イノセントヴィーナス | ナノ



「僕は・・・お前が嫌いだよ」



そう言って彼は、苦しそうな顔をした。





Le mensonge d'un pécheur








組織に囚われてから数日。
私は檻の中に閉じ込められていた。

訳の判らない実験に駆り出されては部屋から連れ出され、それが終わればまた同じ場所に戻される。
扱いは捕虜の割には丁寧だととれるけど、それでもやはり私は実験材料としか思われていない。



「・・・今日の食事だ」



そう言って仁は私に質素な食事を床に置き、差し出して来る。

仁はこの組織についてから、私の世話役を担っているようだった。
だからこうして食事を持って来る。
けれどもこの人の私への扱いは昔のように人としてのものではなく、動物の餌やりと何ら変わりない。
まるで義務的に檻の中に入れられた小動物に餌を遣る、飼育委員のようだった。



「・・・ありがとう」



私はそんな扱いをして来る仁にも、未だに笑みを向ける。
昔と同じように、感謝の意を込めた笑みを。

すると仁は眉根を寄せて不機嫌な表情を見せた。



「・・・その笑いを、止めろ」

「・・・え?」



急に冷たく睨んでそう述べた仁に、私は眼を瞬く。



「どう・・・して?」



私には、笑う資格がない。
そう言いたいのだろうか。

私は困惑の表情で仁を見上げる。



「・・・・僕が、気に入らないからだ」

「じ、ん・・・・・」

「その名も呼ぶな」

「っ・・・」



仁は、私を制する。

彼の名を呼ぶなと。
彼に微笑みかけるなと。

でも、その度に。
彼の瞳には哀しみが浮かんでいることを、彼自身は気付いているのだろうか?



「どうして、そんなことを言うの・・・?」

「・・・・・」

「沙那は、仁に何もしちゃいけないの・・・?」



そんなの悲しい。
そんなの淋しい。

そう言うと、仁は益々不機嫌な表情になっていって。



「お前は僕に何かする必要はない。お前はただ、組織のなすがままにそこにいればいいんだよ」



それ以外は求めていない。
それ以外は不必要。
お前はただの実験動物としてそこにあればいいんだ。

彼は残酷なことを淡々と言う。



「お前は今、組織のただのモルモットだ。そんなお前に名を呼ばれたり笑顔を向けられるのは気分が悪い。怖気が走る」



だから実験動物らしく、何もするな。
そう彼は私を見下ろして冷徹なまでの冷めきった表情で述べた。

ああ、でも私はそんな彼を見ても気付いてしまう。
彼の心の内が、私には判ってしまう。

冷徹なその仮面の向こう側。
その瞳の中に、哀しみと苦しみと後悔が渦巻いていることに。

私は、気付いてしまう。



「・・・仁は」

「・・・・・」

「仁は、まだ私たちのことが好きなんだね」



そう言うと、彼は心底嫌そうな表情を作った。

でも、私には判っている。
仁は私の言葉に酷く動揺していることを。



「戯れ言だな」

「戯れ言、なのかな?」

「当然だ」

「じゃあ、どうしてそんな眼をするの?」



その私の問い掛けに、仁は首を傾げた。



「眼?」

「そう、眼」

「意味が判らないな」



不機嫌そうに仁は私を見下ろしている。
私はその仁の反応で、瞳に浮かぶ憂いは無意識のうちに溢れて漏れていたものなのだと確信した。

だから私は真っ直ぐに仁を見返す。



「仮面は」

「?」

「仮面は、顔を隠すもの」

「・・・」

「仮面は、その人の表情を隠すもの」

「・・・」

「でも、その仮面にも隠せない場所が一つだけある」

「・・・」

「どんなに嘘で覆っても、嘘を貫いても」

「・・・」

「仮面から覗くその瞳だけは、真実を伝えているの」



そう私が言うと、仁は酷く困惑した表情をして。
慌てて私から視線を反らした。
口元を手で覆って、動揺した様子を隠している。



「仁が沙那に名前を呼ばれるのが嫌なのは、未練があるからだよね」

「・・・・・」

「仁が沙那に笑い掛けられるのが嫌なのは、今の自分が揺らいでしまうからだよね」

「・・・・・」

「だから仁は、沙那から逃げようと────」

「五月蝿い!!」



私を遮るように発せられた怒声。
そして両肩を乱暴に掴まれた鋭い痛み。

その痛みに顔を僅かに顰めつつも仁を確りと見やると、彼は酷く焦燥にもにた困惑の表情を浮かべていた。



「僕はお前から逃げている訳じゃない!」



焦ったように。



「僕はお前らに未練がある訳じゃない!」



困惑したように。



「僕は、僕は───!!」



切羽詰まったように。



「っ・・・・・僕は・・・・」



遂には、弱々しく。



「僕は・・・お前が嫌いだよ」



そう言って彼は、苦しそうな顔をした。
仁はそのまま私の肩に顔を隠すように頭を乗せる。

瞳はもう見えなかったけれど、それでも私が仁の思いを汲み取るには十分で。
だから彼の嫌いは全くの嘘だと言うことを、私は判ってしまった。

そんな仁を見て、私は微笑む。
彼が真に望んでいることは、微笑むことを禁ずることでも名を呼ばれることを禁ずることでもない。
彼が真に望むことは、私が微笑んで、名を呼んでくれることだ。

だから私は彼に微笑む。
そして微笑んで、名を。



「仁・・・大好きだよ」

「っ・・・・!!」



そう言うと肩口に彼が息を詰まらせたのが判った。



「・・・・・」



仁は何も喋らない。



「・・・・・」



仁は何も語らない。



「・・・・・」



それでも息を呑む彼の姿で、私は彼が安堵感と喜びを得ていることを感じ取った。










暫くの沈黙の後。















「・・・やっぱりお前が、大嫌いだよ」















そう言って、仁は私の首筋を憎たらしくも愛おしげに噛んだ。

























【お題元:橙の庭
2009,1,1