デュラララ | ナノ



「沙良」



放課後、教室の掃き掃除に勤しんでいる中、不意に名を呼ばれて私はその声のし遣る方へと振り向いた。
するとそこには軽く微笑みを携えた臨也さんが教室扉の前に立っていて。



「待ってるから」



そう主語も無しに臨也さんは告げると、私をじっと静かな眼差しで見つめて来る。
私はそれを見て小さく笑うと、掃除が終わったらすぐに向かいますと言って、自分の仕事へと戻った。





























ギィィ

油の抜けた金具が悲鳴を上げる声が響いた。
私はそれを耳にしながら開け放った扉を潜り、屋上へと足を踏み入れる。
すると目の前には青空と、その中に佇む臨也さんの後ろ姿が視界に入った。

臨也さんはフェンスに片腕の指を掛けながら、じっと空を眺めている。
ただぼんやりと、私が近づいていることにも気付かずに。



「臨也さん」



私はその後ろ姿に声を掛けると、臨也さんは一瞬びくりと体を跳ねさせて、少しばかり慌て気味に私の方へと振り返る。
僅かに驚きの色を見せたその表情は、普段余裕げな表情を浮かべる彼にしては珍しい。
どうやら余程驚いたようだ。
しかしそれもすぐに消え去り、綺麗な顔に少しばかり苦笑を浮かべる。



「ごめん、気付かなかった」

「みたいですね」



くすくすと私が笑うと、臨也さんは困ったように私を見る。
少しばかり眉尻が下がったその表情がなんだか可愛く見えて、私は口元に手を添えながらまた笑った。
それを見た臨也さんは別段怒ることもせず、ただ小さく溜め息を吐いてみせる。
呆れられただろうかとぼんやり思うと、私の右の袖をぎゅっと軽く引っ張られた。



「沙良」



少しばかり縋ったような眼をしてじっと私を見下ろし、臨也さんは名を呼ぶ。
私はその瞳に彼が伝えたいことが判って、その場から少し移動し、フェンスの柱に背を預けてその場に座った。
すると臨也さんは直ぐ様私に近寄って、自分も膝を地に付ける。
そのまま体を仰向けに寝転がると、私の膝の上に頭を置いた。

膝に今となっては心地良くなってしまった頭の重みを感じると、私はその綺麗な黒髪に指を通す。
短く切られたそれを撫でるように梳いてやれば、臨也さんはくすぐったそうに眼を細めた。



「今日は、どうかしたんですか?」



そう問えば、臨也さんは途端に表情を消す。
そして少しばかり気まずそうな色を見せると、視線を反らして眉を顰めた。



「・・・別に。ただちょっと、昼寝をしたいと思っただけ」



臨也さんはぶっきらぼうにそう呟く。
その様はなんだか拗ねたように私の眼には映って、少しばかり苦笑した。





私には彼に何があったのかは判らない。
彼は私に何かを語ることも教えることもないので、それを予想することは出来ない。
何の情報も無い相手を予測する手段など、あるわけがないのだから。

けれども私にも判ることはある。
何も彼について知らない私ではあるが、それでも確実に彼のことを少しは判るのだ。

例えば、彼は今少しばかり淋しがっているということ。
例えば、彼は今人の温度を恋しがっているということ。
例えば、彼は何も詮索されたくはないがそれでも構って欲しがっているということ。

そういったことは、今の目の前の彼を見れば手に取るように私には判る。
他の誰にも判らないかもしれないが、私にはよく判った。

彼は酷く不安定な人だ。
だから誰も彼もが彼を嫌う。
当然彼が他人にして与えてやることは非情で不快極まりないので、それが気に喰わないのもあるだろう。
でもそんな彼にも、負の部分と言うものはある。
必ずしもいつも気丈で、全てを見透かしたような余裕な人間ではないのだ。

そんな彼は心が少しばかり弱ると、決まって私を屋上へと呼ぶ。
そして私の膝を借りて、静かに放課後の空気を感じながら眠るのだ。





だから私は深く追求したり、詮索したりしない。
ただ目の前のこの不安定に揺れる瞳を癒してあげたい。
それだけの気持ちで、私は彼に膝を貸し頭を撫でる。



「臨也さん」



優しく名を呼べば、臨也さんはまだ少しばかり眉を顰めて私を見上げる。
その瞳はやはり不安に揺れていて、不安定だ。
そして同時に、酷く淋しそうで。



「私は、ここにいます。だから安心して、眠って下さい」



そう微笑んで呟けば、臨也さんの瞳は少し見開かれ、安堵の色が浮かび上がる。
それと同時に体からも力が抜けると、臨也さんは片腕を上げて私の頬に触れた。

それは綴るように、そっと。
頬の輪郭を沿うように指先を走らせると、私の唇にそれは行き着く。
優しくその唇をなぞれば、臨也さんはまた少し淋しげな表情を浮かべた。



「君は、なんで俺が欲している言葉が判るんだろう。なんで君は、俺が欲している行動が判るんだろう」



少しばかり哀愁を交えた声音で、臨也さんは呟いた。
私を見上げるその瞳は何かに安堵しているようにも見えるが、同時に何かに怯えているように私には映った。
私はそれに苦笑すると、唇の上で止めていた彼の指先を軽く掴んで離す。
臨也さんはそれになすがままになりながら、私は髪を梳いていた手を止めて、彼の瞼をその手で覆った。
そうすれば、彼の瞳は私には映らなくなる。



「沙良、」



弱々しく臨也さんは呟くと、私のその手をどかそうと空いている腕が伸びて来る。
けれども私はそれよりも先に言葉を発すると、その腕は途中でぴたりと止まった。



「私があなたのことを判るのは、きっと私があなたのことを何も知らないからだと思います」



その言葉に彼は止まったまま、動かない。
そして数瞬の間を置くと、伸ばされた腕は私に届くことなく降ろされた。



「私は、ある一定の条件を満たしていれば、人の心情を読み取るのが常人のそれより長けているそうです。そしてその条件は、相手について深く知らないこと。知らなければ知らないほど、私は相手に対して過敏にその心情を読み取ることが出来るそうですよ」



だから臨也さんのことが判るのだと思います。
そう言えば、臨也さんは私が指先を握ったままの手をぎゅっと握りしめる。
それはどこか震えているようで。
私はそれに握り返してやると、眼を塞いだ臨也さんを優しい気持ちで見下ろしながら続けた。



「それと、きっと私が臨也さんを好きだからだと思います」



好きな人にとっての癒しでありたいと思うのは、当前のことでしょう。
私はそう優しく告げると、臨也さんの握りしめる手が一瞬びくりと震えた。

もしかして軽蔑されてしまうかな、と思いながら、私は彼の眼を手で覆ったまま、じっと見下ろす。
すると臨也さんは不意に私の握りしめる手を引き寄せたかと思うと、その掌に口付けた。
ちゅっと、少しばかり濡れたリップ音が鼓膜に響く。
それに私は軽く頬を染めると、臨也さんは口を開いた。



「・・・もう、寝るよ」



ただそれだけ呟くと、臨也さんの体から力が抜けていく。
膝により重みが感じると、私は彼の眼を覆っていてよかったと小さく安堵した。





きっと今の私は顔が真っ赤だ。
告白したのも然りだが、それ以上に彼の口付けに私は酷く動揺していたのだから。
こんな私は見られたくない。
彼に見せる私は、いつも包み込むような優しさを携えた私でありたいのだから。
彼への好意を露呈しても、決してそれに左右されないような存在でありたいのだから。

だから、これで誤摩化せてよかったと思った。
そして同時に、私が告白したときの臨也さんの瞳を知れなくてよかったとも思った。

だって彼の瞳を見たら、全てを理解してしまうだろうから。
彼が私をどう見ているのか、どう思っているのか。
全てその瞳を通して、理解することが出来てしまうから。
そうすれば私は無用の長物となってしまう。

そんなのは、嫌だ。
それだけは、嫌だ。

だから私は彼について知れなくてよかったと思う。
私は彼について知らなければ知らないほど、彼の不安や淋しさを察して癒してあげることが出来る。
私は彼にとってそれだけの存在でいい。
そんな存在でいいのだ。





寝息を発て始めた彼を私はじっと見下ろす。
そしてその眼を覆っていた手を退けた。
すると安らかに眠る臨也さんの表情が見れて、私は嬉しさに頬が緩む。

別に恋人になりたいだなんて思わない。
別に必要不可欠な人間になりたいだなんて思わない。
ただ私が望むのは、この不安定な人を一時だけでも癒してあげられる存在の一人であればいいのだ。

この感情が恋なのか、それともそれ以外の何かなのかは正直よく判らない。
それでもやはり、私はこの目の前で安らかに眠る人が好きなのだと、思った。





















使



2010,5,5