イライラ、イライラ。
どうしようもなくイライラする。
つい先ほど殺したいほど憎い相手に遭遇。
いつも通りにぶっ殺そうと追いかけたが、まるでノミみたいにぴょんぴょん跳ねたかと思えばいつの間にか逃げられていた。
腹立つ。
苛つく。
頭来る。
殴りたい奴を殴れなかった苛立だけが、俺の中を支配する。
イライラ、イライラ。
俺は苛立を持て余し、抱え込んだまま歩みを進める。
歩いていれば皆俺を見た途端息を呑んで遠ざかる。
きっと今の俺はそれだけ怖い顔をしているのだろう。
だがそんなこと関係ない。
どんだけ俺が酷い顔をしていようと、それが例え凶悪殺人犯のような形相をしていようと、そんなの関係ない。
周りがどう思うとそんなのに構っていられるか。
ただ今の俺は、ひたすらにこの持て余しているイライラをどう解消するかに意識を向けていた。
イライラ、イライラ。
どんなに歩けどイライラは止まらない。
ああ、腹立つ。
ムカつく。
ズボンのポケットに両手を突っ込みながら校舎裏に回ると、その白い壁に背を預ける。
そのままポケットから手を出し、同時に取り出した箱から一本の煙草を引き出すと、それを口にくわえて火をつけた。
ぼっ、とライターから赤い炎が揺らめく。
それが先ほど殺し損ねた奴の眼を思い出して、益々イライラした。
バキリ、と些か耳には宜しくない音が響く。
じっと音の根源に眼を向け握り締めていた手を開けば、無惨にも胴体のプラスチックが粉砕されたライターが手の内に転がっていた。
ぼたぼた、と未だ胴体に残っていた燃料が掌から滴り、地面に染みを残す。
それを見て、やってしまったと思った。
まだライターは半分も使っていなかったのに、以前のものと同様に使用半ばで大破させてしまった。
未だにライターは使い切ったことがない。
それに少しだけ残念がるが、壊してしまったものはどうしようもない。
そう簡単に諦めると、これからはマッチでも使うかなとぼんやり考えながら、手元のそれをどうしようかと睨んだ。
どうしたらいい。
手元には粉砕されたライター。
これは本来学校に持って来ていいものではないので、そう簡単にゴミ箱には捨てられない。
そして手元を濡らすオイルを拭うものを、今の俺は持っていない。
普通の水と違うそれは、放置していれば時期乾くだろうとそう簡単に捨て置ける代物ではない。
さてどうしようか。
取り敢えず水洗いだけでもしに行こうかと考えながらも、イライラは募っていく。
「あー・・・・イラつく」
全部に腹が立つ。
殺し損じたクソ蟲にも腹が立つし、目の前で握り潰してしまったライターにも腹が立つし、手を洗いに行かなくてはいけないのにも腹が立つし、ゴミ処理をしなくてはならないのにも腹が立つ。
だが何よりもやはり腹が立つのは、このイライラが収まるどころか益々度を増していることだ。
煙草をくわえ、煙を噴かしながらイライライライラと俺は手元を睨み据える。
途端、ベシャ、と妙な音が頭上から響いた。
いや、頭上で響いた。
俺の、正に、その、頭の上で。
妙な衝撃とともに、響いた。
訳の判らないその衝撃に、またもや苛立を募らせながら、俺は自分の頭に乗ったそれを手にしてみる。
すると、妙なものが視界に映った。
「ビニール袋に・・・・濡れたハンカチ?」
透明ビニール袋の中に、僅かに濡れた水色のハンカチが入っているそれを掲げながら、俺は首を傾げた。
何故こんなものが頭の上にあるのだと眉を顰めながら、俺は頭上を仰ぐ。
しかしそこには三階の校舎の窓がただ開け放たれているだけで、それ以外は蒼い空がひたすら広がっているだけだった。
「・・・なんだ?」
訝しげに首を傾げる。
しかし首を傾げたところで何も変化は起きない。
じっと頭上を見上げても、開け放たれた窓から誰かが顔を出すわけでもないし、空から何かが降ってくるわけでもない。
ただそこには、呑気な昼下がりの世界があるだけだ。
何も起きない頭上から視線を逸らすと、じっと手元に視線を注ぐ。
手元には、先ほど落ちて来たビニール袋に入った濡れたハンカチと、粉砕されたライター。
その両方をじっと見つめて、俺はライターであった代物を落とさないように気をつけながら、おもむろに袋からハンカチを取り出した。
そして中身の空っぽになった袋にその残骸をぼろぼろと落として、しまい込む。
オイルでべとべとになった手元には、片手に残っている濡れたハンカチを広げてごしごしとそれを拭った。
水気が取れると、手元がすっきりする。
少しばかりまだオイル臭いが、それは仕方のないことだろう。
その行動を終えると、漸く俺は気がついた。
この突如頭上から降って来たこれは、俺のこのライターであったものを処理するためのものだということに。
俺は頭上を仰ぐ。
しかしそこにはやはり、何の変化も無い。
ただ青々とした空が、俺の視界を埋め尽くす。
背を壁に預け煙草を噴かしながら、ぼんやりと俺はそれをじっと見つめる。
さんさんと、降り注ぐ陽光。
ちゅんちゅんと、さえずる小鳥の鳴き声。
さわさわと、揺れる木の葉の掠れる音。
さわりと優しく風が頬を撫ぜれば、さらさらと俺の髪をなびかせる。
世界は酷く、平和だと思った。
その平和の中に、またひとつ音が響く。
それはどこまでも澄んだ音。
まるで春風のように穏やかで、爽やかで、優しい音。
その音は緩やかなメロディを奏で、空に響く。
自然との歌に合わせるように、美しく、晴天の空に響き渡った。
それを耳にしながら、俺はその音が人の声音であると気付くのに少しばかり時間が掛かった。
それほど、自然との調和がとれた音だったのだ。
澄んだ歌声が響く。
それはどこまでも透明で、美しくて。
気がつけば、俺の苛立は消えていた。
ついさっきまで、あんなにも苛立っていたのに。
その片鱗も感じさせないほど、俺の心は静かになっていた。
すぅ、と肩から力が抜け、ゆっくりと眼を閉じる。
どこまでも透明な歌声は、俺の心を優しく癒した。
再び、眼を開ける。
ゆっくりと瞼を開く。
するとまた青空が視界に広がる。
その世界は妙に美しく、俺の眼には映った。
なにも変わってはいないはずなのに。
それなのに、妙に世界が綺麗に見えた。
俺の口元から空に向かって煙が立ち上る。
それが何故か今はその世界を壊しているように感じて、半ばほどまで短くなった煙草を地面に落とす。
そのままそれを足で踏みつけ火を消すと、ポケットから携帯灰皿を取り出し、煙草の残骸を取り上げて閉まった。
「よし」
そう呟くと、また俺は背を壁に預けながら、蒼い空を見上げる。
また世界は美しく広がり、俺の心に安らぎを与える。
歌声はどこまでも優しく俺の心に語り掛け、静かに胸を高鳴らせる。
「・・・この声の主に、会ってみたいな」
その呟きはただ呟きのまま、俺はその場から動こうとはしない。
ただじっと、俺はこの心地良い世界に身を投じて、輝かしい空を見上げ続けた。
きっと今の俺は、幸せそうな笑みを浮かべているのだろう。
空に捧ぐ歌に
恋をした
2010,4,23