そんな重たい頭と、漸く休める幸福を噛み締めながら、玄関の扉を開いた。



「ただいま・・・・」



我ながら疲れ果てた声が出たと思う。
扉の閉まる重たい金属音を聞きながら廊下の先を見れば、リビングに繋ががる扉の磨りガラスから光が漏れていた。
光は玄関まで伸び、ぼんやりとだが廊下を照らしてくれている。
明かりが点いていると言うとことは、誰かが居ると言うことだ。
一人ではないと言う事実に、少しばかり心が軽くなる。
靴を脱ぎつつ端に揃え置き、漏れ出る光を頼りに、電気も点けずに薄暗い廊下を突っ切って行く。

ああ、しんどい。
早く癒やされたい。
早く俺に幸福を。

お経のように内心で唱えながら、半ば足を引きずるように、のろのろと光の射す方へと歩いて行く。
しかしリビングに続く扉を開ければ、なんとまあ、俺に喧嘩を売っているのかと言うような光景が広がっていた。



「あー・・・耳掻きってこんなに気持ちいいもんだったのかぁ〜」



そう、リビングのカーペットに寝っ転がっている男は宣う。
そんな男の頭に膝を貸している女神が、嬉しそうに笑った。



「ふふ、気に入りました?」

「うん、うん、気に入った!いやぁ〜、今までオレっち何で客引きの一環に耳掻きなんてもんがあるのか疑問だったけど、今日漸くその意味分かっちったわぁー!」



これは極楽。
そう言って寝っ転がっている男───一二三は、口元を大層緩めている。



「・・・・お前ら、それは俺への当てつけか?」



ふるふると、怒りで肩が震える。
手に掛けていた取っ手を、今にも折りそうな勢いで握りしめた。

連日の残業で疲労困憊な心身に鞭打ちながら、本日分のノルマに加算どころか乗算されたのではないかと疑いたくなる程の仕事を片付け、取引先での後輩のミスを処理する破目になった挙句、ムカつくハゲ課長のグチを延々と聞かされた一日。
そんなハードな一日を終えて漸く癒やしの空間に足を踏み入れたというのに、扉の先には疲れやストレスなど皆無と言いたげなだらしない顔をした男が、慈愛に満ちた優しげな表情を浮かべた女神のような女の柔らかい太腿に頭を乗せ、大層幸せそうに耳掃除をしてもらっている。

なんだこの天国と地獄の差は。
これが当てつけでなく何だというのだ。
こんな光景を見せられて、殺意が芽生えない方が可笑しい。
死んだ目に殺意を滲ませながら告げれば、二人はこちらを少し驚いた表情で見つめた。



「おかえりどっぽーー!」

「おかえりなさい、独歩さん」



気が緩みすぎているのか、若干舌っ足らずに聞き取れる一二三と、ふわりと優しく微笑み、お帰りになっていたことに気づかなくてごめんなさいと、女神───基、沙良は少しだけ眉尻を下げた。
そんないつも通りの二人に毒気を抜かれ、溜息を付く。

昔からそうだ。
俺が一人不運に見舞われ疲れ果てながら二人の前に現れれば、大抵二人共(一二三が極楽浄土に居るであろうくらい良い思いをしている)楽しそうにくっついては笑っている。
これは小学生の時から変わらない光景。
こんなのは今に始まったことではない。
これ以上怒っていても不毛なだけだと過去の自分で悟っているから、さっさと諦めるに限る。

再度大きく溜息を吐けば、どっと疲れがやって来て、肩の力ががくりと抜けた。
何で家に帰ってまで疲れなくちゃならないんだ、俺は。
取り敢えずただいまとだけ返せば、耳掻きを辞めたらしい沙良は、一二三の頭を撫でながら再び微笑む。



「お風呂湧いていますよ。それとも先にお食事のほうがいいですか?」

「・・・いや、風呂でいい」

「分かりました。タオルとパジャマは洗面所に用意してありますから、ゆっくり疲れをとってきて下さいね」



そう言いながら、沙良は一二三の頭を撫で続ける。
一二三はどうやら撫でられるのが気持ちいいのか、目を伏せたまま珍しく大人しくしていた。

さらり、さらり。
金髪に染められた一二三の髪がゆっくりと、その綺麗な手で撫でられる。
ほっそりと、爪先まで手入れをされた、白魚のような指。
俺の手よりもずっと小さいその手が、慈しむかのように撫でている。

さわり、さわり。
ああ、羨ましい。

急に黙ったまま一二三を見ていたからだろうか、沙良が不思議そうに俺と一二三を一度見合わせると、軽く小首を傾げた。



「・・・もしかして、耳掻きが良かったですか?」



独歩さんもしますか、と問われて、はっと我に返る。
どうやら欲求が態度に現れていたらしいが、沙良にはその真意は伝わっていないようだ。



「いや、それはいい」



これ幸い、と内心呟きながら、風呂に入ってくる、と告げて踵を返す。
薄暗い廊下に舞い戻り、そこに隣接する自室の扉に向かいながら、ほっと息をつく。

正直耳掻きを誰かにしてもらうのは苦手だ。
擽ったくてゾワゾワするし、耳の中に自分の体ではない物質を入れられ、脳に直接音が響いてくるのが怖い。
自分でやるならまだしも、コントロール出来ない他の誰かにしてもらうのは、幼少の頃からどうしても慣れない。

だから別に耳掻きをしてもらいたかったわけではない。
ただ、あの手で撫でて欲しかっただけだ。
優しく、慈しむかのように、頭を撫でて欲しかっただけだ。

まあこれは帰宅時から決めていたことだから、風呂を上がったら後で絶対にやってもらおう。
うん、と心に決めて、自室に荷物と上着を置いてから下着を準備して、風呂に向かう。

実はもう一つの欲求が、あの柔らかな太腿に顔を埋めたい───と思っていたことだとは口が裂けても絶対に言えない。










* * *










ふう、と息を吐きながら、タオルで濡れた髪を拭きつつ、リビングの扉を潜る。
そうすれば、二人が食卓の準備をしていた。



「お夕飯、時間も遅いですし疲れているでしょうから、食事は消化の良いお素麺にしたんですけど、宜しいですか?」



もう少し歯ごたえがあるものが良いならお作りしますよ、と続ける沙良に、俺は首を振る。



「いや、素麺でいい。今あんまり重たいもの食べる気力ないから」



二人は俺が帰宅する前に食事を終えていたのか、リビングダイニングのカウンター前にあるテーブルには俺の分だけ膳が用意されていた。
ガラス製の器に、氷と一緒に一人前よりは少しだけ少なめに用意された素麺と、小鉢に刻んだ胡瓜と卵とハムが添えられている。
卵とハムが胡瓜より少し少なめなのは、胃が重くなり過ぎないようにとの配慮だろう。
油分は正直今の俺にはしんどいから、有り難い。



「食べれるようでしたらお豆腐もお切りしますけど、如何されますか?」



これまた胃の中に流し込められるような食材の提案。
俺の体調や精神状態を考えて用意してくれるのは有り難いが、今日はあまり食欲も湧かないので、首を振って断った。
心の中で食事を用意してくれた二人に感謝しつつ、いただきます、と手を合わせれば、どうぞ、と二人が笑ってくれた。

黙々と、素麺を食べる。
料理は美味いが、正直今日の疲れが風呂に入った段階で大分押し寄せていたため、若干食べるのが億劫に感じる。
風呂から上がった気だるさもあって、少しばかり動きが鈍い。



「大分お疲れですね」



向かいの席に座る沙良が、少しばかり心配そうな顔でこちらを見ている。
それを聞いた途端に今日の苦行が蘇ってきて、どっと疲れが押し寄せてきた。



「今日は散々だったんだ。やたらと雑務を上司は押し付けてくるし、今日初めて組まされた後輩が取引先の相手と揉めるし、それの尻拭いはさせられるし、ハゲ課長にはお前の監督が確りしていないせいだとか言われて延々と文句言ってくるし、終い目には俺には全く関係ない仕事の愚痴を聞かされるし・・・・それもこれも、俺がちゃんと仕事が出来ないせいだ。もっと俺がちゃんとしていれば仕事も早く終わったし、後輩が取引先で暴言吐くことも無かったし、ハゲ課長に文句も言われなかったに違いない。全部俺が悪いんだ。全部俺が俺が俺が・・・・」



ああ、駄目だ。
思考が負の連鎖に絡まれる。
ずぶずぶと、底なし沼に沈んで行くように、暗い闇に落ちて行く。
一気に身体が重くなり、息苦しさを感じる。
箸を持つ手も異様に重たい。

苦しい、苦しい。
酸素が不足している。
息苦しくて窒息しそうだ。

そう息苦しさに知らず空いていた左手で首を掴んでいると、不意に頭が横に引き寄せられた。

何が起きているのだと、一瞬パニックになる。
しかし顔に当たる柔らかな感触と、頭に回されたそれが腕だと分かると、すぐに状況を理解した。
どうやら負のスパイラルに陥っていた間に、沙良が席を立って俺の隣に移動していたらしい。
俺の頭を優しく引き寄せて、胸元で優しく抱きしめてくれている。
そしてそのまま、お疲れ様です、と言って優しく頭を撫でられれば、息苦しさが和らいだ。



「・・・髪、まだ濡れてるけど良いの?」

「いいんですよ」



でも後でちゃんと乾かしましょうね、と言って、沙良は優しく包み込んでくれる。
俺は持っていた箸を皿の上に置き、身体を捻っては、ぽふり、と擬音が付きそうなその弾力のある柔らかな胸に顔を埋め、そのまま細い身体をぎゅっと抱きしめた。
じんわりと、人肌の暖かさが服越しでも伝わる。
それは染み込むように、俺の心にも広がった。

さわり、さわり。
ゆっくりと頭を撫でられる。
その度に身体に感じていた重さが軽くなり、力が抜けていく。

ああ、これだ。
これを俺は求めていた。
今日一日あった苦行も、疲労困憊な心身も、これを得るために鞭打って働いてきたのだ。



「・・・・気持ちいい。癒される」



もっと撫でてくれ、とせがめば、沙良は小さく笑って撫でてくれる。



「今日も沢山頑張りましたね、偉いですよ」



いい子、いい子、と優しい声音が俺の脳髄を溶かす。
髪を撫でながら優しく包み込まれる感覚に、幸福感でいっぱいになった。
ああ、俺は今幸福だ。
そう内心で幸せを噛み締めている。

だというのに、こういう時には決まって邪魔が入る。



「もー独歩ばっかずりーし!」



案の定、沙良の隣の席に座っていた一二三が、唇を尖らせ、不貞腐れたような表情で抗議の声を上げた。
急激に現実に引き戻されて、幸福感が少しばかり遠退く。
頼むからもう少しだけ黙っていてはくれないか、と内心毒づきながら、埋めていた胸から僅かばかり顔を離して、一二三に顔を向けた。



「お前、さっきまで耳掻きしてもらってただろ」

「確かにそうだけどぉー、でも不満だし!」



オレっちだって沙良が足りない、と言って席を立てば、沙良の背後へと回り込む。
そのまま沙良の首元に腕を回して、抱きしめた。



「あ〜沙良超柔らかい。良い匂いがする」



ぎゅっと抱きしめつつも首筋に顔を寄せれば、沙良は擽ったそうに笑った。
どうやら一二三の髪が首筋を擽っているらしい。
擽ったいです、と言いながら、沙良は俺の頭を抱きしめていた片腕を一二三の頭に持って行き、その髪を優しく撫でた。



「一二三さんもお仕事頑張りましたね、お疲れ様です」



なでなでと、自身の肩口にある一二三の髪を撫でる。
その表情は慈愛に満ちていて、まるで聖母のようにも見えた。

内心自分の頭を抱きしめていた腕が無くなったことに不満を抱いているが、ゆっくりと瞼を閉じながら嬉しそうに笑う沙良を見て、俺はそのまま彼女の胸に再び顔を寄せる。
きっと彼女は今が幸せなのだ。
ならばそれを壊すのは憚られた。

ぎゅっと、腰に回す腕に少しばかり力を入れる。
もっと撫でてくれ、と暗に伝えれば、それを汲み取ってくれたのか、俺の頭を撫でることを止めていた手が、再び柔らかく撫で始めた。

さわり、さわり。
髪越しに優しく撫でられる感覚に目を瞑る。
再び幸福感が広がり、癒される。



「お二人とも、明日はお休みなんですよね?」



そう沙良が問えば、言葉は違えど俺達は揃って肯定の返事をする。
それに小さく彼女は笑うと、じゃあ明日はいっぱいお二人を甘やかしてあげますから、沢山甘えて下さいね、と言って、小さく俺達の頭を抱きしめた。

ああ、きっとこれが幸福。
そう内心で呟きながら、暖かな時間に身を任せた。






















2018,7,28


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