Missing | ナノ


血のように赤い空。
漆黒の闇のように暗い影。
枯れ草の中に微かに混じる、鉄錆を含んだような匂い。

ここは───異界と言う名の、魔界。





永久に、二人で。








ぱしゃっ



鏡のようにぴんと張り詰めていた水面が、そんな音を発てて壊れた。

鏡を壊したもの───空目恭一は、小さな池の中央に立って大量の空気を肺に送り込んだ。
懐かしい、枯れ草の中に鉄錆を含んだような香りが空目の鼻腔を擽る。

ずっとずっと恋焦がれていた世界の、匂い。
異界の、香り。
空目はずっと夢見てきた。
自分がこちら側───つまり異界の住人になることを。

そして今、念願の願いが叶ったのだ。

魔女、十叶詠子が企てた計画───否、願い───を壊すことによって。
また、空目が神の玩具、つまり贄となることによって。

空目は自分の願いを、望みを、叶えたのだ。

だが空目はそう易々と神の遊び道具になどなるつもりはなかった。
同時に魔女の手助けなどする気も更々無い。
魔女が異界を現界に引き込もうというのなら、空目は現界の異界を連れ戻す。
だから空目は自分のしなければならないことをするために、この場から動き始めた。

空目が前へと歩く度に池の水面が歪んで行く。
現界からこちら側へと渡って来た鏡はもう、跡形も無くなっていた。
水分を含んでいるために重くなった黒いコートを少々煩わしく思いながら、空目は池から出る。
黒い漆黒の影を地に伸ばし、まるで地面など無いように見える闇の地に足を付け、池とは反対側へと歩くために地を力強く踏みしめた。

だがその足は数歩歩いただけで止まってしまう。
空目は顔を僅かに顰めながら、その要因の方へと振り返った。



「・・・・・どうした、あやめ」



空目の低い声が辺りに響いた。
いつもならば空目の後を少しばかり遅れながらついていくあやめは、未だ池の中央に立っていたままだった。

あやめは黙ったまま、俯いている。
この世界の赤色の空のせいで、俯いているあやめの顔には濃い影を落としてしまい、その表情を垣間見ることは出来ない。



「あやめ」



空目は再度あやめの名を呼んだ。
あやめはその声に一瞬だけ体を震わせ、おずおずと口を開き始めた。



「・・・・・私はもう、あなたのお側にいさせてもらえる理由が・・・・・ありません」



小さな可愛らしい声で、悲しそうにそう呟いた。
空目はその言葉に首を傾げる。



「どういう意味だ」

「・・・・・私は・・・・・私はあなたに、あの日、拾われました。・・・・・けれどもそれは、あなたがあのとき、まだこちら側の存在ではなかったから。・・・・・だから私を拾ったのでしょう・・・・・?」

「・・・・・・」

「けれどももうあなたはこちら側の住人です。・・・・・だから、もう私があなたのお側にいさせてもらえる理由がありません・・・・・・。だから、私は・・・・・・・・」

「ふざけるな」



あやめは空目のその一言に身を振るわせた。
その声音にはあまりにも強過ぎる怒気が含まれていたからだ。

あやめは慌てて俯いていた顔を上げ、空目を見た。

空目のその表情は酷く怒気に溢れていた。
普段の空目では絶対に見せない表情。
あやめはその表情に体を凍らせた。

そんなあやめに構いもせず、空目はあやめの元へと歩き始めた。
つい先程出たばかりの池に再び足を踏み入れ、体を水の中へと浸してゆく。
近づいて来る空目にあやめは恐怖を覚え、震える足を必死に動かし、後ずさった。

けれどもあやめと空目の距離はあっという間に縮み、後ずさりしていたあやめの右手を空目が掴む。
あやめの体が大きく震えた。



「俺は最初に言ったはずだ。『お前が欲しい』、と」

「で、ですが、それは・・・・・」

「俺は一度もお前を『捨てる』とは言っていない。だからお前が俺の側から離れることは許さない」



空目はあやめの眼を見据え、有無を言わさぬ声音でそう述べる。
そんな空目にあやめはたじろいだ。



「けれ、ども。・・・・・けれどもあなたはもう、私の持つ力を全て持っています。私の存在価値は、もう、あなたには────」

「誰が『無い』などと言った。俺はお前を手放すつもりは無い。お前はこれから先もずっと、俺の側にいてもらう。俺が望む限りお前の存在価値も、存在理由も。その全てはここにある」



そう言って空目はあやめを引き寄せ───その体を抱きしめた。

あやめは目を見開く。



「お前は俺と共にいろ」



空目は耳元で呟く。

その声は切なさを含んだ声音で。
まるで切望しているかのようで。



「・・・・・・わた・・し・・・は、お側に・・・・・あなたの・・・・・・お側にいても、いいのです・・・・・・・・か?」



あやめは震える声で問いかけた。
そんなあやめを空目は強く抱きしめて。



「ああ」



と、優しい呟きを返した。

その言葉と声はあやめの心を満たす。
嬉しさで涙が溢れた。

あやめはその空目の言葉に答えるかのように、ぎゅっと、空目を抱きしめ返す。















この先何があろうとも、彼が望む限り、ずっと、ずっと───永久に、二人で。




















2007,3,8


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